続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「わたしは、マリア・カラス」

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2017年フランス作品/原題:Maria by Callas/トム・ボルフ監督/114分/日本公開2018年12月21日〜

 

今年重点的に見ようと思っている音楽映画。これはドキュメンタリー。

劇映画も過去に作られていて、(「永遠のマリア・カラス」2003年製作)劇中のマリアの手紙を朗読するのは、「永遠〜」で彼女を演じた女優、ファニー・カルダン。抑制の効いた素敵な声だった。

 

全体にマリア・カラスという自分に正直に生きた才能豊かな女性への愛と尊敬が率直に感じられる作りになっていて、何の過剰なこともしないことが好ましかった。

何かを暴こうという意図なく、ただ実像を素直に浮かび上がらせたいということ、当時の映像の多さ、彼女の歌唱シーンをじっくりとフルコーラスで聴かせるパートを大事に作っていたこと。品格を感じる作品だった。

 

とにかく歌は素晴らしい。人間の体がもっともすぐれた楽器であることを思わせずにはいられない、音を響かせ増幅させる機能に特別に優れていた恵まれた身体と、同時に強くエモーショナルなプレゼンスを持つ。

ただ音声として彼女の声が流れるのと、彼女が情感を込めて歌い上げる映像でもって見るのとでは、大きく印象が異なる。

観客は、音楽を聴く時にどれだけ歌い手や演奏者がその音楽にのめり込んでいるのかを見たいものだから、歌の素晴らしさはもとより、彼女の見た目や女優として優れた表現も人々を夢中にさせた要因なのだなと改めて感じた。

 

こうした作品では、他のスーパースター同様、ある種の奇形といえるほどの突出した才能を持って生きる者の業という側面でどう転んでも描かれざるを得ないのはやはり共通しているのだけど、彼女は良い意味で普通の女としての自分を見失わなかったのだなと感じた。

 

マリア・カラスの素晴らしい才能は、大きな成功をもたらすのと同時に、多くの人々に対して彼女の才能を全うするという、理不尽なまでの大きな責任を彼女に背負わせることになった。

彼女は「みんなのもの」になり、人々の強すぎる憧れと愛情は、裏腹に妬みや嫉みをはらみ、義務感で彼女を縛ろうとした。

 

彼女に限らないことで、いつの時代も多くのスターがそのような立場に追い込まれるのが常なのだと思う。

今NGT48のアイドルの事件が取り沙汰されているけれど、山口さんというアイドルの方の基本的人権がありえないほどおざなりにされていることが明るみに出たことも、芸能プロダクションや女性差別ももちろん大きな原因だけれど、「公の人の人権は軽視されても仕方ない」とみる思想の氷山の一角と思う。

 

巨大な才能に課せられた義務と役割の中でずたずたに傷つきながらも、歌と自分の愛する人への思いをまっすぐ貫き、なにより自分自身を愛する人であることを諦めなかったマリアの強さと誇り高さが心に残る。

 

晩年、オナシス氏が戻ってからの彼女の顔がどんどん柔和でたたずまいが穏やかで謙虚になっていくさま、何の説明もなくただ映像にあらわれている彼女の晩年の孤独で落ち着いたさまが素敵だった。

 

やはりどんな特技や才能や特性があろうとも、その人の人生を深いところで満たすのは生活者としてのその人がいかに安定しているかにかかっているのだと思う。

人々があまりにそう扱うから、自分自身も自分を特別な者のように思い込んで生活者としての自分をおざなりにしてしまうことが、多くの人生を狂わせてしまう。

 

一人ひとりの人間は分け隔てなくちっぽけで取るに足らない。誰もがたった数十年で死んで行くのだ。

どんなに大衆が特別な役割を課そうとしても、明け渡してはいけないものは断固としてあり、どんなに有名な人であろうとも、人には自分の人生を守る権利があるのだ。

そんなことを感じながら見ていた。

 

 

次に見たい音楽映画は、ホイットニー・ヒューストンのドキュメンタリー。こちらも相当にすごそうだ。