続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

役員システムとは何ぞや 3

1年苦行に耐えて、不幸の手紙みたいに次にそそくさとバトンタッチしたら、後はもう知らない。

大体、やっと内実が分かって来たころには1年が終わりかけているから、根本的な問題提起もできないまま、任期終了を迎えるという流れが毎年繰り返される。

 

なんかそう思うと、3年前の自分も今の役員さんも気の毒で、もうやりきれない気持ちになった。

 

 

これって、子ども会だけに限らないと思うのだ。

 

常々不思議だったのだ。

 

役員大変大変言いますけど、実は年に数回の行事や、月に1回の会合などの活動が中心で、少なくとも仕事のように常に拘束されるわけでもないのに(だからこそ配偶者の理解も得られにくく、お金を生む活動でもないことで軽んじられてストレスが倍増しがち)、任期中の重荷感がなぜにこんなにハンパないのか!?と。

皆泣きそうになる勢いで、なんとか必死に避けて通ろうとするのか!?と。

  

自分を振り返ってみても、役員を引き受けるのは、「みんな大変なのに自分だけ知らんぷりできない」という理由が一番だけれど、でも本来私は結構手伝いたい人なのだ。お金も別にどうでもいいが、持ち出しは嫌だ。

 

一体、何がそんなにも苦痛なんだろう?

ひとつには、あらゆる役員って、ほとんど自分の正直な気持ちを表明できないし、疑問を呈することも、問題提起することも許されないきゅうくつさの中でやっているということがあると思う。

 

また、あらゆる役員絡みの会合で何をしてるのかといえば、

「わたしちゃんと完璧に義務を果たしています」「わたしもちゃんとやってます」

という報告を互いに延々と辛気くさい顔をして繰り広げているだけ、になりがちなのだ。結構な確率で。

 

人間は、本当に強制や義務や減点方式の中で活動すると、ろくなパフォーマンスを発揮できない生き物なのだなあと思う。

何一つ自分の思いは反映されない、意義があると思うことが何もできない、決められたことだけをきちんとやればいい、誰にも感謝されず、報酬もゼロです。

そりゃあ誰だって無理だ。やらずに済むならやりたくねー!となるのは当然だ。

 

だから強制ボランティアで運営する役員システムって、もう、生命力ががた下がりするシステムなのだ。

  

一方、「働き手として自分の時間と労力を供出する」そのこと自体は、実は苦痛の本当の原因ではないのだと気付く。

 

 

うーむ、うーーーーむ。そうか。

 

 そこに思い至ると、じゃあ生命力が上がることとは何かを考えてやっていけばいいんじゃね?という発見に思い至る。

 

(おっ、遠ーーくに小さくトンネルの出口が見える、気がする。)

 

 

ものごとを楽しくなくする人たちは、いつも大真面目な人たちだった。

真面目な人えらーい、と思われがちだが、周囲に圧を与えるほどの真面目は、実は場のパフォーマンスを下げる有害な存在だと言い切ってしまっていいのではないだろうか。

 

だからもう、自治会の役員では「言われたことだけ完璧にやる」ことはミッションとはしないと心に決める。

「ちゃんとやってます」の応酬は要らんし、真面目も要らん。と、言い方に気をつけつつ表明する。

楽しく、フランクにやりたい。酒の力を借りるもよし。

 

「そもそも何のためにこれがあるのか」をまず語り、「どうありたいか」をテーブルに載せ、嫌われても「素朴な疑問」を口にする。

 

「入ったばかりだからまずは郷に従って」もなし。

13年役員人生送って来た母親なめんな、である。会社人生終わってから地域社会に初めてコミットしたおじさんたちより、女たちはよっぽど役員の経験を積んでいるのだ。

 

その上で、がんばって前向きにやる。嫌々でなく心を開いてやる。うん、そうしよう。

 

 

ほんまいろいろ気付くん遅すぎや。

でも、子ども会の人の沈痛なメールや、ご近所のウワサ好きのおばさんに貧乏くじとか苦行とか散々言われていい加減腹が立ったおかげで、ネガティブの底がついて、ぱーんと跳ね返った。

 

 

むはー!長くなったがちょっとだけすっきり。今日のところはひとまずそんな気持ち。

さて、風呂に入ろう!