続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「ひつじ村の兄弟」

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2015年アイスランドデンマーク合作/原題:Hrutar/グリームル・ハゥコーナルソン監督/93分

 

イギリスとグリーンランドの中間にぽっかりと浮かぶ島、アイスランドの物語。

その名の通り氷の国で、圧倒的に強大な自然の中で生きる人々の暮らしを描く。

 

この映画の中を吹き抜ける風や、草木の香りや、こぢんまりとした家々の様子や、人々のたたずまいが、しばらく前に見た「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」を彷彿とさせる。この映画の舞台は、カナダのノバスコシア州

地図を眺めると、共にラブラドル海を挟んで向かい合わせのように位置していて、緯度はアイスランドの方がぐっと高いが、気候はきっと似通っているのだろうなと思う。

 

圧倒的な自然の前に、人々の生き方は相当決定される。

アイスランドの最果ての村で牧羊を営んで生きる人々は、一様に素朴でひかえめで、頑なだ。羊の毛で編んだ伝統柄のセーターを着込み、ふわふわでもふもふの髪やひげを生やして、人間もどこか羊っぽい。

北欧映画独特のユーモアの感覚は、不器用なまでに愚直で融通の利かない頑固な人々のありようを愛情深く見つめていることから生まれている。

 

人が生きるゆえのいさかいや裏切りなどのドラマはもちろんあれど、そこには小賢しい要領の良さや、浮き足立った興奮はひとつも見当たらない。誰も急いでいないし、人を変にせかすこともない。

 

北欧の映画を見ていると心が不思議と落ち着くのは、人がきりきりしてないし狡くないからなのかな、と思う。

 

例えば「Search」のような映画の人々は、まさに彼らと対極だ。

アイスランドの人々のたたずまいがおへそから下をしっかり大地を踏みしめて、深く呼吸していて、じっくりと言葉を少なく発する感じなのに比べ、都会の人々のたたずまいは、胸から上だけで生きている感じ。頭にかーっと血が上って熱を持っていて、常にイライラしていて、胸でハッハッと短く浅い呼吸をして、早口で賢そうなことを一方的にわーっとまくしたてているという感じだ。

 

こうして改めて書くと、都会の人間のありようってほとんど病気に近いようにさえ思えてくるな。

 

 

そして、この作品を通して改めて発見したもうひとつのことは、どうして北欧の映画を日本で公開する際にはどこか「かわいく」パッケージしようとするんだろうか、という常々抱いていた疑問についての私なりの理解。

 

本作はそもそも原題は「Hrutar」アイスランド語で「羊」である。

英語圏のタイトルもそもまま「Rambs」。

それが邦題になると、「ひつじ村の兄弟」。なんかふわっとしてゆるキャラみたいになる。コピーも、「まじめでおかしな大騒動」、どこかコミカルな印象を与えるワードチョイスになっている。

 

でもこの作品、北欧独特のユーモアの感覚はあれど、けしてかわいさを狙った作品ではない。この作品に限らず、こういうミスリーディングが北欧作品にはなぜか特に多い気がしていた。

見てみると全然違うじゃん!ってことが多くて。


北欧雑貨かわいいし、やっぱりおしゃれ可愛い「てい」のほうが商売的にいいってことなのかな。

映画の本質と違うことをわざと印象づけるのはだましていることだと思うけど、見てもらえればこっちのものということなのかな。

と、これまで単純に思ってきたのだけど、この映画を見て、これは「日本人」という人々の心性も関わっているのかもしれない、とはたと感じた。

 

この作品がとりわけ「北欧的」だったからである。

 

 アイスランドは他の北欧諸国同様、(もちろんさまざまな制度の問題や欠点はあるが)ある種洗練された社会構造を持つが、同時に他のどの国よりも圧倒的かつ簡単に人を殺すほどに厳しい自然がある。人間は自然の前にはなすすべない小さな存在だ。その環境の中で、キリスト教的な価値観に従って人々は生きている。

 

こうした条件が、北欧の「物語」を生み出すベースにあることをこの作品はよく示していると思う。

 

 

 

ものすごい不条理や純粋な悪や無意味な死、無目的な殺戮といった要素が欧米の作品にはあって、日本の作品にはほとんどない。これらの要素はとりわけ北欧の作品には色濃くあらわれているように感じる。

北欧には優れたホラー映画も多いが、意味も理解も拒むような邪悪さや何の解決も救いもない、つまり「人間の力を大きく超えたもの」への恐怖を描く。

それは圧倒的に厳しい自然環境の中に生きていて、人間はなすすべもなくちっぽけな存在で、だからこそ絶対的な一神教の神を心の拠り所に生きている心性と無関係ではありえないんだと思う。

 

「人にはコントロール不能な領域にある大きくて恐ろしいもの」と隣り合わせに彼らは生きている。それは彼らの物語の通奏低音になっている。

 

そして、そういう人間レベルでは解決できない悪や無意味性を持つ物語を日本人の心性は受け止めきれないのだと思う。

 

よく言われることだが、日本人には宗教がない、畏れる神様がいない。

そしてテクノロジーや文明が高度に発達した、人間によるコントロールが過剰な人工的社会に暮らしている。

相当な田舎に住んでいる人でなければ「大自然に人間が寄り添って生きている」ような人は少なく、大災害が起こった時以外は、忘れたみたいにして自然の力をとてもあなどって生きている。

 

それゆえ、我々は全てのことを世俗的に解釈する。

世俗的に解釈してはいけない大きく深く恐ろしいことも全部、政治や経済や世間といった説明可能な「俗なレベル」に矮小化してしまう。

 

オチをつけたり、かわいくしたりするのも、物事の本質をばーんと正面から受け止めないでいられるためのテクニックなのだ。

 

でも本当は、そこにある「自分達には到底コントロールできない、不条理や無意味性を伴う底知れぬ恐ろしいもの」はどんなに矮小化して、だいじょぶだいじょぶ、そんな怖くないし、と言ってみてもなくなりはしない。ただ直視する恐怖から逃げているだけだ。

 

映画に限らず、圧倒的に怖いものを前にすると、いつの間にか「それほどの大ごとではない」と脳内で書き換え、ただ無策にうっちゃるということはいろんなところで起こっているような気がする。

 

 

だから、この映画を見終わった後に「え!」となった自分は日本人ゆえだし、どうにも意味不明な虚空に放り出されたみたいに感じる人も少なくないと思う。

しかし、この物語は責任放棄をして放り出しているわけでないのだ。

全てを矮小化して安心しようとする私たちに、ある真実を突きつけている。

ものごとをそのままのサイズに受け止めることは、容易ではないのだ。

 

「北欧映画と日本人の心性」の話に終始してしまった。

映画じたいも好きでした。ひととき、アイスランドの最果ての地で生きて、大事にしているものが全然違う人たちの気持ちを感じる旅のような時間を過ごした。