続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

小さな願い

わたわたと盛りだくさんの週末が、何とか無事に終わった。

いろいろと考えさせられること多かった。

 

今週はどーんと重たい締め切りがひとつあるので、そこまでは家にこもってがんばり、後半にお楽しみを幾つか、という一週間になりそう。

 

このところ、そういう流れというのか、ささやかながら普段はあまり接点のないような、自分の枠外の人々との交流が多く、さまざまな発見がある。

 

もちろん普段から仕事でまるきり別世界な人を度々取材することはある。

ただ、取材は深く突っ込んだ話をしているようで、あくまでその人の限定された一面を切り取った、しかも傾聴中心のものだ。

私は取材ではどんな相手でもジャッジすることなく、いい部分を見つけることに集中するし、基本は何でも大いに感心してまずは受け入れてしまう。

時間が経つごとに自分なりに悶々と考えたりはすることはやはりあるけれど、対話中の同時進行形の葛藤って取材の場ではまず起こりえない。

 

けれど、取材と違って曲がりなりにも他者との共同作業が伴うことは、それぞれの考え方をテーブルに載せる必要があるため、他者の価値観や考えに地味に驚くようなことがいっぱいでてくる。

取材で人と話すことと人と関わることとは全然違うんだな、と気付かされる。

取材は対話だから、すごく人とコミュニケートしているつもりになっていたんだけど、それは勘違いだ。

むしろ自分が相当閉じた人間だということ、人と関わることから逃げがちでこういう暮らしになっていることを、最近改めて自覚している。

 

少ない何でも話せる友だちと家族との付き合いと、後は映画と本ばっかりですっかり満足してしまっているのは、やはり反省すべきことなのだろうなあ。

人と関わることは、楽しいことばかりじゃないが、もう本当に目を開かされることがいっぱいだ。勉強だなあと思う。

 

最近そういうなかで、驚きを持ってあらためて実感していることは、人はみな、自分が生きて経験してきたことがほぼ全てで、それを足がかりにその人の現実を見ている、ということだ。

人によって、見ている現実はこんなにも大きく異なるものだと、半ば打ちのめされるようにそう感じている。

他人を通して自分自身の偏りや思考のクセもすごく見える。

 

すごく賢い人たちは違うのかもしれないけれど、直接的で相互的なアウトプットなくしては、それに伴う齟齬や痛みもなくしては、客観性はなかなか獲得しえないのだと思う。

SNSや、今私が書いているブログのような場所でものを考え、書くことは、自分の考えの正しさを強化するような作用はあれど、客観性や俯瞰性にはあまりつながらない、むしろ隔たりを深くしていることにつながっているのではないかと思えてくる。

 

しかし私は書かないと考えることもうまくできないので、今後もきっと、日課みたいにしてコリコリコリコリ、と書かずにおられないと思います。気まぐれにプラットフォームを変えたりもしつつ。

自分なりに気をつけてはいるものの、全方位に配慮することよりは、自分の正直な思いを見つめ、考えを明らかにして整理することの優先順位の方がずっと高いので、きっと読んで不快に思われる方もおられると思っています。申し訳ないと思いますが、ここはタダで出入りも完全自由ゆえ、お許しくださいませ。

 

いずれにしても、めんどくさくても苦痛でも、「違う」ということでシャッターを簡単に降ろさないということを踏みとどまってがんばること、あんまり自分を隠したり、思ってもないことは言わず、関わった人たちと朗らかに過ごしていきたいなというのがこのところも小さな願い。