続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「裸足の季節」

 

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2015年フランス・トルコ・ドイツ合作/原題:Mustang/デニズ・ガムゼ・エルギュベン監督/94分

 

五姉妹の野性的で生命力あふれる存在感が瑞々しくエロティック。

背徳的なまでの魅力に惹き付けられる。

トルコの広々とした空気感と抜ける風を感じる光まばゆい映像。

少女達の風に大きくたなびく髪とすらりと伸びた細い足。

物語は少女達に残酷な運命を強いるのに、全てが甘やかで胸がざわめくほどの美しさをたたえていて、映像にぐっと魅入ってしまう。

 

そんな彼女らの美しさを恐れ、美しいことそれ自体が彼女らの罪であるかのように、しつけと称したヒステリックな抑圧をする祖母と叔父をはじめとした周囲の大人達。

 

どうしてこんなにも生(き)のままで美しいものを、醜い年寄りたちがよってたかって台無しにするのだろう。そんな権利が一体誰にあるというのだろう。

そんな根源的な怒りの感情がこみ上げる。

 

学校の男子生徒と海でふざけあっていたのを見かけただけだが、「ふしだらだ」という近所の老女の密告によって、世間体を気にする叔父は少女達を家に閉じ込められて出られないようにしてしまう。窓から逃げようとすると、監獄のように窓の外に溶接して鉄柵を取り付ける。塀を高くして鉄杭を立てる。もう学校へも行けない。

 

「眠り姫」の絵本で見た塔のように、監獄のような高い窓から外を眺める少女達。外には北トルコののどかな田園風景が広がっていて、平和そのもの。けれど少女達にとっては逃げ場のない地獄だ。

 

作品の中で描かれるトルコの文化ーー食事や、人々の服装や、家の間取り、その温かみ。

初めて会った若者同士が目も合わせぬうちに、お茶を一杯飲むうちに、結婚の取り決めを周囲の大人達によって勝手に交わされてしまう、驚くべき見合いの儀式。

誰でも何でも片づけばいい、犬猫のやりとりをしているかのよう。

 

現代トルコにおいては、少女達の世代と中年以上の大人達の世代の意識や文化のギャップがすさまじいことが映画から垣間見える。

若者達は欧米的な価値観を持っているのにもかかわらず、無理に古い規範に頭を押さえつけられ、従わされているという構図。

今では理不尽を通り越して正気と思えぬような古いトルコの因習に、どんなに嫌でも従わねばならないという逃げ場のない苦しみ。諦め。

 さまざまなひずみを抱えているトルコの現状が映し出されている作品だ。

 

 

彼女らを閉じ込めて自由を奪い、顔も知らぬ男の元に嫁がせるのは、優しく悲しい目をした祖母。祖母なりに、少女達のことを愛している。

そして、社会の規範を疑わずただただ従順な、かつては若く今ではすっかり年老いてしまった物静かな女たちが、美しい彼女らに醜い色と形の服を無理に着せ、料理や裁縫を手取り足取り教える。

 

気が短く、思い通りにならないとすぐに逆上する育ての父であるところの叔父。彼をはじめとする男たちもまた、社会の役割を全うすることに対する責任としがらみの中で生きている。

 

分かりやすい強欲な支配者でも悪人でもない。少女達を可愛がり育ててくれた人たちが彼女らから希望と自由を奪い、古い因習の奴隷になれと言う。

だって、自分もその規範に立派に従ってきたのだから。どんなに不本意でも。

お前達だけが抜け駆けをするのは、許されない。

 

 

もはやこの規範は誰を幸せにするのだろう?

「伝統」という名の下に、問答無用の強要をする無意味な規範から、少女は命がけで逃げ出そうとする。細い命綱だけを頼りに。

 

あらゆる制度は、作られた当初にはそれなりの意味も納得性もある、理想を掲げたものだった、きっと。

それが、いつの間にかその制度を遵守するということだけが目的化してしまって、意味が分からなくなっても必然性を感じなくなっても、何をおいても守るべきものになっていく。

 

ある規範が批判や疑いに対峙することに耐えられず、批判や疑いを封じようとするならば、その規範はもはや形骸化・無意味化してしまっているということの証しなのだ。

「伝統」が、あなたの人間としての当たり前の人権を踏みにじるものならば、きっぱりと背を向けていいのだ。それは正当なことなんだ。

 

少女の力強い瞳はそう伝えている。

 

そして、最後のサバイバーとなったラーレとヌルをバスターミナルまで送り届けてくれたトラック運転手の青年。

はにかんだようにイスタンブール行きのバス越しに手を振って別れる。

 

かくありたいな。

最近特にそう思う。

そこに何の理由付けも必要ないんじゃないか。

相手が心からそれを欲し助けを求めているのなら、応援する。それをシンプルな基本姿勢とすればいいのじゃないか。

何も聞かず、自分の判断はせず、ただ手を差し伸べてあげればいい。

だって相手はそれを心からしてほしいのだもの。

 

いろんな「善かれと思って」が世の中に溢れているけれど、塞ぐことや足を引っ張ることが応援して背中を押すことよりも良い結果を産むことなんて、ほとんどないのじゃないかと思う。 

 

どんな愛や正義の名の下であれ、その人が生きたいように生きることを妨害することは良くない。背中押して行こう。

 

 五姉妹の祖母や叔父は、周囲の大人たちは、まじめで正しい顔をして、誰一人そのシンプルなことを少女達にしてやらなかった。

チンピラ風味のトラック運転手の青年だけがそれをした。

そのことが心に残る。