続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「Most likely to succeed」その1

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2015年アメリカ作品/グレッグ・ホワイトリー監督/86分

 

(長いので記事をふたつに分けます)

 

 

縁あってクローズドな上映会にて視聴。

 

邦題もついていない、配給会社もない、ちょっと変わった形で自主上映ベースで普及している作品。(しかしまずは字幕な〜〜 この読みづらさは子どもや高齢者には厳しかろうと思う)

 

この作品、主催者によると、アメリカのみならず日本の教育業界でも「まあまあバズった」と言われている作品らしく、全国各地で上映会が催され続けているようである。

 

 

ふむ。

なかなかに興味深い体験だったです。

 

【1:迷えるアメリカの教育の現状をごった煮スタイルで提示した作品】

この作品、少々とりとめなくとっ散らかった内容の作品になっている。編集前の素材を繋ぎ合わせたような。90分ないけれど、なかなかの長さに感じられた。

 

でもだからこそ、いろいろ丸見えなんである。整理されていないごった煮状のものをぽーんと放り込まれたみたいで、観る人の価値観や感性によって、共感だけでない複雑な感情もかき立てる。それが良くも悪くも多様であるという。

 

世に言う「物議を醸す」作品の多くは、正解はなく、見る人に自由に考えてほしいというコンセプトで作られているものの、監督自身の立ち位置や論点は整理されているものだと思う。

でもあえて断定しない、言い切らない、想像や解釈の余地を与える。

 

ところが、この映画は論点整理がされていないままのものを、なかば開き直り気味に「そうです、迷走しています」というアウトプットになっているというか。

 でも同時に、何かしらの本音が作品を通して透けて見えるところもあって。

意地悪な言い方になってしまうようだけれど、私にはそこが結構珍しくて面白かった。

 

 

【2:作品の動機は我が子が「脱落」するかもしれないという危機感】 

この映画が生まれた発端は、監督の小学4年の娘の思いがけない変化。利発で何をやらせても出来る子だった娘が突然、

 

「学校という場所がつまらなく、自分にはフィットしない場所だと彼女は一夜にして決めてしまったみたいだった。」

 

あほくさくて付き合ってられんとばかり、全てのことが右から左になってしまって、成績は右肩下がり。

映画は、困り果てた母親と担任教師が面談して嘆息し合い、その大人達の様子を見てべそをかきつつもどこかクールに大人達を見つめる少女の顔のアップから始まる。

 

我が子はこのままでは「脱落」するのかもしれない。

その親としての危機感がこの作品をドライブする原動力となっているということが前提としてある。

 

 

【3:大学が与えてくれるものの減少と、AIの果てなき膨張】

現状の教育がつまらなく、多くの意味においてナンセンスである、娘があほくさく思うのも当然だ。そう父親は考える。

そして、オルタナティブな教育の可能性を探る旅に出るのである。

 

映画を見終わった後、隣りに座っていた友だちが、

「へー、アメリカの(マジョリティーの)教育ってこんな程度なんだなと思ったね。もっと進んでんじゃないかと何となく思っていたけど」と言った。

 

本当にその通りで、座学・詰め込み・競争のマジョリティーの教育スタイルも、この映画の中でアメリカの親たちが言っていることも、日本と相当似通っている。

 

『いい大学に行くことが、子ども人生の選択肢を増やすのだ。そのためには受験戦争を勝ち抜く必要があるんだ。』

 

この作品が、このような「従来の」考え方に異を唱える根拠は主に二つある。

 

ひとつは、「もはや元が取れない」というアメリカの統計的現実に基づいた考え。

よく知られていることだけれど、アメリカの多くの学生は大学を卒業するまでには借金まみれになっている。アメリカの大学の学費の高さは世界有数で、2000万円クラスの借金を抱えるケースなど珍しくもない。

しかし、1980年代までは、アイビーリーグをはじめとした有名大学への切符を手にしたら、ある程度その後の成功も約束されていた(と皆が普通に信じていた)から「採算は取れた」のだ。エスタブリッシュメントの階層の人となれて、いずれはペイできるのだから、それは賢明な先行投資なのだと。

 

それが現在、大学生の53%が卒業後も就職が決まらないか、別に大卒である必要はない職に就いているという現実が明らかになっている。平たく言うと元が取れないし、「人生の勝ち組」が約束される訳でもないというわけ。

 

もうひとつは、AIの台頭による「必要とされる/評価される人物像」の変化。

世界一のチェスプレイヤーも、アメリカ一のクイズ王も、AIに勝つことはできなかった。正確に経済をアナリティクスした新聞記事をAIが執筆した。

 

第一産業(農業・林業水産業など)、第二次産業(製造業)のみならず、第三次産業(サービス業)の職までもがAIに奪われつつあるという現実に人類は直面している。

 

【4:本音は「勝ち組になりたい」】 

この作品は、ではどうすれば代替不可能で問答無用に有用な人材になれるのか?ということをめちゃくちゃ模索している。

その問い自体がもう、自分にはなんか違うとしか言いようがない。

 

Googleの偉いさんみたいな人が出て来て、「チームでプロジェクトを遂行するコミュニケーション力のある人、イノベーティブな創造性を持った人しか我が社は必要とはしない」となんか上品そうに言うのである。

 

そして、コミュニケーション能力とイノベーティブな創造性を引き出す教育をしているサンディエゴの「画期的」な公立高校のケースを紹介するのだ。

 

もちろん、その学校の教師や生徒たちは、グーグルにフィットする新たな勝ち組になることを教育目標にしている訳ではない。

彼らにはもっと豊かで知的好奇心に満ちた、彼らなりの理想や思いがある。

 

けれども、この作品は「グーグルに入れるような有用な人材になるためには、従来の教育は時代遅れで、こっちが新しいイケてる教育のあり方なんだ」という文脈でその学校(ハイテック・ハイ)の取り組みを紹介する。

 

 

【5:システムが人の生き方を「最適化」する】 

なんだかなあー、と思う。

大体、グーグルが出て来た時点で正直言って相当白ける訳だけれど、グーグルが言っているようなことはフェイズが変わっただけで、人材を使い捨てする根本思想自体は何ら変わらない。

そんなうたかたみたいなものに「選ばれる」ための人間を育成すること目指すことが、教育と呼ばれるのだろうか?

 

この映画の監督の見え隠れする本音は、

そうは言っても現実的に考えれば、このアメリカ社会において、何とか他者に先んじて勝ち抜きたい、しがない被支配層ではなく「イケてる」エスタブリッシュメントになるのが成功であり、幸せだ。

そういう思想にすごくとらわれているのが、画面から滲み出ている。

ふうん、迷い模索しつつも、監督は娘にはやっぱり勝ち組になってほしいみたいだなあ。と、映画を見ていて感じる。

 

より良い教育システムを模索する。しかし、強欲な拝金主義極まったグローバル資本主義、そのシステム自体に対しては自明のこととして容認している。何故か全くのスルーで、疑うことをしない。

 

「構成員皆に資源を再分配し、全員が食べていかれることを目指す。それをより良く、快適にしていく」という国民国家の概念がもはや失われてしまって、より儲けることを正解とする株式会社の思想が社会を支配していること。人間のリアルな人生の上に、システムが君臨していることがこの問題の一番の根っこにあるんではないかと私は思う。

 

そんなん分かってるけど、勝ち目ないからそこは考えないということなのかな。

でも、「進化するほどに冷徹さを増すシステムの要求に、どこまでも先んじて適応する人間になるのが賢い人間である」という思想って、奴隷的だ。

きりもなければ希望もない。

 

ねえ、誰か教えてほしい。

グーグルに雇われる人になる人生って本当にそんなに素敵なことなのだろうか?