続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

愛と敬意

台風、もう来るもう来ると、昨日のうちにウッドデッキのタープを外してしまったが、今朝はまだ無風。雨が静かに降り出している。

 

週明けの仕事が台風の影響で昨日のうちに早々とリスケになり、連絡をもらってわくっと嬉しい。

先方は恐縮していたけれど、こちとら、ちっともー♪である。

じゃあなんでそもそも仕事請けるのか私。と自分で自分に問いかけている。ほんとになんでだろう。

 

学生時代の親友が、「人生は大いなる暇つぶしだ」と言って、そんなことはない、とそのとき私は思ったんだけれど、実際のところそうなっているのかなあ。

あれから随分時間が経った。今、彼女がどう思っているのか、久々に訊いてみたいな。

 

今日の午後は小学校の土曜参観日。音楽の授業を聴きに行く。

これから、昨日いちにちかけて目をしょぼしょぼさせて書いた企画書をしゃっと見直し提出したら、出かける準備だ。

夕方からは鎌倉。それまでお天気がなんとかもってくれたらいいのだけれど。

 

 

 

新潮45について、いろいろな人がいろいろなことを語っている中で、やっぱり一番すごいなあと思ったのは、内田先生がある編集者に向けて書いた手紙。立ち位置も、書いてある内容も、他の人たちとは全然違う。

 

http://blog.tatsuru.com/2018/09/26_1733.html

 

敬意というのは、適切な距離感のことである、ということについての考察。

また、お笑い芸人などで顕著な「あるある」、受け手に過剰な共感と結託を期待することを追求するという昨今のメディアのスタンスについて、その本質的な問題点を明らかにしている点。

果てしなくちっぽけであっても、ひとりのお金をいただいてものを書いている人間のはしくれとして、ものすごく省みさせられるものがあった。

 

そして、昨日追記(その2)が内田先生のブログにアップされて、自分が先日ブログに書いた思いをずっと端的に、ずっと品のある書き方で書かれてあったのを読んで、自分のまだまださ加減を噛み締めつつ、ひとまず記事を非公開に戻した。

 

言霊のきれいさを、いつも忘れないようにしていきたい。

 

もうひとつは、源一郎先生が『「新潮」に、「小川氏の全著作を読んでおれは泣いた」という文章を寄稿し校了したこと、その原稿の校閲をした人が45の小川氏の校閲をした人と同一人物で、その校閲にも泣いてしまった。泣いてばかりだ』と書いていたのを読んで、誰に対しても間のひとを挟まず、その人自身が書いたものを自分で読んで、自分の頭で考えることを普段から貫いている源一郎先生のスタンスはほんとに立派だなと思った。(キャパシティーすごすぎとも思うが。)

45の文章、「こんなん読ますなよー、便所の落書きじゃん」と書いていた後に、その人の書いたものをきちんと全部読んだんだなあ。

普通の感覚なら、時間の無駄だし、苦痛だし、勘弁して、と思いそうなものなのに。誠実な人なのだなあと思う。

 

でも、原点にあるのは、まじりけのない好奇心。自分もそこそこ好奇心が強いほうだと思っているが、源一郎先生の「人間、みんなしょうもないよね」という諦観に基づいた愛と優しさは、自分には欠けているなあと思う。経験も苦労も、ずっと未熟なのだな。

 

サヘル・ローズさんのインタビューでのこの件に対する言及もそうだったけど、結局はヨーコの言うとおり、「何を言うのも、するのも、愛をもってするのです」に行き着くのだろう。

それがあるかないかを、いつも確かめながら書いていかなくてはいけないな、と胸に刻んだことでありました。