続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「みんなの学校」を見て考えたこと

f:id:beautifulcrown7:20180902113302p:plain

2015年/真鍋俊永監督/106分

 

大阪市立の公立小学校の取り組みを、1年間かけて追ったドキュメンタリー作品。近所の映画館でやっていたので、ふと思いついておっちんと二人で自転車漕いで見に行って来た。

 

あーー、この映画私大好きでした。出てくる子どもたち・大人たちの顔をずっと見ていたいという気持ちになる。

 すごい、ここには人間が生き生きと生きている。人と真剣に、誠実に関わるということの迫力に引き込まれる。

私たちを取り巻く社会から失われてしまったものが息づいている。

 

「逸らすことのない」コミュニケーションって、今とても減っていると思う。

上品で柔らかい口調、ソツのないやりとり。本心を隠して相手を値踏みして、損をせぬよう、傷つかぬよう、その場を無難にやり過ごす。

そんな技術がスマートな大人の振る舞いのように思われている向きもある。

 

減点はないのかもしれないけれど、お腹に力のこもっていない、魂が抜けたようなつかみどころのない対話。

人々は、どうしても「それ」から逃げようとする。

「それ」とは、コミュニケーションに関わる頭と心を働かせるあらゆること。

自動操縦で考えずに済ませたい。皆いつだって忙しくて手一杯なんだ。

 

けれど、オートマティック・心節約モードで人と関わることは、無駄のみならず、多分に有害なのだ。

こうしたやりとりの蓄積が、人の心をしくしくと傷つけている。生きる気力を減退させ、孤独と不安を増し、人への信頼を損なう。

 

シンプルに逆のことが行われているこの映画は、身を以てそのことを教えてくれている。

 

 

映画の中の先生達が必死にやっていることは、突き詰めて言えば、真剣に正直に子どもと向き合うこと、子どもを誰一人差別せず温かく肯定して受け入れることだけ、と言えるかもしれない。

そしてそれだけが、人の命を救うのだと思う。

 

この映画では、ネグレクトを疑われる少年も出てくる。「あの子が通うならあすこの学校へは自分の子を行かせたくない」と言われてしまうような子。

親は一切映画には登場しないが、その子の毛玉だらけのトレーナー、水泳パンツを頼んでも買ってもらえない、卒業式でひとりだけ汚れたジャージ姿なのを見ても、それが十分察せられる。

家庭でまともにご飯を食べていないから、しばらく学校に来ないと痩せて(給食も食べないから)、規則正しい生活も存在しないから朝起きられず、用務員の男性が毎朝自転車で迎えに行く。

 

そういう子が、ひとつも特別扱いをされず、言いたいことは聞いてもらってかばわれるべきところは毅然とかばわれ、叱られるべきところはちゃんと叱られ、悪いことをしたら見守られながら「やり直し」をし、みんなに愛おしく思われ、「えらいっ!まるっ!」と誉められる。

 

この少年は6年生だったから、今はきっと高校生になっている。

周囲は小学校時代のように理解ある成熟した大人ばかりではないだろうし、親はあんまり期待できないのだろうし、いろいろとままならないことにぶち当たることもあるだろう。

でも、この少年には心に大きなストッパーがあるはず。

 

私は関西のガラの悪い地域で育って、「堕ちていく」同級生たちを何人も見て来たし、自分も危うい場所にいたから、それをある程度体感できる。

人は、どこかでちゃんと愛されたら、どうしても自分を粗末にはできないのだ。悪い方へ行こうにも、身体が言う事を聞かない。瀬戸際で何か「力」のようなものがはたらく。

 

どうあっても引き戻されるその感覚を「愛」と呼ぶのだということに、やがて少年が気がつく瞬間が、きっとあるだろうことの値打ちの重さと、教育の持つ希望に泣けた。

命綱のような愛情と、人として根本的な倫理観を校長先生は少年に真剣に伝えていた。

 

 

映画では、発達障害自閉症、問題児で前の学校にいられなくなった子が何人かクローズアップされて描かれていて、周囲の子供たちは、邪魔にも馬鹿にも引いたりもせず、わいわいとそのままの彼らを雑多に仲間として受け入れ助けている。

 

要所要所、よくこの表情を捉えたな、と言うシーンの数々。子供たちを本当に可愛く思って撮っていることが伝わってくる。時間をかけて見つめ続け、すっかり場に空気のように溶け込んでいる撮影にも拍手を贈りたい。

大阪弁の子供たち、ほんとに可愛かったなあ!せいちゃんにまた会いたいー!

 

自分さえ良ければいいとか、周囲の誰かに勝つとかいう思想はここの子供たちには見受けられない。

あまりに自然で安心してのびのびしている子供たちは、本来、学校という場で子どもが一番学ぶべきことを体現している。

多様な人が社会で共存していくということ。

それを学ぶ上で、多様な個性が「友だち」として共に過ごすことはいいことしかないくらいに豊かなことだ。

 

 

しかし、そんな学校はむしろ少ないのが現実だろう。

だからこそ、今の学校は、1クラスに1人は不登校がいるのが当たり前になってしまっているのだと思う。

 

校長先生が言っていた、【人によって能力やできることや考えはばらばらで、その人なりの「昨日よりできた」をがんばることが学びなのだ】という考えを、今どれだけの大人が共有できるのか。

 

問題児を排除しろとか、障害児が授業の進みの邪魔だから支援級に入れろとかいうクレームを親が学校にしたという話をたびたび聞くし、

子どもに私学受験をさせたい理由として、「うちの子は繊細・気が弱いから、『いろいろな子』がいる公立より、似通った家庭環境の子が集まるおだやかな校風の私学が安心」というようなことを言う人もいる。

 

共通するのは、社会でいろいろな人と共存していくという学びをむしろ阻害するような誤った善意というか、自己防衛と被害者意識を伴った自己中心性だ。

自分の子が勉強に集中できさえすればいいのか?高い学力をつけることが第一で、それ以外のことはおまけみたいに考えている人が多くないだろうか?

 

ただでさえ、生活の大部分を学校で同年齢の集団で過ごすのに、さらに同質的なコミュ二ティーで過ごすことは不自然なことで、むしろリスクの方が大きいように私には思えてしまう。自分自身への反省も含めてそう思う。

 

 

いずれにしても大事なポイントは、この学校に限らず、メディアで取り上げられるようなあらゆる良い取り組みや良い組織について言えるのだが、

「そりゃあそれが実現できれば言うことはないけれど、カリスマ性のあるひとりのすごい人物がいたからそれが実現できたのであって、普通の人間には到底無理」

という壁をどう乗り越えるのかということなんだと思う。

 

すごい人に感動してるばっかりじゃなくて、本当に良いことなら、誰にでも勇気とやる気(死ぬような努力とか自己犠牲とかではなく)があれば、それに楽しく向かえるように知恵や工夫をシェアするということが本当に大事だと思う。