続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「マザー!」

リビングが蒸し風呂すぎて、家庭不和になるほどの厳しい汗だーだー生活から、やっとこクーラーがついた!これで猛暑も安心!と思ったら、昨日、今日と爽やかなお天気で拍子抜け。人生あるあるである。

 

おっちん長野、だんなさん名古屋。今日は優太と2人、こういうの珍しい。

今日は一日ぜったい怒らないぞ、楽しく過ごすぞ、と心に決める。

 

受験生は朝から散らかして、気ままにピアノを弾いて、あれ買ってこれ買って言い、今も大音量でクラシックを聴いているが。むうう。

さて、ブログを書いたら、今日は昼過ぎまで執筆して、ヨガ、そしてオケ当番。

 

 

昨夜の映画はこれ。

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2017年アメリカ作品/原題:Mother ! /ダーレン・アロノフスキー監督/121分/日本公開2018年4月25日(ビデオスルー)

 

「ゲットアウト」に続き、またもスリラー。

アメリカ本国での公開時に物議をかもしたことから、日本では公開中止になっていたこの作品。

やーな予感で、自分ではまずチョイスしないところだが、だんなさんが何と言ってもアロノフスキーだから、というのでまあそうかと思い一緒に見ることに。

彼の「レスラー」や「ブラックスワン」は私もかなり好きな作品なので。

 

「ゲットアウト」同様、つくづくホラーとコメディは表裏一体だなあと思う。

しかし「ゲットアウト」よりも10倍もしんどい、ストレスフルな作品。作品自体が無価値とは思わない。しかし、これは観る人を選ぶと思う。気力体力にある程度ストックがあるポジティブな状態でないと、やられる。

 

このシュールな展開、絶対笑かそうとしてるよね!?というレベルの不愉快すぎる理不尽が延々と繰り広げられ、そのカオスはとどまるところを知らぬどころか、もはやストッパーが外れた状態。アロノフスキーのイマジネーションの飛翔に驚くと同時に、どこまで行くねんこれ、と観ていて困り果てたほどだった。

 

もちろん、この作品のモチーフはすぐれてメタファー的であり、ただただ不快で残酷でショッキングな作品ではなくって、もっと普遍的なことを「ひとつの家の中での出来事」にぎゅうと凝縮した形で見せているのだろうことは分かる。

私は今の人間世界のありようのメタファーと感じながら観たが、「マザー=地球」という見立てで、人間が世界環境に及ぼしている態度を暗に表現しているという言説も、なるほどと思うところはある。

 

なるほど。我々自身を省みる上では、たしかに意義のある作品なのかもしれない。この作品で私がもっとも醜悪に思われたのはハビエル・バルデム演じる主人公の夫の詩人だが、彼のパーソナリティーには現代の欧米的・キリスト教的価値感への強いアンチテーゼが含まれており、考えさせられるものがある。

批判というより、もはやアロノフスキーにとってはひとつの自虐だなこれ、という感覚もありつつ。

 

そしてジェニファー・ローレンス演じるマザーは、これまでの作品で一番エレガントで美しく見えた。しかし彼女が受ける理不尽の数々は、観ていて本当ーにしんどかった。「もうかんべんしてよー」のオンパレード。いつ夢から醒めて元通りになるんだろう?と映画的展開を期待しつつ見るも、結局全てを焼き付くすところまで行ってしまうという・・・。

 

マザーは意思的でなく、美しくも受け身で、ちょっとはかりかねるようなつかみどころのない存在感なのだけど、彼女(=地球)に対し、無神経に欲望まるだしでどこまでも厚かましく侵略し損なっていく(=環境を我が物顔で破壊する)のが人間存在なんだという解釈で見ると、彼女のたたずまいが何か腑に落ちるところはある。

 

いずれにしても、地球環境のメタファーであれ、人間社会のそれであれ、アロノフスキーの目には、そこまで人間存在が愚かで欲望にまみれ、独りよがりで下品なものとして認識されているのか、ということを驚きをもって見る。

 

それは確かにある側面においては正しいんだろう。確かにこの物語の中にいる人々に対しての強い既視感はある。だからこそ、本国での映画公開時に観客達は激怒したのだ。彼らはそんなものは見たくない、そんなものは「元々ないもの」として隅に追いやっておきたかったのだし、醜悪な人間の姿にある意味「痛い所をつかれた」のだ。

 

 

後味が、ラース・フォン・トリアーの映画にそっくりだ。久々に「ドッグヴィル」と同レベルの後味の悪すぎる作品を見た。

ギャスパー・ノエの作品と同様、二度と見たくないけど、いつまでも忘れることができない、喉に刺さったトゲのような作品になってしまいそう。

 

それをして、この作品に一定の価値を見出すことについて、私は未だに答えを持たないのだけど。だんなさんにどう思うか訊くと、多様性を担保するうえでも、これが存在する意味はあると思うとのことだった。ふうむ。

 

 

とにもかくにも私としては、「優れた創作」なぞに価値を置きすぎる生き方は滑稽なイデオロギーに過ぎないと改めてつくづく思った次第。独断と偏見に基づいて言い切ってしまうが、それは、どんなに優れていようがやはり「二番目」であるべきなのだ、と私は思う。