続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

怒りについて考える ①怒りを矮小化することへの怒り

今日も梅雨らしいお天気。庭の植物は生き生きと元気そうだが、気圧の関係か、うっとおしい空の色のせいか、頭が重苦しく感じるなあ。

今日は、じっくりと家の中で過ごす一日とする。

そうじもする。

 

最近、あんまり心が傷つくし、怒るのが嫌なので、ニュースを遠ざけて暮らしていたんだけれど、先日のBuzzfeedの武田砂鉄氏のインタビューを読んで以来、「怒り」の取り扱いについてつらつらと考えている。

 

怒り。

怖いですよね、嫌ですよね。なんか熱くなって格好悪い感じもあるし。

「怒り」という李相日の素晴らしい映画もあったけれど。

 

ささいなことで炎上したり、激しいバッシングが巻き起こったりする反面、トピックによっては、どれだけひどいことがあってものらりくらり、誰も責任を取らず、聞かれたことに答えず、いつまでも逃げ隠れもし、そうしたことを皆さして怒りもせず、あるいは無関心で身を守って、冷静ぶっている向きもある。

 

このインタビューを読むと、ニュース界隈の人々であっても、生活で自分が関わっている人々であっても、日頃私が感じている主たる怒りって、

「『何が悪いんですかー』という厚顔無恥な人々がえばっていて、日常的に、呼吸をするようにウソをついていて、それをごまかすためにもっとどんどんウソをついて、大変なだんご状態になっている。権力さえあれば、それで押し通せると思っている知性にかなり問題のある幼稚な人々に対して、達観し、俯瞰し、冷静さな仕草やふるまいでもって対峙するのがあたかも成熟した大人であるかのような考えが流行っちゃっている」

ことに対するやだな感なのだと再認識する。

 

今の世の中、怒るということは、おおむね恥ずかしいことだと認定されている。怒りをアウトプットすることはネガティブで恥ずべき、さむーい行為だと。損だとも認定されていると思う。

 

でも、人間の感情を大きく4つであらわすと、喜・怒・哀・楽なんだよなあ。「怒」も本来、人の感情の大きなベースとなるひとつであり、それを徹底して塞いで生きるというのは、それはそれで不自然といえる。

 

今、「怒り」が過剰なまでに忌避されるのは、「威圧によって何かを暴力的に押し通そうとする行為(パワハラクレーマー、DV、匿名で炎上バッシング、ヘイトスピーチなど)」とそれと真逆のベクトルである「間違っていると思うこと、不当なこと、理不尽なことに対し、違和感を表明し憤りを表明する行為」とが混同されているからだ。

前者は常に、権力・集団・システムであり、後者は権力を持たない一人ひとりである。

 

 

以前、「今何がどれだけ悪いことかそうでもないことかという基準がぐちゃぐちゃでもう苦しいくらいだ」とブログに綴ったことがある。

その大きな理由のひとつは、言葉の置き換えや、あらゆる物言いなどにおいて、本質的には悪いものごとほど、巧妙に矮小化するということが、社会のあらゆる場所であたかも便利なツールのように、野放図に使われまくっているからだと思う。

 

メンタリストDaiGoという人がいる。ああいう人が支持されているのもひとつの象徴で、「人の感情なんて浅はかなもので、心も意思も簡単にコントロールできる、賢明でパワーのある人にはそれができる」という思想がある。

すごく人をあなどって、軽く見積もっている。しかし、それは一周回って自分自身をも軽蔑する考え方なので、きっと彼は人間を好きで信頼感や安心感を抱いて生きることは困難だろうと個人的には思うが、

人を「役に立つ=利用できる」「役に立たない=使えない奴」と分けたり、資本主義の極まったスピーディーでデタッチな世の中において、他者を出し抜いて自分が得をするためには実に使い勝手の良い思想なのだと思う。

実際に、DaiGo氏は、「名前は言う事が出来ないが、某有名政治家のスピーチライターをしている」と言っている。

 

「危機管理」というよく使われる言葉も、言葉自体がすっかり矮小化されている。

「起こってしまった事故や事件に対し、プライオリティーを設定して適切に誠実に対処し、更なる被害拡大を防ぐ。もちろん責任者が責任を取ることも含まれる。そして何より大切なのは、今後このようなことが起きないためにはどうすればいいかを広く検討分析する」という本来の文脈で危機管理が語られているか?

いーや、じぇんじぇんそうではないですよね。

 

非難されて、罰せられて当然な事件やふるまいを、ごまかしたり、矛先を別に向けたり、うちひしがれて神妙そうに泣いてみたり、そういう小手先のテクニックで非難や怒りをいなして忘れさせ、あわよくばほとぼりが冷めた頃を見計らってうまいことキャラ設定して再び好意的に受け入れられないか、そういう姑息で卑怯な、群衆心理を利用するテクニックがあたかも「危機管理」みたいなことになっている。

 

これが賢い大人の振る舞いみたいに語られるって、どう考えてもおかしいことだ。

けれど、誰もが当然のように「そこを上手くやれなかったからこんなことになった」とか言っている。

 

私は、このようなやり方が繰り返されることによって、社会はさらに怒りを増幅する悪循環にはまっているのだと思う。

世の中の多くの人の心の中に、適切に発露されない、報われない怒りが心の中に巣食っていて、ガードの脆弱な、政治的権力の強くない人の過失に向かって彼らの怒りが一斉に向けられる例をいやになるほど見てきている。

 

今の時代、芸能人でいることはほんとにおそろしいことだ。彼らは、一昔前までは特権的な人々だったのかもしれないが、今も問題さえ起こさなければ、無害なアイコンでいられればいい思いもできるのかもしれないが、ひとたび「個人」を表明したら最後、ヒステリックなまでの怒りの矛先となる代表格である。

 

本来怒るべき人に怒っている人は、相対的にそのようなゆがんだ怒りの発露は少なくなる。だから、もし「芸能人スキャンダルでかーっとなってしまう」人がいたとしたら、その人は自分自身の鬱屈した心の闇を省みる必要があるのかもしれない。

それは、対象とサイズ感を誤った客観性の欠いたものであるからだ。

 

 

こうした客観性を失った、怒りを抱えたやるせない人々を、権力やシステムがまんまと利用しているということにはもう多くの人が気付きだしていると思う。日大の事件が良い例で。

 

しかし、怒るということを十把一絡げに捉える向きが変わらないと、これはどういう怒りなのか、どのようにこの怒りを表明すべきなのかということに各々が自覚的にならないと、権力やシステムへ反撃することはむずかしい。

 

私たちは恥ずかしがらずにシンプルに怒っていいのだ。それは当然のことなのだ。個人としての怒りを手放すのは、誠実な生き方ではないんだ。

そういう意識を広く共有することが、きっと第一歩なんだと思う。