続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

特別授業

昨日は楽しかったな。

優太の行くことになる塾の特別授業。帰ったら夜の11時近かった。

 

20才そこそこの若者がナビゲーターをつとめていて、手探りで作っていっている過程なところもあるから(それがいいんだけれど)、テーマが深く掘り下げられずじまいな部分もありながら。

何にせよ、多様な世代、バックボーンを持った人たちがひとつところに集まり、出席も取らず、名前も訊かれず、ビール飲みつつ気楽に対話をするということは楽しく、自分自身が活性化するような気持ちになった。

 

仲間が欲しいとか、誰かとべたっと仲良くなりたいわけではない。

 

けれども、日頃、ともすると仕事や何らかの利害関係のある人間関係の比重が高くなってしまい、フラットな関係性から遠ざかってメディアを通じて世の中をみてしまうと、世の中はあたかも醜く開き直ったものや、ウソや、一貫性のなさ、心を亡くした合理性や経済性の追求みたいなものに支配されているように見えてくる。

世知辛かろうが醜かろうがそれが所詮現実なんだと言わんばかりに、そうしたものたちが大手を振って跋扈しているように見える。

 

しかし、それは錯覚である。

ネガティブで攻撃的で醜い事象はメディアを通じて拡大し拡散されるが、実際のボリュームは、随分小さいことがだんだんと明らかになっている。

 

本当の一人ひとりは、その人なりに善く生きたいと考え、身の回りの人たちに優しくしたり、笑って良い気持ちで過ごしたい、そういう人の方がずっと多いんだと思う。

 

しかし、「良いニュースは小さな声で語られる」。

ポジティブな言葉や、思いやりというものは、攻撃やヘイト、クレームのようには声高に叫ばれないものだから、直接向き合わないことにはなかなか可視化されにくい世の中だ。

とりわけ今は、自分がどういう考えを持っているかということを表明することを皆が怖がる世の中だ。SNSなどで言葉は溢れ返っているけれど、皆注意深く、無難で誰にもポジティブな言葉を選ぶ。それは礼儀正しいことだけど、えてして上っ面なものにもなりがちだ。

 

だからこそ、なんの目的性も上下関係もない、多様で雑多な人に直接向き合うことの値打ちが高まっていると思うし、出不精の自分ではあるが、なるたけ意識して、無理なく気楽な範囲で、これからもじかのコミュニケーションを生活に取り入れていきたいと思う。

 

小さな「場」だけれど、とても真摯で、風通しが良く、背伸びをしていないフラットな感じだった。それを20代の若者たちが中心になって、気負わず気取らずやっていること、とってもいいと思う。簡単そうで、こういう場はなかなかないかも。

 

そして、カウンター越しに先生といろいろしゃべって、教え子や仲間たちとの関わりを見て、もう全然子どもを任せて安心だし、むしろこういう人とどんどん関わってほしい、自分も関わりたいと思えるような人だったので、今回の出会いにはとても感謝。

 

素晴らしい中学校の社会の先生(美人)に、いろいろ驚く、考えさせられる話をたくさん聞けたのも、収穫だったなあ。

 

高校受験まであと半年あまりだが、間に合っても間に合わなくても良し。何でも知りたいことを学ぶことができるってすごく楽しいんだという気持ちだけ持ち続けていられれば。

せいぜい自分なりにもがくがよかろう。