続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「アメリカン・スナイパー」

連休中日。今日・明日は学校がある。だんなさんもいそいそと海へ行ってしまったので、しばしひとりほっこり。

手帳に書きつけた懸案事項をひとつずつのんびり丁寧に処理して行こう。

 

f:id:beautifulcrown7:20180501100252p:plain

昨夜の夕飯の後、BSでイーストウッドの「アメリカン・スナイパー」をやっていて、途中から何となく見始めてしまった。

ワインも飲んでいたので途中うとうとして、はっと気付くと、風呂上がりのおっちんが戦場のシーン、武器攻撃を銘じられたイラクの子供が射殺されるシーンにじっと見入っていた。

しまったー!と思ったもののあとの祭りで、怖くて半泣きになっていた。

しょんぼりした様子で寝室に上がるおっちんに「怖かったらゆうたの隣りで寝なさいよ!」と声をかける。

あー・・、トラウマになってしまったかもしれないなあ。

 

しかし、これが現実なのだ。最近のイーストウッドは、事実をベースとした作品ばかりを撮り続けており、この作品もクリス・カイルという実在の人物の伝記を元に作られた作品。

アメリカという国のありようと、彼らの精神性に、ひとりのアメリカ男性として向き合い続けるというのが、イーストウッド映画作家としての一貫したスタンスだ。目を逸らしたり、ごまかしたりしないところが立派だと思う。

 

キャスリン・ビグローもほんとにすごい、しかも女性で、と思うけれど、彼女の映画からは圧縮された怒りが感じられるのに対して、イーストウッドの映画から感じるのは乾いた悲しみと不思議な静けさ。そして全体性。

自身がアメリカを87年生き抜いて来たという年輪感が、静かな凄みを形作っているのか。いずれにしても、彼自身の存在感が、ぐうの音も出ない説得力を持っている。

 

アメリカン・スナイパー」は、2014年の公開当時、兵士をヒロイックに描いていると受け止められ、賛否両論を巻き起こした作品だった。

実際に見てみると、普通に「どこがや」と思う。全体の文脈をキャッチして論じることがどんどんできなくなっているのは、日本に限らないことなんだなあ。

 

イーストウッド作品を見ると、アメリカ人という人たちの生き方や考え方、価値観といったものが、すごく腑に落ちる。良くも悪くもそういう人たちなんだよなと。

良くも悪くもないんだと。そうなるべくしてなっているのだと。

 

軽口や悪態を含んだ、アメリカ人らしい何気ない会話に軽いめまいをおぼえる。

リアルな戦場とは、どういう場所なのか。あまりにも受け入れがたい、戦場のリアリティーというものをいかに受け止めればいいのか。兵士たちはどのようにして追いつめられ、人知れず苦しみを内面化しているのか。

誰が悪い、何が悪いということを言いたい映画では全然ない。

 

我々はただ、身動きの取れないようなやるせなさをひととき共有し、慮ることしかできないし、それがイーストウッドがこの作品で為したかったことなのだと思う。

 

 

そしていつもの通り、クリント・イーストウッドらしい作品だと尊敬の気持ち。

もちろんどれも質の高い作品であることは前提なんだけれど、そのうえでなんというか、イーストウッド作品は、作品至上主義的でないところが良い。

「映画よりも大事なものがあるだろう。まずは人としてどうあるかだろう」という感覚がある。

 

作品の完成度を高めるために、何かや誰かを踏みにじったり、嘘をついたり、ないものをあると言ったりすることを、彼はきっぱりと拒絶する。

「そうしてしまえば映画としてもっと・・・」という誘惑、あるいは映画のために何かをねじまげても当然と考える監督の方がきっと少なくない中、それは一貫して選ばない。

撮影期間が短く、スケッジュールにゆとりがあり、スタッフに無理強いをしない監督としても知られている。

撮影監督はもちろんのこと、その他のコアな制作スタッフも、ずーっと同じ顔ぶれでやっているんだと思う。

そうした姿勢が、イーストウッドにこれらのテーマを選ばせ、このように描かせている。

 

どの作品からも威厳というものを感じるのがイーストウッドの映画。