続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

アラーキーの一件から思うこと

朝から、うし、うし、うし、とひとつずつ確認しながら画像やらファイルやらを添付して、無事納品完了。

いぇいっ、と最後に送信ボタンを押してすっきり!したかったのになんか積み残し感・・・。いろいろと素材が多すぎるせいだきっと。

この一瞬の爽快感のためにがんばっているというのになあー。

 

ま、だいじょぶでしょうということで、今日はこれから夕方のヨガまでは整える時間とする。

さっきまで「ペンタゴン・ペーパーズ」へ行こうと思ってわたわたしていたんだけど、家の中がいろいろ汚いので、今日はのんびり掃除のほうがしたいぞ、と思い直す。映画は明日にする。と、その前に書きたいことをちょこっと(ちょこっとで済まなそう)。

 

 

今朝、ごはんを食べながら、だんなさんと今大きな騒ぎになっているアラーキーの件について語り合う。

 

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くらくらするような文章である。一連の#me tooに関連する文章の中でも、サルマ・ハエックの告白と同じくらいにショックな内容だった。

そして、同時にきりきりと痛むような後ろめたさを感じる。

当事者の語る個人的な内容はもちろん初めて知ったけれど、それでも「私はそれを知っていたのだ」という思いに深くとらわれたからである。

 

1997年に竹中直人が監督した「東京日和」という映画がある。

中山美穂アラーキー夫人の陽子を演じている。

 

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映画で陽子夫人を演じた中山美穂は美しく、ひそやかに狂っていた。

随分前に見た作品なので、自分がキャッチできていないだけかもしれないが、作品の中では彼女の静かな狂気が何によってもたらされたものかについては語られておらず、スルーされていたように思う。

 

けれど、私は感じ取っていたと思う。

アラーキーという人の狂気に付き合い、彼を正当化し好きなようにさせ、なんとか自分を納得させて、それこそ「ミューズとして」悠然と微笑んで傍らにいることを自分に課したために、彼女の精神の崩壊は避けがたく起こったことなのだと。

戦慄するような感覚と同時に、しかしどこかでそのことを甘やかなものとして捉えていた。

 

アラーキーは、ヌードの女性を撮影する時に、(もちろん例外もあるだろうが)その女性とセックスをしてから撮影に臨むらしいというエピソードもよく知られた話だ。

 

大学時代に、アラーキーの写真が好きな女友だちに雑談のなかで、

「写真を撮るからという理由で、夫がのべつまくなしに別の女性と性行為をするなんて、妻としては耐えられない。さぞ苦しいだろうと思う。いくら有名写真家と言っても、夫としては最低だと思うんだけど」

というようなことを言ったら、友だちは

 

「それは『芸術』だから、一般のモラルで量っていいようなことではないし、第一、それを納得済みのうえで夫婦として一緒にいるのだから良いと思う。辛いというような感覚も特にないのでは」

というようなことを言った。とてもびっくりすると同時に「そうか、そういう芸術家の世界があるんかなあ・・・」と割り切れないまま黙ったことを今も覚えている。

 

図太いおばさんになった今ではこう思う。

そういう思想で生きたい人は、そのように生きる自由がもちろんある。でも、私はなにより幸せな心持ちで生きていたいので、そんなばかげた考え方は採らないと。

 

 

まずは、16年間という長い年月にわたって、アラーキーの写真のイメージを代弁するような存在であったKaoRiさんという女性が、取り返しがつかないほどに深く損なわれてしまったとても痛ましいことからなんとか快復してほしいと心から願う。

 

 

その上で、この一件をとおして、自分自身を含めた、世間というものの浅はかさや愚かさやあてのならなさをぐっと見つめたいという気持ちになった。

 

あんまり漠然としたことなのでどう書けばいいものやらなのだけど、

ひとつはっきりしているのは、「大芸術家」というバイアスを通して皆がアラーキーという人に幾重も余分な価値を盛って無理くりと言って良いほどに好意的な解釈をもって接して来たという事実だ。

世の中で名の知れた人において、こういうことは枚挙にいとまがない。

 

私に関して言えば、乱れた着物姿の女性を縄でしばって吊るすみたいな一連の作品や、美しく撮っていない生々しいヌード写真などは、あたり前にいち女性として見るのが不快だったので、見てこなかったけれど、でも私は黙っていた。

 

他の誰かが同じ写真を撮ったなら、「なんて悪趣味でひどいんだろう、耐えられない」と吐き捨てていたかもしれない。でもアラーキーは「ゲイジュツカ」だから、私は嫌だって思うけれど、何か私には理解できない奥深い価値がそこにはきっと含まれているのだろうから、簡単に断罪するのは間違いなのかもしれない。そう思って目を逸らすみたいにして黙っていた。

 

アラーキーが陽子夫人の日常を撮った写真集や、飼いネコの写真、花をモチーフにした一連の作品は、好きだと思って見ていた。

実際、彼の写真が優れたものかどうかはそれぞれの人の判断だし、KaoRiさんの写真を含めて良い写真はきっとたくさんあるのだろうけれど、私自身の感じ方の中には「天才アラーキーが撮ったものだから」と思って見ていた部分だってきっと含まれていたと思う。

 

陽子夫人の暗い瞳。アラーキーの持つ女性蔑視、女性をもののように扱う視線を彼の写真から確かに感じていても、少なくとも、それはとりたてて問題視されるべきものではないと普通に思っていたということだ。

 

浅はかにありがたがり、なんでもかんでも無理に好意的に解釈して、彼がますます増長するのを喜んで手を叩いて見ていたのは私たちだ。

 

アラーキーは、おおむね自分を偽っていたわけではない。むしろ露悪的な人と言えるかもしれない。書く文章においても、振る舞いにおいても。

勝手にチャーミングな奇人と解釈して賞賛していたのは私たちだ。

 

浅田彰氏が20年前に「アラーキーは偽物だ」と喝破した文章を、今このタイミングで拡散している人たち、格好悪い。立ち位置をするりと変えて善の側につく。

それも含めて自分や世間がいかに信用ならないものかと思う。

 

 

自分の頭で感じ、考えることが大事。自分自身がまっすぐに感じる思いでもって、ものごとを見ていかなければならない。そう日頃から思っているつもりでいて、実際は、さまざまな権威や、情報や、ストーリーにまんまとのせられて、くもった眼鏡を通して世の中を見ている。自分なんて、ほんとにその程度のものなんだと思う。

 

それは、その分野に対する自分の判断にどこか自信が持てないからだ。「分からなければ分からない」でいいのに。

 

私が何かを偏愛する人、オタク的な人が好きなのは、その人が専門分野を語る中には何の余分な情報もバイアスもない、理屈抜きの自分だけの判断による「好き!」しかないからなんだな。自分に興味がない分野であっても、そのことについて喜々として話す人を見ているのが無性に好きなのは、彼らが少しも自分を騙していないからなんだ。

 

 

ニュース番組のキャスターの傍らに必ず「コメンテーター」という人たちがいる。普段から海外のニュースが好きでよく見ているが、多分日本独自のスタイルだと思う。

政治から大相撲のニュースに至るまで、「このニュースはこういうことです」といちいちもっともらしい解釈をたれてきて、邪魔だな、うっとおしいなーとよく思う。

でも、もはや日本人はあんまり自分の頭で考えることができない人が多いということのひとつのあらわれなんだろう。

 

権威的な立場の人の言うことを、あっという間に内面化して、自分で考えたことのように言う人がいる。そのずるさや格好悪さを自覚もせずに得意になって言う。

しかし不思議と、借りて来たようなことを言っているのってばれるものだ。

そういう言葉は全然値打ちがないし、聞かされる時間がもったいないと思ってしまう。

  

とはいえ残念ながら、偏見からほんとうに自由になることは誰にもできない。ダライ・ラマでさえ何かしら何かを思い込んで生きているんだと思う。

どこまでもしぶとく侵略してくるウイルスみたいに。

 

 

 そしてもうひとつ、同時にものごとの是非は時代感覚と深く結びついているということを、ある写真批評家の文章を読んで深く考えさせられた。

  

アラーキーの写真が人でなしであったかどうかは、あくまで当事者間のことであり、写真の評価とは関わりがないが、アラーキーの表現とはまさに、性を売り物にしたり、男に拘束されたり支配されたりという存在である女の表現であるということが中心にあること。

 

アラーキーのような表現は彼に限らず、例えば「私小説」の形で多くの小説家や劇作家が行ってきた。それは「愛の名の下に行われる抑圧を甘受することのなかにある陶酔や自己破壊」をある種のロマンとして描くという文化といえる。

 

• それは「痛ましい真実」であり、少なくとも荒木氏はすさまじい熱量で彼女らを踏みにじりながら彼女らの真実に向き合って来た。 

 

 

私が「東京日和」に感じた甘やかな感情とは、抑圧的な愛に搾取される女性の陶酔や自己破壊」という価値観をどこかロマンチックな気分で受け入れていたということ。怖いなと思う。

そして、良くも悪くももう、そういう価値観の時代ではなくなったのだ。

それが#me tooが広がって来たことのひとつの大きな意味なんだと思う。

 

 

かように、我々の価値観などふらふらとあやうく移ろいやすいもの。そんな中でも、真摯に考え、知ろうとすることで、思い込みをひとつひとつ外してひとつひとつ良くしていこうという地味な歩みの中に希望を見出して行くしかないということなのかな。

時に堂々巡りや後退をしていることに気がついたり、そんなさまを目のあたりにして、そのたんび絶望しながらも。