続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

諸行無常

慌ただしい帰省を終え、帰りの新幹線の中。

京都でどばーと人が乗ってきて、隣はグラマーなインド系の女性。よく熟睡している。

 

 

今回の帰省は、痩せて車椅子に乗った父と、いたるところ満開の桜のイメージ。

遠くから数日だけやって来て、ちょっと散歩に付き合ったり食事介助をしたり、親孝行のうちにも入らないくらい、申し訳ないくらいに簡単なことなんだけれど、それでもとても喜んで、よく笑っていた。

 

病院のような場所ではなおのこと際立つけれど、子どもはそこにいるだけで、発光してるみたいな明るさを周囲にもたらす。うちの子たちも、とうに赤ちゃんじゃないし、そこまでのオーラはもうないでしょうと思っていたが、やはりホイットニー・ヒューストンじゃないけど、子どもは未来そのものなんだな。

大人だけでいる時と、空気の質が違う。あんまりしゃべらずもじもじしているだけなのに、少し空気が浮き立つ。

 

父は、認知症の症状も落ち着いている時期で、自分の妄想を客観的にみて照れ笑いしたりしていた。「なんでそんなこと考えるんやろなあ」とか。

しかしさりげなく新たな妄想前提で話していたりするので、話していてかなり面白い。

 

どんどん衰えて忘れて、食べることも着替えることもトイレに行くこともできない当たり前のことがことごとくままならない状況にあって、父は特に 不平不満を言うでもなく、さりとて特に楽しそうでもなく、淡々と目の前のことに向き合っているように見えた。

まあ、しゃあないわな、という風情だ。

 

昔のように元気に快適な状態に戻ることは二度と望めない。このままだんだんと弱って、やがて死んでいくということがいよいよ目の前に迫りつつあるというのは、どのような気持ちがするものなのだろう。

 

それをまともに聞くことは恐ろしいことだし、他の人々もいるので、何度会ってもたわいもない世間話に徹するばかりだ。

今父が、何を思って生きているのかというようなことは何一つ話さないまま、何となく手持ち無沙汰で、やがて時間切れになる。

 

あと数回、そんな無名的な時間を繰り返したら、やがて本当の時間切れ、永遠のお別れになるのだろう。何ともやり場のない気持ち。

 

ここからどう転んでも、どたい「悔いなく」なんて無理だ。これまで私はそのようにして生きてきたのだし、彼らも彼らのように生きてきたのだから。良くも悪くも、そのようにしかできなかったのだから。

だから、しようがない。あるものはあったのだし、なかったものはなかったのだ。そのままに抱えていくしかできない。

 

あー、ワインの小瓶をちびちび飲みながら新幹線の車窓から外を眺めていると、なんだか感傷的な気持ちになってしまうものだなあ。

 

また明日から日常が始まる。あさってには仕事も。

きっとばたばたで、数日ろくに家族のことなど思い出しもせず、また慌てて実家に様子見の電話をかけているんだろう。

 そんな自分の冷淡なまでのいい加減さや、時折底の見えない井戸を覗き込んでしまったような恐怖がないまぜにやってきたりする日々のもろもろ。それが自分にとっての親を見送る日々なのだなと思う。何せ、初めて経験することだから。

 

若い時期を過ぎると、もはや人生ってそういうことの連続なんだろうなあ。誰においても諦観を含んだ見守りモードに入っていくというのか。

なすすべなく、ただ味わい、心に浮かぶさまざまなことを浮かぶままにさせている。

 

 

あと2時間で駅のロータリーで待っているだんなさんと再会する。とても嬉しく心強いが、それすら本当は確かなものではないのであーる。

 うーむ、諸行無常の響きあり。