続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

佐川さんという生き方

今朝は5時起き。

昨日の残りのビーフシチューをスープジャーに詰めて、ご飯を温めてゆうたに持たせる。今日は記録会で、帰りは夕方。わなわな人がいないので、今日はのんびり。

しかしあんまり早起きをすると変な時間に眠くなって、なんか調子が狂うな。

 

半ねむだらだらついでに、朝からわーわーやっている佐川さんの証人喚問をぼーっと見ていた。始まる前の佐川さんの緊張した表情は、小首を傾げて目を変に見開いた、慇懃なんだけれど好戦的なかんじの、逆ギレっぽいあのいつもの表情ではなく、何だか悲しげに見えた。

お、これは心境の変化があったかも。ひょっとして本当のことを喋ってくれるのでは、と期待したのだけど。

 

見始めて1分で「あーりゃりゃりゃ・・・・」となる。

隣りで出かける準備をせわしなくしているだんなさんに

「だってさ、ここは映画ではほんとのことを言うシーンじゃん」と言うと、

「映画のようにはいかないよ」と。

「映画のようにはいかないねえ」「映画の見過ぎなんだねえ」と言い合う。

 

 

ただただ、いろんな生き方があるんだなあーと思う。

自分が佐川さんの立場だったら、どう感じるのかな。このところのニュースを見聞きしながら時々想像していた。

 

佐川さんは、そもそも「事が起こった後」に理財局長となったひとで、始めから尻拭いをするのが任務みたいな立ち位置だ。

事の最中に理財局長だった迫田さんは、多かれ少なかれ「本当のこと」そのものを知って、何かしらのアクションに関わっているだろうけれど、事件後に責任者になった佐川さんがどこまで「本当のこと」を知っているかは、分からないところがあるのかもしれない。(だから真実を知るためには本来、迫田さんのほうが喋る必要があると思う。)

 

けれど、佐川さん個人に起こったことについて、ひとつはっきりしていることは、「そのことをすることで大きなリスクが生じることに、仕事の立場上、不可避的に関与させられて、結果自分に全部罪をかぶせられるという状況を政治家たちに作られてしまった」ということ。

 

佐川さんは今、そんな守る値打ちもないような人たちを守るために、自分の同僚や部下を犠牲にして、抜け目のない答弁をするべく、必死で脂汗をかいている。

ここまでのことになるとは思わず積み重ねて来てしまったものがあって、今ではがんじがらめでどうにも動けないみたいになっているのかもしれないが、それでも、なかなかに理解に苦しむ生き方だ。

 

佐川さんは今日、こうした振る舞いをすることで、まるで慰謝料みたいな十分な金額の退職金や生活保障を手にして、スペック的には困らずに老後も生きていかれるだろうとは思う。家族のため、家族がそうしてほしいと望んだかもしれない。

 

けれども、国税庁長官であった時代がそうであったように、この先どれだけ長く、普通に顔をさらして町を歩けない日々が続くんだろう。見も知らない人に罵られることもあるかもしれない。そんなことを想像すると、すごく悲しい気持ちになる。

 

もともとの佐川さんという人が良い人なのか、いけ好かない奴なのか、私は何にも知らない。でも、彼はこういう仕事上の立場でなかったら、こんなことを何一つする必要はなかったのだし、一人の人が、「あったことをなかったことにするため」に、こんな風に人生をめちゃめちゃにされていいはずがないんだ、と思う。

 

同時に、彼がありのままを話さず今の政権の継続を手助けすることで、平和は遠ざかり、あらゆる方面で腐敗や圧力や忖度といった残念な出来事が今後も続いていく、そのことに関する責任は感じないんだろうか?ということについては、まあ、人それぞれの価値観もあるとは思うけれど。個人的には残念。

 

いずれにしても、今日、自分の人生における大きな岐路に彼は立ち、システムと心中することに決めたのだな。すさまじいことだ。

 

 

以前、こんなことがあった。

ゆうたは、小学校の時にたびたび複数のクラスメイトに呼び出されて暴力を振るわれていた。事が公になって、その子の親は電話で謝らせておしまいにさせようとしたのだけど、私は許さず、本人が謝りに来るように言って、本人を家に来させた。

 

私は怒りと悲しみで冷静になれなかったので、だんなさんに間に立ってもらい話し合いをしたんだけれど、最初その子は下を向いてぼそぼそと自分に都合の良い、子どもらしい言い訳をして、らちがあかなかった。

 

だんなさんは黙って聞いていて、

「そうか。いいよ。だけど自分が何をしたかは、自分が分かっているよね。自分の言葉が本当か嘘かは、自分が一番良く知っている。」

と、少しも怒らず静かに言ったら、やがてその子は吐き出すみたいにして泣いた。その日を境に、その子はゆうたに暴力を振るわなくなった。

 

 

誰も彼も、あったことをなかったとか、そう言うのなら証拠を出せとか言う。

ものすごい不思議で意味不明な日本語を駆使して、混み入った言い訳のロジックが毎日テレビの中でぐるぐると展開されている。

そこで仮に見事上手いことつじつまが一致したなら、だましおおせた、勝った!と思うんだろうか?

だとしたら、なんて浅はかなことだろう。自分が何をしたか、けして自分が忘れることはできないのに。

 

 

狂ってしまわない限り、いや、きっと狂ってしまったとしても、自分に嘘をつき通し、自分をだまし切ることは誰にもできないのではないんじゃないかと思う。

その罪悪感は、その人の人生をきっとめちゃくちゃにしてしまうだろう。

 

映画「禅と骨」を見た時も思ったけれど、罪悪感と向き合うことを避けて、なんとか人生を上向きにしようとしたり、努力してすごいことを成そうとしたり、立派な人になろうとしたりしてみても、間違った土台に必死に粘土を塗り重ねているようなもので、苦しさはけして消えないから、どうしたってハッピーになれないのが人間というものなのじゃないかなと思う。

 

 

人には譲ってはならない一線というものがあると思う。生きているとみっともないことや恥ずかしいことだらけだけれど、そこだけは明け渡してはならぬ、というものが。

目を閉じ耳を塞ぎ、それを手放してしまった人生は、自分のたましいを深く傷つけると思う。

 

人は、一度しか人生を生きられないのに、たかが仕事のために、そんな地獄みたいな人生を生きることを選ぶ人が世の中にはいるのか。なんと気の毒なことだろう。

そんなことを思いながら、同じ言葉を繰り返す佐川さんをじっと見ていた。

「ほんとうのわるもの」は、彼の背後に隠れているということをけして忘れてはならないし、そこはけして許してはならないと思う。

 

簡単に、怒りをぶつけやすい人に怒りをぶっつけて、ガス抜きしてしまってはいけない。 

みずうみの湖面から目だけを出して、じいいっと物事の本質を見ていく、静かで品位のある姿勢をでいることが大事なんだと思う。その場の浅はかな感情に流されぬよう。

 

 

ある女性が以前インタビューで、目標や望みは何かと聞かれて「笑って死にたい」と言っていた。

その言葉は不思議なくらいの重みを持って、何年経っても心の深くに刻まれて、今では私の目標のひとつになった。

 

「これをやって、私は笑って死ねるだろうか?」という問いは、こんな今の世の中にあっては、自分の軸を確認する上でも大切な思想だと思う。

いろいろな生き方があり正解はないけれど、自分としては、なかなかにチャレンジのしがいのある目標だと思っている。