続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

人間なんて

今日は、三浦国際市民マラソン

息子は5時起きして私たちが寝てる間に、1人でさっさとご飯を作って食べて行ってしまった。部活で引率してくれるので助かる。

私は見に行くわ〜、頑張って☆なんて安請け合いをしてたのだけど、いざ関連サイトを見たら、結構なお祭りで、1万2000人以上の人が走る、周囲の交通規制も含めて相当な規模なんだとのんきにもここにきてようやく気付く。

ちょっと見に来てほしそうだったので、うーんうーんと迷ったが、姿を見る事も叶わなそうなので、行かない事に。

もし文句を言われたら、次に控えている「湯河原オレンジマラソン」を見に行ってやるか、と思っている。

 

毎日学校でも楽しく走っている。昨日は16キロ、今日は21キロ走ったとか、何でもなさそうに報告してきて、人生で一度たりともそんな距離走ったことあらへん、と母ちゃんはほとほと感心している。それでも足りなくて、近所を走り回っている時もある。

ゆうたがこんなに走るのにはまるって思ってなかったな、と嬉しい気持ち。

走ることが「今の時期」にきっとぴったり合っていたんだと思う。

「くるたのしいこと」がある人生は幸せ。良かった良かった。

 

 

昨夜、おっちんのひなまつり・手巻き寿司ごはんの後、某講演会の撮影から帰って来ただんなさんに、見せたいものあるんだと(結構強引な感じで)だんなさんがその日回した映像を見せられた。ある脳科学の先生が話している部分。

その、30分程の編集前の撮ったまんまの映像は、とっても面白く、同時にあいたたた・・・・と見るのがつらいような映像だった。

自分が嫌になっちゃうよなあ、と反省し、同時に「これ奥さんに絶対見せたい」と思っただんなさんよ、その心は!?というかんじだった。はあー。

 

40代前半の穏やかな語り口の先生。

ある手づくりの黒い立体形の大きめのブロックみたいなものを片手に持ち、正面に座っている人に「これ、何の形に見えますか?」と尋ねる。

それは、黒い四角形。その物体を横にくりっと動かして、また「ではこれは?」

物体は黒い丸。さらに物体をくりっと動かすと、黒いばってん(×)の形になる。

先生は、「じゃあこれは?」と、前に座っている人と左側に座っている人に同時に尋ねる。

正面の人は「四角です」左側の人は「丸です」

「そう。これが戦争の原因です」と先生はにっこりとする。

 

同じ物が、見る場所によって、違う形に見える。どちらももちろん見たままの真実を言っており、その形はそれぞれに正しい。だけど、お互いには

「いやこれ四角でしょう、どう見ても」

「あなた何言ってんの、これ丸以外の何ものでもないじゃないですか」

っていうことになる。

脳科学的には、そのように言い合ってる延長線上に、多くの対立があると考えます、と先生は言う。 

 

また、ふたつの全く同じ形の図形を使って、目の錯覚について説明する。

脳は、「①部分②違い③過去の経験」で目の前にあるものを判別・処理するという。

どうして同じ形が配置によって違った大きさに見えてしまうか、そのメカニズムを説明してもらっても尚、ふたつの図形は同じ大きさには見えない。

つまり「脳にはそれを修正する能力がない」。

人間には、ものごとをありのままに公平にニュートラルに見る能力など、そもそもないのです、と先生は言っているのだ。

 

日和見主義になりたくないあまり、自分の感覚をどうにも信じすぎる傾向が私には大いにあって、そのことの傲慢をだんなさんはきっと言いたいんだろうなあ〜という言外の思いを感じてしょんぼりとした気持ち。

 

「私には丸に見えてるけど、あなたには四角に見えてるかもしれなくて、それもまた正しいんだ」という視野を持ち得るかどうか。

自分に見えているもの、自分のナラティブ、自分の感覚は、ひとりひとり全部違って、それぞれが真実で、誰かとぴったり一致することはありえないということ。

それは、戦争みたいなおっきな話だけじゃなく、夫婦や親子や仕事相手や友だちや、あらゆる人間関係においていえることだ。

 

また、脳の「部分的な違いを過去の経験に基づいてジャッジ、線引きをする」というメカニズムが、あらゆる区別、差別につながるという話も面白く、耳が痛い話だった。

 

人は差異に着目することをデフォルトとする。同じをことほぐことよりも。

それは多分、生物として生き延びるために備わった能力であり、過去の蓄積を基に、ある部分に着目し、その違いを見つけ出し、線引きすることをしたくてしょうがないのがそもそも人間なんである。というのが脳科学的に見た人間理解。

 

大事なのは、その線引きをどこに設定するかというのは、ものすごく手前勝手な、しょっちゅう入れ替え差し代えしているご都合主義のものなんだということを自分が分かっているかどうか。

「男女」とか「日本人」みたいな線引きもあれば、同じ学校の同じクラスの「はやりのこのアイテム持ってる・持ってない」だって線引きだ。

災害時に皆が協調し合えたり、映画で宇宙人が攻め込んで来た時に、「地球人として」一致団結して闘ったりするのは、「線」がスライドするからで、だから平常時に戻ればそれらは持続しえない。

 

以前、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という、目の見えない人の世界を疑似体験する施設に行った時に、同じチームで行動した人たちに対して感じた違和感も、まさにこのことなんだと思った。

beautifulcrown7.hatenablog.com

漆黒の闇の中にいる時は皆が「見えない人」として自然に共通した心持ちでいられたのに、外に出た瞬間にその人が体に貼付けているさまざまな属性やプライドがあっという間にその人を覆いつくしてしまった、あの奇妙な感覚。

 

すごく平易に説明してくれたこれらの話は、あまりに途方もない、答えも恐らくない問題だ。

必要なのは正解ではなくて、やはり振る舞いなのかなと思う。

 

その先生は、

「よく理想と現実は違うって言いますが、人間の現実に固着すると、人間なんて「こんなもん」なんです。だからこそ「理想」を持ち、むずかしくっても目指し続けることが大事なんです。」

と言っていた。

 

理想とは、日々どのような振る舞いを選択するのかということに他ならない。

んあーなるほどなあ。