続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

ナラティブ

昨日で中学の期末試験が終わって、今朝からもう朝練がスタートだというのに、寝坊する母と息子。

さっき例によって靴箱にお弁当を届けて来た。くせになってしまってはいかんと思いつつ。

 

いつも、朝子どもたちが学校に行った後は、夫婦でいろんな話をしながら小一時間くらいかけてゆっくり朝食をとるのだけど、今朝はどんどん面白い方向に話が転がって、わくわくが止まらず、食べ終わった後にだんなさんの隠し持っていた「まるごといちご」(まるごとバナナの姉妹品)を食べつつまだ話して、そろそろ解散するかとなったのがもう10時。うわー、全部押しちゃう。

 

それは、書いてしまうと漠然としているのだけど、こういう話。

人は固有のナラティブ(物語)をそれぞれに採用し、そのワールドのなかで生きている。

そのナラティブは、まず親や家族の提示するナラティブの影響が大きくあり、そこに人・本・映画などの出会いがどんどんと融合されていってその人だけのナラティブになって行く。

そのナラティブの中で起こることの確かさや因果応報さは、それぞれその人にとっての紛れもない真実で、揺るぎない実感に支えられている。

だから全てのナラティブは真実で、正しい。

けれど、別の人にとってはまったく当てはまらない。人はそれぞれのナラティブを生きていくのであり、そこには大きな不公平も、非道さも含まれる。

あらゆる人生訓や確かな教えが世の中には溢れているんだけれど、それぞれの考えを尊重すると同時に、それはあくまで「その人のナラティブ」なのであり、そのように自分も生きねばならないということは、まったく関係のないことなのだから、そんな必要は全然ない。

例えば「その人のように地に足ついてハードボイルドでない自分」を、浮わついていると感じて責める必要はない。

お金や男女に関することの不思議さなどは、自分の努力では何ともしえないところもある。

 

あまりに抽象的で、書いていてもどこかずれているというか、訳が分からないまとまりのないかんじだけれど、備忘録として書き留めておく。

このことについては、もっとぐっと考えを深めてみたい。とっても面白いことだから。

 

今の時点で思うのは、私のナラティブは、親をすっとばして、母方のばあちゃんじいちゃんのナラティブをかなり強固に採用しているということ。

両親の提示するナラティブは、私にとってほとんど共感も魅力も感じられなかったから、もがいてもがいて思春期は荒れたし、高校を卒業してすぐに家を飛び出しちゃったんだろう。

私のナラティブは、その後じいちゃんばあちゃんだけでなく、これまでの人生で出合ったいろいろな人やものや風景が粘土みたいにぺたぺたひっついていたり、今やだんなさんのナラティブはかなりの割合で内面化されていたりということがあるのだけど、最終的に私が心から憩えるのは、おおむね、じいちゃんばあちゃん的ナラティブなんだろうな、と思う。きっとなんだかんだで一生そうなんだろう。

それは、「自分がどう生きているのが幸せか」ということに、輪郭を与えてくれる考えだったので、とても面白くためになる考えだと思う。

 

そして、人に対峙する時に、ある特定の人に無性に好感を持ったり、とってもいい人と思っているのになぜか仲良くなれないといった感情は、その人が何を言ってるかとかでなく、その下の層に横たわっているその人のナラティブに呼応しているのだと思う。

そう考えると、謎は解けないまでも、腑に落ちることがいろいろとある。

 

若い人にインタビューしていて、すごく流暢に良いことを言っていたり、思想的には共感できる人であってもどこかつまらない、面白くないなと感じる時があって、それは、その人にはまだ固有のナラティブを作っているはじめの方の段階で、どこかからの借り物のナラティブを語っていたりするからなんだろう。

 

1億人いたら、1億種類のナラティブがある。それは、ひとつずつ全部違うオリジナルなものであり、ある種の似た傾向はあっても、完全に一致することはない。ひとりの人のなかには、相反する要素や、清らかな部分と邪悪な部分が普通に同居していたりして、グルーピングすることさえ不可能だ。

その、途方もない事実をそのまま受け取るしかない。

 

それがどうして人にとって難しく、時に耐え難いものなのか。

また、圧倒的に多様なものをそのまま受け取るには、それなりの訓練が必要だということも思う。

 

整理されてないままにつらつらと書いたけれど、ナラティブを通して世の中と人間を見ることは、まずもって面白いし、自分自身を少しは成熟させてくれる考え方のように思える。