続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「スリー・ビルボード」

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スリー・ビルボード、とても面白かった。実に「今年らしい」作品と思う。

 

劇作家の監督の書く脚本には、独特のドライブ感があるように思う。サム・メンデスしかり、アスガー・ファルハディしかり。そして、登場人物が脇役に至るまでよく作り込まれて納得性があり、またそれぞれ見せ場があるのも舞台の人ならではと思う。

 

マーティン・マクドナーも、いかにも劇作家出身の映画監督というかんじで、考え抜かれた脚本、いやらしいほど人間臭い登場人物の人物造形が見事だった。

 

いっぱい考えることが生まれる作品。こういう映画を「見応えがある」というのだろう。

 

怒りと被害者意識を制御不能なまでに持て余して、自分の人生をめちゃくちゃにしてしまった2人の人間の暴走を軸として描かれるこの作品。

怒れるアメリカ女性といえば、フランシス・マクドーマンド。彼女のデフォルトの顔が怒ってる顔でインプットされている・・・。

「クラッシュ」のサンドラ・ブロックの怒りっぷりもすばらしかったが、フランシス・マクドーマンドは鉄板というか、まあ堂に入っている。

 

そして、トランプ支持者的非インテリ白人の粗野な警官役にサム・ロックウェル

これもなぜか「クラッシュ」のマット・ディロンを思い出すなあ。

マーティン・マクドナーは意識してるのかどうか、モチーフに結構共通点がある。

 

ちなみに「クラッシュ」(ポール・ハギス監督)はもう10年以上も前の作品。異質な文化のぶつかり合い、それぞれの苦悩と共存への模索について描かれている。今も鮮烈な印象を残すすばらしい作品だった。

あれから10年以上たって、今「スリー・ビルボード」という映画が撮られたという事実が、人々の分断と憎しみのさらなる増幅を示唆している。残念ながら。

 

言うまでもなく、この映画のなかで起こっているさまざまなことは、実にうまく仕組まれた社会の縮図になっている。それぞれの登場人物の絡み合いのやるせないことといったらない。

誰もが加害者であり被害者である。誰もが差別する人であり差別される人である。

観客に、簡単に感情移入なぞさせてやるかという気概がある。

この映画は、そんな楽をさせてはくれない。

 

怒りと、被害者意識に身を任せてしまった時に人間はこうなる、という見本みたいなことが目の前で次々と繰り広げられる。

連鎖につぐ連鎖。復讐につぐ復讐。

 

そして、怒りの感情を象徴するかのような、真っ赤な3つの「ビルボード」と、二つの火災。ミルドレッドの娘の焼死体。

焼き尽くす炎のイメージが作品を貫いている。炎は何の留保もなく全てを無に帰す。炎は見る者を思考停止にする。制御不能な激しさとむなしさがないまぜとなった暴力が、炎に象徴されている。

 

人々の間の分断は避けがたく進行し、もはや為す術もないように思える。人間に心底うんざりしたくなってくる。

果たして解毒剤はあるのか?

ある。力強く映画は「ある」と言う。そんなささやかなことが、大きく人間を変えるのだと。それは、相互に与え合うことができるものなのだと。

 

ラストシーンにもしびれたなあ。

ミルドレッドとディクソンの間に芽生えた奇妙な仲間意識。

ヒステリーみたいに暴れ回って全てなくして、何一つ報われず。

今のあなたと共にある人、あなたが守らなければならない愛すべき存在をそれぞれ捨ておいて、さらなるやぶれかぶれな破滅に向かう。

そうしてドライブの道中、ふとふたりは「我に返る」。

泣くのでも悔い改めるのでもなく、我に返るというのにとてもリアリティーを感じた。

 

今の時代をどう生きるべきか、自分の中に巣食う負の感情、とりわけ怒りにどう向き合えばいいのかを、すごく考えさせてくれる作品だと思う。