続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

ウォン・カーウァイから派生する映画話

 

朝ごはん食べながら、渋谷のル・シネマでウォン・カーウァイ特集をやるってよ、とだんなさん。独身OL時代に当時まだあった歌舞伎町の新宿コマ劇場で、オールナイトの中国映画映画祭があって、連日通いつめ、その時にカーウァイ作品も見たなあと思い出す。

 

香港映画に加え、「阿Q正伝」とか、タイトルも覚えてないずいぶんマニアックで土着的な中国の映画をいっぱい見た。映画そのもののクオリティー如何よりも、中国映画の持つ情念や血や残酷さ、それと背中合わせのたくましさや生命力みたいなものに魅せられていた。

 

立て続けにそんな奇妙な映画を見て、朝、疲れた風情のホストやら水商売の人たちに交じって気怠く駅までの道を歩いた。今思えば、やっぱりちょっと変なOLだったんだなと思う。一度、会社の同僚が興味を持ってついて来たが、どん引きだったな(笑)

 

カーウァイでは、「東邪西毒(楽園の瑕)」「Happy Together(ブエノスアイレス)」が個人的なお気に入りだけれど、「欲望の翼」あたり、また見たいなという気持ち。

 

花様年華」以降のカーウァイ作品は自分にとっては期待はずれで、急激に興味をうしなってしまった。だからこそ、自分にとっての「青春」とカーウァイ作品は、分ちがたく結びついているというイメージだ。あの時代に、同時代的に、あの作品たちに出合えたということ。

 

それだけに、昨年「ムーンライト」を見た時は、感慨深いものがあった。

大好きだったウォン・カーウァイに再会したような、何かが自分のなかで回復し、そして完結したという思いがあった。

 

 

「あの新宿コマは、至福のひとときやったわあ」という私に、

「しかしあなたはゲイの映画監督の映画が好きだよね」とだんなさん。

と言われてから「ムーンライト」も「ブエノスアイレス」も男同士の恋愛がモチーフになっていることにはたと思い至るほどに、自分は特にそれありきでは見ていないことに気付く。

 

それでも、たしかに映画に限らず、自分が好きな表現者に男性の同性愛者がすごく多いのは顕著な傾向だ。

俳優などでも、この人無性に好みと思っていたら「やっぱりゲイだった」ということは多い。予想が外れる事も多々あるけれど、「この男性魅力的だな、好感が持てるな」と思うと、結構な確率でゲイという。これって何現象なんじゃろう。結構虚しいものがあるとも言える。

 

逆に、マッチョで威圧的な男性が大の苦手。プロレスラーもボディビルダーもヤクザ映画に出てくるような人々も、ただただ「無理」である。

だんなさんは、実はプライベートでも仕事でも自分と仲良くなった女性はみんなそうだよ、と言う。

暴力的、高圧的な父親を持った人も多くて、後で知ってあなたもかと驚くって。自分もまさに。トラウマかーとほほ。

そして、マッチョが好き、男らしい人についていきたいみたいな女性とは、とんと縁のない人生だと。それはそれで微妙だねえと笑い合う。

 

 

だんなさんはゲイの監督の作る映画は「振り切れていない」ものが多く、そこが今ひとつはまりきれない、物足りない場合があると言う。

無意識的に予め分かり合っている、ある程度価値観を共有している層に向けて作ってしまっている部分ってあるような、と。

私は異性愛者だけど、すごく同性愛者に近い感覚があると思うよ、と。

もちろん例外もあって「ヘドウィグ・アンド・ザ・アングリー・インチ」なんかは、かなり振り切れている、普遍性がある、彼の作品はどれも好きと言う。

わたしだってアルモドヴァルは得意じゃないし、もちろんセクシャリティー以前に個人的な好みありきなんだけど。

 

だんなさんにとっての振り切れてる大好きな監督っていうのは、デヴィッド・リンチテリー・ギリアムといった人々らしい。そう言われるとなんとなく分かる気もする。

 

身もふたもない言い方をすれば、うじうじと堂々巡りをしているようなところがあるというか、耽美的というか。でも、そういうのが好きなんだもん。

 

そういう観点からすると、ロドリゴ・ガルシアもゲイじゃないかなーと思うんだけど、どうなんだろ。

そしてグザヴィエ・ドランやピーター・グリーナウェイに対する、私の持つ留保ない愛情みたいなものは、だんなさんとは絶対共有できないんだろうなあと思う。

こんなにも感じ方が違うって面白くて楽しい。