続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

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昨日、この映画を見たことにも意味を感じる。

 

今、一番好きな監督のひとりである、ジャン=マルク・ヴァレの近作。劇場で見逃してやっとこ見られた。やっぱり彼の映画が大好きだ。

 

原題は「Demolition」。解体の意。だからこの邦題はキザなのだけど、むしろタイトルもキービジュアルも本国のものよりもこの作品のムードをよく掴んでいてセンスがいいと感じた。

 

ジェイク・ギレンホール演じる主人公のデイヴィスは、タイトルの通り、いろんなものをぶっ壊し続ける。しかし、そこにマッチョな暴力性は感じられない。すごく心許なげな、弱々しい感覚だけがある。

だから、雑踏の中を不安げな表情で歩くデイヴィスがキービジュアルになるというのは、すごく良く分かる。

 

この作品は、適度に優秀で恵まれていて、するすると与えられたものに上手にフィットして生きていくという、現代における中流的な人々の人生、まあまあこの程度で、それが無難で得策だ、そういう消費者的選択の連続の人生を送ってきたひとりの男が、そういう人生から復讐をされるという話だ。

そこには、洗練された人間社会に対する強いアンチテーゼも含まれている。

 

私は、ジャン= マルクの映画を観ると、いつも呼吸が楽になるような心持ちがする。「であるべき」とか「ねばならない」とかにしばられたお行儀の良い人生に全身でくそくらえと言ってくれるから。

 

家族や配偶者が死んだなら、こういう風に感じ、こういう風な反応が出て、周囲の人々としてはこういう風に接する。のが人として当然であり、コレクトである。

そんなおかしなテンプレート型に、当事者がもし沿った振る舞いができなければ、周囲の人々は良識人の顔をして、そのつらい目にあっている人を責め、排除さえするのだ。

 

素直な性質を持っていて、起こった事象に対してごくノーマルなアウトプットが生じる人においてはそこに葛藤はなく、何の問題もない。物事はスムースで、上品に進む。

けれど、私みたいなひねくれっ子は、日頃から何かにつけ「もっともらしくあらねばならない」ということが本当ーにしゃらくさく思える。

 

態度として、その場でもっともらしそうに振る舞うことは、もうこの年になると割り切って半ばギャグのようにしてやりすごすことが、まあ余裕にもなってきたけれど、

「そのように感じねばならない」と、感じ方まで押し付けられるようなことは、サイズの合わない服を着せられているような、ほんとにきゅうくつで居心地の悪い気持ち。

そしてまた、「そうしたことをきゅうくつと感じるべきではない」という圧力に、知らぬ間に侵されて、自分の不謹慎さを責めがちになるという構造があるわけで。

 

でも、ほんとうは、

何かがその人に起こったとき、失ったとき、その人がどう感じるかというのは、人によって全然異なるということは、当たり前のことなのだ。

分かりやすく、周囲が期待するような反応でないからといって、その人が冷淡なわけでも、不真面目なわけでも、邪悪なわけでもないし、そもそもそんな期待を押し付ける権利は誰にもない。

大体、自分自身が本当はどう思い、どう感じているかなんて、相当考えてもなかなか分からないことなんだから、他人が簡単に分かる訳もない。

 

他人はみな、幾つかのタイプ別の適当なテンプレートにその人を押し込んで分かったような気になりたいだけだ。そのゲームに参加することを拒否すると、手のひらを返したみたいに、その人を疎ましく面倒に思い、怒りすら感じ、遠ざける。そういう事例は、身近にも溢れている。遠くのニュースや有名人なんかのニュースを見聞きした自分も、しょっちゅうそういう作業をしていると思う。

 

我々は皆、不安で弱く、身勝手な生き物だし、誰もが誰もに対してそこまで思慮深くあることは不可能だから、そういう無責任さはついて回るのが人の世だ。

 

だから、そのことを仕方のないこととして受け止めると同時に、誰も「フィットできない自分」を責める必要はないんだということを、映画を通じて改めて感じて、気持ちが優しく楽になった。

私はきっといろんな意味でデイヴィッドに似ているんだろう。

 

ジョージ・カーリンの言うとおりで、自分が本当にはどう感じているのか?ということを、こんなにも自分で感じられず、またおざなりにしたまま、多くの人が生きているということは、悲劇を超えてもはや喜劇的ですらある。

そのことに向かい合わないまま、一生行く人も多くいて、皮肉でなくそれはそれで良いと本当に思う。物事を深く考えない人は、くよくよ考えてばかりの自分にはうらやましくて、むしろ好きだと思う。

 

それでも、映画の最後、デイヴィッドが義父に「愛はありました。しかし、おろそかにしていました。」と告白するシーンは、胸を打つ。ついに出合った自分のほんとうの気持ち。

 

このシーンのジェイク・ギレンホールの顔はすごく素晴らしくて、憑き物が全部落ちたみたいな柔らかな表情のなかに、悲しみと平穏が同居している。

全ての余計なものを取り払った、自分のありのままの本物の思いに出合うということは、何ものにも代え難く深くその人を充たすのだと思う。

私はやっぱり、人生の豊かさというのは、そこにあるんだと思うから、面倒くさいと遠ざけられても、ネクラと言われても、これからもひとつひとつ考えて生きていくと思う。

 

その人が、本当には何を思っているのかなんて、多くの他人とってはどうでもいい、取るに足らないことだ。そんなことは別に知りたくはないし、忙しいからそんなことに付き合っている暇はない。やらねばならないことは山のようにあるのだ。

ものを売りたい人や支配をしたい人は、むしろ人々に「本当に大事なものは何か」なんて考えてほしくはない。それはお金にはならないし、めんどくさくて都合の悪いことしかない。

 

だから、お金や成功や比較を重要視する社会において、「ほんとうの気持ち」が重要なものではなく、無価値なものであるとされるのは当然のことだ。

けれども、私たちはそのことを鵜呑みしてはいけない。

 

見たくないような、うんざりするようなことを次々に突きつけられ、失望し、破綻してやぶれかぶれになり、人々は去り、いろんなものを失って、遅れてきた不良になって(笑)、全部吐き出した後に、手に握りしめていたきらりと光る小さな宝石に気付く。

あの素晴らしい「アメリカン・ビューティー」のケヴィン・スペイシーを思い出す。

 

ラストシーン、ビルの爆破を見届けて、子どもたちと海沿いを走る、走る爽快な笑顔。心の旅が終わり、また新しい旅のはじまり。