続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「否定と肯定」

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否定と肯定」鑑賞。上映劇場が神奈川県でたったの2館しかないので、上映初週の昨日はそこそこ混み合っていた。しかし2館。

 

なるほど、監督の意図と作品の意義は大変分かりやすく、このようなシリアスなテーマを扱う作品なのに、良い意味であまりヘビーでなくすっきりと整理して作られている。分かりやすく面白く作ることで広く届いてほしいという思いを感じるが、けして単純化してはいない。

 

作品の8割は法廷周辺の出来事であり、判決してすぐ物語が終わることからも、あくまで法廷におけるテクニカルなことが中心となっている。

個人的には「アーヴィングのような人物が生まれ、今の世の中で増殖している背景とは何だろう?彼らの思いや、その憎悪をこれ以上加速させないためにはどうすればいいんだろう?」ということに興味があったのだけど、この作品では人間について掘り下げるような描き方はほぼ一切なかった。それはそれで良しと思う。

 

実際あった話を基に作られたこの作品。舞台は今から約20年前、あるアメリカ人大学教授に対して、ホロコースト否定論者のイギリス人男性が名誉毀損の訴えを起こす。

監督の狙いは明らかで、この事件を巡るやりとりを描くことを通じて、現代における「ある種の人々」に対してどう考え、どう立ち向かえばいいのか、という作法と、その対立の構図を明示することである。

 

この作品のヒーローは、威勢良く闘いを受けて立ったリップシュタット教授(レイチェル・ワイズ)ではなく、賢明で心あるイギリス人弁護士チーム、とりわけ法廷で弁論を担当するリチャード弁護士と、チームの若きリーダーであるアンソニー弁護士だ。

 

歴史的に明らかな事実である「ホロコーストは確かにあった」ということを証明せねばならないという、ある意味馬鹿げた、しかし大きな社会的責任を伴った仕事を請け負うことになった被告側。

 

弁護士チームは、基本弁護士らしく、真正面から正々堂々と闘ったわけだけれど、「相手の作ったゲームに参加しないこと」や「求める結果が何であるかを冷静に見据えること」の大切さを改めて感じた。

けれどなにより学ぶべきは、リチャードやアンソニーの人間観であり、客観性だったと思う。

 

というのは、威勢の良いリップシュタットのありようとの対比が興味深かったから。

ユダヤホロコースト研究者のユダヤ人で女性のリップシュタットには、「すごく高くて正しい所から、悪を裁く」という固定化された姿勢がある。そこには堂々たる被害者(というのもおかしか書き方なのだけど)の視点しかない。

 

なんだか最近同じ事を繰り返し書いているような気がしているのだけど、

彼女が被害者であることは明らかで、彼女側が正しいことも明らかなのだけど、そこに思考停止してしまってはいけない。

なぜなら、その正しさを振りかざしているうちに、本来の目的に微妙なズレが生じてくるからだ。

間違った歴史観を固着させてはいけない、という本来の闘う目的と、「自分の正しさを声高に証明し、恨みをはらし、被害者を辱めぶちのめしたい」という欲求が、リップシュタットのなかで次第にごっちゃになってくる。その無意識に彼女自身が気付く事ができない。

 

それをアンソニーや老練な弁護士リチャードは冷静に見つめている。けして本来の目的から外れず、そうした煽りには乗らない。

おそらく、そうした正義の正当化の拡大の構造に、彼らは慣れずにはいられない仕事なのだろう。

 

アウシュビッツに現場検証に行った帰り、リップシュタットとリチャードが夕食をとりながら話すシーンは印象的だ。

リップシュタットは怒りと恐怖を訴え、そして死者にもっと敬意を払うべきだと言う。リチャードは「悲しみと同時に恥を感じた。自分がもしあの時代あそこにいて、上官から殺せと命じられたら、怖くて従っていたと思う・・・」と言う。

そのリチャードの忸怩たる告白を聞いて、リップシュタットは少しぎくりとするのだけど、(そうした内省を)ご立派な意見だと一蹴する。ここに2人のスタンスの違いが分かりやすくあらわれている。

 

その後、ホロコーストのサバイバーを出廷させるか否かでのぶつかり合い、法廷でのリチャードの緻密で誠実な弁論などを通じて、リップシュタットは自らを反省して彼らに任せようと腹をくくる。

 

基本となるのは、

・自らを高みにおかず、加害者性を感じていること

・しかし常に揺るがぬ良心と信念に基づいて判断をすること

だと映画は伝えている。

 

今のあらゆるヘイト的なものや、理解しがたい大きく異なる意見に対しての、それは基本の作法なのだろう。

 

 

言うは易しで、実に難しいことだと思う。けれど、社会的に「偉い」立場にある人よりは、自分のような市井の人間のほうが、まだ難しくない。

私なんて、仕事で「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言いたいような人たちから仕事を請け負ってやってるわけで、自分が自分を一所懸命誉めてあげないと!という状況なわけで(苦笑)。

でも、度を過ぎた劣等感はカードがくるりと反転するように逆に嵩じるので、とても危険。

バランスを取るのが何より肝心、むずかしい。

 

 

そしてもうひとつ何より大事なことは、「あることはある、ないことはない」という事実認識がまず前提とされていなければならないということ。

 

近年よく「両論併記」せよ、というような言い方がされるが、それはディベート的なテクニックであり、悪質なトリックだ。

ホロコーストが「あった」と「なかった」は、両論ではない

 

あらゆるシーンで、真実と虚偽を同じ土俵にのせようというレトリックが横行している。

そのゲームにはけして参加してはいけない。それが耳ざわりの良いものであれ、苦痛なものであれ、「あったものはあったのだ」という客観的な事実からは動いてはいけない。

 

その意味で、日本の配給会社のこの映画に対するプレゼンテーションは未熟だと言わざるを得ない。

原題は「Denial」(拒否・否定)なのに、邦題は「否定と肯定」。

本国でのコピーは「ホロコーストがあったという当然の真実を、法廷でいかに証明するのか」なのに対し、

日本のリーフレットのコピーは「ナチスによる大量虐殺は、真実か、虚構か」。

全然映画の意図を酌んでいない、ミスリーディングなコピーでひどい。まずそういう事じゃないよねと突っ込んでおく。

 

しかし、日本における歴史的事実に対する責任感というのは今その程度の認識なんだという、全体としての未熟さをよく見せているとも言える。

だからこそ、こういう映画が今値打ちがあるのだと思う。