続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「ギフテッド」

お天気の土曜日。

 

昨日はトイレも惜しむくらいの勢いでこもって書いて、なんとか夕方には初稿が完成。

一日中、家に誰もいなくて、誰にも話しかけられたり何か頼まれたりする心配がなかったので、潜るみたいに集中して書く事ができた。

 

時間が消えたみたいになって、はっと顔を上げたら、もう日が暮れようとしていた。

身体はあちこちきしむし、脳みそも疲れるんだけれど、一区切りついた後は、ひととき充実感というか開放感のようなものがある。

大きな感動も、大きな感情の動きも特にない。内面からしんしんとわきあがるささやかな快感に過ぎないし、すぐに消え去ってしまうものだ。誰かに誉めてもらえるでもなく、一人静かに味わうだけ。

 

けれども、この快感はなかなかにしぶとく、中毒性を持つものらしい。どんな脳内物質が出てるのか?

しばらく書かないでいるとなんだか落ち着かなくなるのは、そのささやかな「快」を欲して得られない状態に対するフラストレーションでもあるのかなあと思う。

 

ともあれ。ただただシンプルに書く事が好きだ。

 

映画話。

先日、DVDでもいいかもなあーと悩みつつ、引きこもりがちだったのでおでかけ大事!よっこらしょ!という思いで劇場に足を運んで見た「ギフテッド」。

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押さえるべき所をかっちりと押さえ、するっと喉ごし良く見られる、チャーミングな作品。キャスティングもすばらしく(マッケナ・グレイス天才や)、子どもと見るにも良い作品。本当に普通に良い(もちろん良い意味で)心温まる作品なので、シンプルに楽しんで笑い、涙して見るのが一番だと思う。

 

作品のテーマに関して思うことは、当たり前のことだけれど、勉強ができるというのは、泳ぐのが速かったり、歌を歌うのがうまかったり、料理が上手だったりというような「その人にとって得意で向いていること」の一ジャンルであり、本来そこにヒエラルキーはないということ。

 

大人はコントロールしようとなどせず、のびのびその子の向いたことに向かわせてあげるだけでいい。良かれと思ってやりすぎることのほとんどが、残念ながら結局邪魔でしかない。それだけのことだ。 

 

物語は、少女(メアリ)が数学の天才だったことに気づいた周囲が色めき立ち、もっとこうしたほうが、ああしたほうがと気を揉む。

周りの余りの騒ぎように、普通に育てるのが一番と思っていた親代わりのおじ(フランク)に「自分の存在がメアリにとって足を引っ張るものなのかも」という疑念が生じ、最終的にメアリを手放してしまう。

 

しかし、基本的に、安全に楽しく、お腹を空かせることなく暮らせる環境を保護者が提供していれば、後は大人ができることって最終的には大したことはないというくらいの構えでちょうどいいんだと思う。

 

何よりも、本当に可愛がって育てること以上に、子どものためになることなんてないと断言していいのだと、映画は改めて伝えてくれる。

あとは、本人を信じて塞がなければ、本人の力でなるようになるのだ。 

 

 

かようにシンプルで王道なこの映画なのだけれど、この作品で私がはっとさせられたのは、映画の本筋ではないのだけれど、クリス・エヴァンズ演じる主人公のフランクが母イヴリンと向き合う、その態度だった。

やはり映画は時代の合わせ鏡なんだなと思う。

 

孫のメアリが天才だと知って、それまで放置だったのに突然しゃしゃり出て来た祖母イヴリン。自身の夢を家庭人になったことで叶えられなかった後悔と、勉強以外の一切を遠ざけて厳しく英才教育した挙げ句、自殺で失った娘(メアリの母)への失望と罪悪感がないまぜになり、「正義」を盾に孫を天才として育てることで自己証明しようとする女性。

親子で裁判で争うことになり、フランクとメアリのささやかで幸せな暮らしは祖母のエゴにより失われてしまう。

 

最終的にはハリウッド的ハッピーエンドでフランクはメアリを取り戻すのだけれど、この祖母に対し、嫌な言い方をすると観客が溜飲を下すような、悪役を非常にこてんぱんに打ちのめすというくだり、ハリウッド映画的常套が、最小限にしか描かれない。そのようなカタルシスをこの映画は目的としない。

 

フランクは終始非常に成熟した大人の態度でもってイヴリンに接する。

納得のいかないことにけして同意はしないが、相手の話はきちんと聞き、相手の無理解による攻撃に逆上して声を荒げることもない。分かってもらおうとくどくどと説得することもない。

 

相手を攻撃することなく、自分の正当性をごり押しすることもなく、辛抱強く静かに自分の信念をにぎりしめている。

彼は根本的に価値観の異なる相手に対する非難や説得やぶつかり合いが無益だと知っている人である。人を変えることはできないと。

それは、自分の正しさを金切り声をあげて法廷でまくしたてるイヴリンとは非常に対照的な態度だ。

 

ラストシーンでのフランクの言動は印象的。何の脚色もない厳正ない事実を静かに述べ、お互いのやるべきことをやろうと告げる。そこには憐れみのようないたわりの感情がある。

イヴリンが親だからという情緒的なことではなく、フランクという人の対話の作法なのだ。

 

「どんなに相容れなくとも、その人なりの正義に基づいてその人が存在するということを尊重する」という。

 

アメリカでは今、どれだけの軋轢が起こっているんだろうと想像するに余りある。

それぞれの立場の正義を言い立てる人々が。けして相容れることなくぶつかり憎み合っているようなことがきっととても多く起きているのだろう。

 

そのような中で、たくさんの人が「全く分かり合えない価値観を持つ他者とどう対話していくか」についての成熟を余儀なくされているということが、この映画のフランクというキャラクターに象徴されている気がする。

 

今の世の中の有りように悲しさややりきれなさを覚えることはたくさんあるけれど、だからこそ善きものも立ち上がってくるのだと思いたい。