続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「公」のきゅうくつさについて

スマホの話に脱線してしまったので、まだ書きます。

 

スマホユーザーになっても、SNSに注意深い私は、相変わらずfacebookはやっていないし、新たに導入したアプリケーションも数えるほどなんだけど、自分の興味のことを知るためのツールとしてのツイッターは長く使用している。自分自身は読む・いいねとたまのリツイートのみの使用。

 

仕事でどーしてもfacebookを閲覧しないと取れない情報を見るために、仕事上のペンネームでのfacebookアカウントは一応持っている。ところであのコンピュータの「もしかして友だちかも?」のサジェスチョンって怖すぎる。全く自分からは発信もしておらず、プロフィールやメールアドレスはじめ、どんな紐づけも注意深く外しているのに、どうして中途半端な知り合いが勝手にあがってくるのだろう???カスタマイズしきれていないことイコール使いこなせない恐怖として、足を踏み入れられないfacebook業界であることだ。

 

でもまあ、ほんとに個人情報なんて普通にだだ漏れなんだろうなとは思う。そこを開き直って誰もが公の人としてある程度の緊張感を持ってコミュニケーション全般をやっていくというのが現代人の望ましい、合理的なあり方なのだろうけれど。別に犯罪者でも何かのブラックリストに載っているわけでもないごく一般人の自分ではあっても、自分はそういうのめんどうくさくってかんべんしてほしいな、と思うわけです。身軽と自由が信条なので。

 

自分自身の良識と責任はもちろん持っているのだけど、今の世で何かを公に言うには「自分の思いもよらないどこかの誰かを傷つけるかもしれない」ということを、常に非常ーに、想定しすぎるほどしなければならないという側面があって、どうもそこらへんが今行き過ぎていて、思いもかけないところから時に訳の分からない非難を受けるということが、誰にとっても明日は我が身なわけで。

 

目に見えるところでは、公人や芸能人がそういうことにすごく傷つけられているのを、もう見ない日はない。大変そうだなあ、気の毒に、と思ったり、ヘイトスピーチやデマなどはちゃんと「だめだよ」ってそりゃあ言わないと、言いっぱなしはなしでしょう、ということもある。

 

ネットの海を外側から静かに見ていて思うに、今、公の人として生きるのには、それなりの覚悟(ある種の人においては面の皮の厚さ、鈍感さと言えるかもしれないけど)や、賢さ、ある種の適性のようなものが求められると感じる。

 

立場上、あるいは自分のやりたいことや仕事において、有名になるのを望まなくとも、不特定多数の人に知られないと成り立たないことをやっている人はだから昔の人よりも余計な苦労が多かろうなと思う。得をすることもあるとは言え。

 

こんな時代に無邪気に「有名になりたい、ビッグになりたい」とか言う人というのは、相当な人であることだなあ、と純粋に感心してしまうくらいの世の中だ。

 

同時に、個人をブランドとしてなりわいを立てていく生き方、何の後ろ盾もなく、どんどんシナプスみたいにいろいろな人とつながって面白いことを実現したりもできるのも今の世ならでは。マイノリティーが同志とつながることもできるのも素晴らしいことのひとつ。

インディペンデントな多様性をネット社会が後押ししてくれている側面も多いにあるわけで、何事もものは使いようであり、良いだけでも悪いだけでもないのだと当たり前だが思う。