続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

シンクロニシティについて

今読んでいる、河合先生の本すごく面白くって、家事の合間にぐんぐんと読んでいる。

実生活的にためになることがたくさん。

 

今読んでいるパートは「シンクロニシティ」についてで、シンクロニシティって共時性と訳されることもあり、ずっと「偶然と偶然の邂逅」みたいに思っていたのだけど、そういうことじゃなくって、

平たく言うと「自分の無意識と外部のものが呼応する現象」なのだそうだ。

例えば、本屋さんで偶然目に入ったその本は、「たまたま」ではなくって、あなたの無意識が「これしかない」と選んだものなのだ。

 

そういう部分を今の世の中は無視して生きていて、因果関係の説明のつく、いわゆる「科学的な」ことを確かなものとするんだけど、じつはシンクロニシティほど確かなものはないんです、という話。

世の中の横糸が「合理的に納得のいくこと」でシンクロニシティが縦糸というイメージ、と河合先生。だから、合理的だけだと、半分しか生きていないし、見えてない、それじゃあ生きてて面白うない、という考え。

 

だが、よくよく考えてみると、「直感を信じる」なんてのは、この意味でのシンクロニシティに従って生きているということと同義で、私は結構こっちよりの生き方だと思う、すでに。

 

というか、男が理屈をこね回して悩んでいる間に、女はわりにすっと普通にそういう風に生きてしまっているってところないかなあ。女の強さの源は、男性よりも自然に抗わない生き物ってところなんだろうな、と感じる。もちろん自然を内包した男性もたくさんいるが、そういう部分に意識的にフォーカスし、自分を鍛えないと、男は女よりは社会的な生き物だと思うし、女は命を産み育てるという役割において、鍛えずとも自然に巻き込まれ、対峙せざるをえないんだもんなあ。

 

それでも、偶然になんとなく何かに出合う、見たり聞いたりするっていう、社会に出て行くことの大切さを再確認することだ。合理性と効率化だけでは、暮しは細ってゆくのだと。

 

だってアマゾンでばかり本を買っていては、家でネットでやりとりしているだけでは、無意識が呼応するものがないとは言わないけど、圧倒的に不足すると思うもの。

 

私はもっと、誰しも、どんどんぶらぶらするべきだ。

 

自分の中で、直感がめっちゃくちゃ研ぎ澄まされていた時期は、バックパックで放浪していた時期だった。

だって、何のプランもないので、二股の分れ道があったら気分で左に行ってみっか、とか、目についた店に入って適当なものを頼むとか、良さそうな人について行ってみるとか、何の制限もないので(若い女としての自覚をもっと持てという話もあるが、苦笑)、ずっと100%気ままにそういう風に全ての物事を決めて目標もゴールもなくただただ漂っていたわけで。生活のほぼ全てをシンクロニシティに委ねていたと言っても過言ではなかったと言える。

 

今思えば、最強の精神状況だったよなあ、と思う。

何に対してもとらわれがなくて自由で心が広々しているので、ものすごく気持ちが良いし、誰も自分を知らなくって、誰の何に対する責任も義務もなくって、だから余計な見栄や自我というものがどんどん消えてなくなって行くのでものすごく身軽だし、便秘ゼロ、いつもなんの滞りもなくすっきりさっぱりとしている心持ち。

今みたいに、人が全然怖くなかったし、絶え間なくいろいろなことをむずかしく考えていることもない。

 

直感が研ぎ澄まされている状態って、めちゃくちゃ面白いのだ。

旅の最初は痴漢に遭ったりしていたんだけど、直感がどんどん発達してきてからは、ほんとにトラブルに遭わなくなった。

道を歩いていて見なくても後ろに悪い人がいるとか普通に分かるし、どっちに行ってはいけないとか、これは飲まない方がいいとか、この人と一緒にいると何かいいなとか、全部普通に分かるから。

半分寝ているように生きている状態から、ぱーっと目が開いてすごく起きてます、っているクリア感が面白い。

「ラッキー♪っていうことがどうしてこんなにあるのかなあ、まあいっか」と思いながら過ごしていたが、今思えば当然のことだったのだなあ。

 

だんなさんに再会したのは、放浪の旅が3/4終わった頃。

インドネシアの小さな町で、夕方の路地で、見るものがみんなオレンジ色に染まっていた。猫と子どもたちがうろうろとしているのを見ている彼の後ろ姿を見ていて、まだろくに知りもしない、当然付き合ってすらいなかったのに「わたしはこの人に子どもをプレゼントしてあげたいし、その子どもを一緒に育てていける」って小さな雷みたいな思いがびりっと自分を貫いたのを今もはっきり覚えている。

それまで自分が子どもを産んで育てるとか、まして結婚すらもろくに考えたこともなかったのに、どうして子ども?と自分でも奇妙で不思議で仕方なかったんだけど、これはきっと自分の人生最良のセレンディピティだったなあと今も時々思い出す。

 

もっとも、当時だんなさんはそんなこと1ミリも思っておらず、無心に旅をしていた。時々発する言葉の端々に、私にまんまと騙されハンティングされてしまった、と思っているふしがある。むかつくが本当だから仕方ない。奴は貧乏くじを引いたと思っているであろう。

そもそもが「この人が好き、この人の子を産みたい」でなく、「この人とは私の子を育ててくれる良いコンビになる」という感覚に近いというあたりが、なんというか、もう動物そのもので笑える。

 

のろけみたいになってしまってバカみたいだけど、さほどに、直感=シンクロニシティというのは確かで間違わないものだという確信を放浪の日々に得たということはある。

 

私がまた旅に行きたい、という気持ちのベースにあるのは、何かを見たりしたり買ったりしたいとか、そういうのは二の次で、直感が研ぎ澄まされた状態にまた戻りたいからに他ならないんだろうな、と思う。

スピリチュアルな技術に長けた人や、宗教や武道や芸術をしている人は、日本で日常の生活をしている中で、そうした直感を研ぎ澄ませることを自然に鍛えているのだと思うけれど、私はどうも無理。勉強が苦手だし、弱くてへなちょこで、流されやすくって。旅が一番効く。キックを欲しているのだな〜!

 

だから、短期のパックツアーでは絶対にだめなのだ。ある程度の日数、ノープラン、一人であれば最高。でも今は気力体力も衰えて、不潔や寒さに対する耐性も弱っているから、もうおんなじことはとてもできない。つくづく若い時に行っていて良かった。

 

とにもかくにも、直感的に生きている状態にあることが、私にとっての幸せなんだわ、と再確認したことである。