続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「ザ・サークル」

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日頃からいろいろと思うところある「ソーシャル・ネットワーク・サービス」をテーマにしたこの作品。とても面白く見た。

 

インターネットというパンドラの箱を手にして以来、情報化や効率化やテクノロジーはかつてない猛スピードでドラスティックな変化を続けている。(進化と言い切ってしまうのにはいささかの躊躇がある)

 

私たちはそれを存分に享受し、楽しんでいる。誰もがそう思いたいのだけれど、本当のところ、それらの技術を人が十分に使いこなし、支配しているという感覚を持った人よりは、正直なところ後手後手で、なし崩し的な巻き込まれ感のなか、あっぷあっぷしながら必死について行っている、というのが実情、という人の方が多いんじゃないだろうか。

 

アップルのコマーシャルに代表されるように、IT関連のメディアは常に「これが今最もスマートでイケてることだし、これにすんなりと適応できるあなたがスマートな人」という方向付けで新しいサービスを喧伝する。

 

「したり顔で、こんなことなんでもないことさ、とすぐさまそれを取り入れ使いこなす人」を増やすことこそが、その種のビジネスの成功のカギだからだ。

 

 

この「ザ・サークル」という映画は、いかにも今どきのトピックを取り上げた現代ならではの作品、もちろんそれはその通りで、SNSというものに関するさまざまな興味深い示唆に富んではいたのだけど、私がこの作品で最も戦慄したことは、群衆というものがいかなるものかを「ただただ」描いていた部分だったと思う。

 

 

村上春樹の「沈黙」という短編がある。今や学校のテキストにもなっているらしいけれど、これは学生時代にあるクラスメイトに執拗に嫌がらせや中傷を受け続けた(わたしは「いじめ」という単語が嫌い)ある男性の告白という体で語られる作品だ。

その作品の最後で語られるのはこういうことだ。

 

「僕が怖いのは青木のような人間ではない。青木のような奴はどこにでもいるし、すぐに見分けがつくので、何があっても関わりを持たないようにするだけだ。

 

僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言い分を無批判に受け入れ、そのまま信じてしまう人々だ。自分では何も生み出さず、何も理解していないのに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する人々。

 

彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかと少しも省みたりしない。自分が誰かを無意味に決定的に傷つけているかもしれないということを、思い当たりもしない。

彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りはしない。

 

本当に怖いのはそういう連中です。」

 

 

 

この作品は、テーマやストーリーにおいては、「まあそうであろう」ということなのです。SNSが今後どういう流れになっていくのか、その中でどういうことが引き起こされるのかということは、ある意味ごく当然の流れと言える。

だから、作品をお話の筋立てとしてああなったこうなった、ということを受け身で見ているだけだと、あっけなく王国が崩壊するラストシーンとか、物足りなく思うだろうと思う。だって、当たり前なのだし、映画はそこにあえて強いカタルシスを投入していないので。一連のシュミレーションが帰結し、「ゲームオーバー」になりました、ということなので。

 

この作品はそこで繰り広げられていることを観察する映画なのだと思う。既視感を持って、じっくりと観察する。人と人との何気ない会話、交わされる言葉の発するある印象。笑顔や振る舞い、環境、インテリア。それらを見つめる中で浮かび上がって来る感情を咀嚼することに意味がある。

映画の発しているそういうさまざまなサインを、「もう慣れた、今風のごく当たり前のもの」として素通りさせて見るなら、あまり意味のない作品だと思う。

 

だから、挑戦的な物言いになるが、「なんだよつまんねーなー」(もっと楽しませてくれるやりようがあっただろうよ)という感想をもしあなたが持ったなら、あなたはすでに「群衆」の一部なのかもしれないということを、疑う必要があるだろう、と私は思う。

 

もうひとつの大事なポイント。作品の舞台となる魅力的なベンチャー企業「Circle」のCEOをトム・ハンクスが演じたことは、とても意味のあることだったと思う。

 

今、ハーヴェイ・ワインスタインの長期間に渡る性暴行が次々に暴かれて、古くはヒッチコックがセクハラ拒否の女優を業界から抹消した話から、逮捕されそうなケヴィン・スペイシーの小児同性愛までさまざまな暴露の応酬が止まらない映画界。

 

その中でやっぱり素敵だった、と株を上げた数少ない男性のひとりがトム・ハンクス。(ナンバー1はもちろんブラッド・ピット)共演の女優が誕生日に楽屋にトムがハッピーバースデーを歌いに来てくれたとか、撮影後の大道具を一緒に片付けると言って聞かなかったとか、セクハラとは真逆の素敵エピソードがいくつも。まあどこまでMr.ナイスガイなのでしょう〜。

 

トム・ハンクスは、いわば「アメリカの良心」を一手に引き受けている俳優。ナイスガイの歴史には誰よりも年季が入っている。古くは「フォレスト・ガンプ」「プライベート・ライアン」「アポロ13」などなど、最近でも「ブリッジ・オブ・スパイ」や「ハドソン川の奇跡」など、枚挙にいとまがない。

 

こんなん人としてバランス取れるの?相当おかしな性癖でもないとバランス取れないよーと冗談で話していたら、珍しく悪役をやるというので、そういう意味でも楽しみにしていた本作。

 

彼だから良かったと思う。終始、トム演じるカリスマ経営者ベイリー孫正義に見えてしょうがなかった(笑)。

 

ユーモアのある堂々として流暢なトーク、カジュアルで清潔感があって押し出しが強くなく、スマートでチャーミングな印象。

もはやプレゼンテーションの形としては定番になった、アップルやTEDのようなステージにひとり立って聴衆に語りかけるあのやり方。

 

感じの良いもの、スマートなものを、深く内容を吟味する事なく良しとする。頭脳明晰で、どこまでも感じは良くても、はっきり損得しか見ていないし、脳性麻痺の子どもすら、自分のロジックを説明するエピソードに持ち出してためらいがない。

 

彼らには、人としての「聖域」がない。「聖域」は往々にして他者に負けたり、チャンスやお金を失う原因になったりする。それを固持することは、時に他者にはぶざまでみっともなく、見苦しく見える。それは、平たく言えば弱みである。

けれど、本当は、それがなければ生きている値打ちもない。魂を売り渡しているのと同じこと。

 

風向きと機会を正確に読み、下手な「聖域」を持たず、チャーミングに振る舞う事ができれば、「いいね!」の数は最大化する。

日本のお笑いの世界でも、打って響くような会話ができなければ「ダメな奴」として秒殺で切り捨てられるのを私たちは日常的に見せられている。そういう会話ができない奴は、人として下、みたいな。

実際は、話し方はゆっくりでもへたくそでも、何を言っているかが全てだなのだけれど、流暢に話せる事や、その場の機転のきく事でその人が丸ごと判断されるみたいになっている。その結果、流暢で機転の利いた詭弁が世の中に溢れ返っている。罪深いことだと思う。

 

 

だから、誰よりもチャーミングで感じの良いトム・ハンクスが「本当の人でなし」を演じたことにすごく意味がある。彼の感じの良さやもっともらしさにモヤモヤする、その感覚にまずはぐっとフォーカスすることだ。

「Share is care!」といった、どこかで聞いたような分かりやすいキャッチフレーズも、人々の熱狂も、心温まるエピソードの提示も、これは形を変えた新興宗教であり、ポピュリズムの政治と同じことですよ、ということを良く見せている。

時に人々の賞賛や喝采は残酷なまでに無責任で、それは愛なんかでは全くないということも。

 

疑え、省みよ。

しかし私たちはもうすでに、手に負えないくらいの複雑で巨大なものを前にしている。

スノーデンが告発しているように、情報やプライバシーに関して個人が具体的に為す術ってもはやあるのかなという状況だし、

パラダイス文書の告発、アメリカの金持ちベスト3であるジェフ・ベゾスビル・ゲイツウォーレン・バフェットの資産合計が、アメリカの下位50%全員(1億6千万人以上)の資産合計を上回っているというニュースも。小さな個人はもう脱力するしかない。

 

こんな狂った世の中について、まともに考えてもどうしようもないって、やりきれなくなるのは当然だ。

 

だけれど、流されて気づかぬうちに、大事なものを明け渡してしまうことだけにはならないように。

そのことだけはぐっと腹に力を入れて考えておかねばなるまいよ、と思っている。