続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

まさにそーゆー日

ぼーっとしているのはいつものことなのだけど、ごく時々、信じがたいくらいにあちこちで粗相を繰り返してしまう悪夢みたいな日がある。

泣きたいくらいに悔やむのだけど、同時に自分が自分でないような奇妙な浮遊感と当事者意識の薄さが離れない。地面から足が5ミリほど浮いているような、ふわふわと心許ない感じ。

 

昨日が、まさに、そーゆー日、であった。

ああ、悪夢だった・・・。今日も昨日の粗相の余波というか、尻拭いは続いている。

つらすぎて、情けなすぎて書くこともできぬ。

 

だんなさんに半泣きで「わたしほどポンコツって言葉が似合うひとはおれへんわ」

と言うと、あまりのぴったり感に自分で吹き出してしまったほどだった。

否定はしないだんなさんであった。

 

30代のいつ頃からだろう。

無理をすることを身体や脳が許さなくなった。

「気の乗らない約束・気の乗らない仕事・嫌いな人と会う用事・強制的に時間を奪われること」は、手帳に書こうがカレンダーに書こうが、前日まで確認を繰り返そうが、きっぱりと忘れてしまうようになった。

表面的な意識上ではそんなに嫌だと認識していない場合でも、このことは起こるので始末が悪い。

あまりにも忘れ続けるということから「そうか、自分はこれが苦痛で嫌なのか」と気づくという順番のこともままある。

思えばそれくらい、ノーを言うのが苦手な人生で来て「自分が我慢してやり過ごせば丸くおさまるからいっか」と思ってきた人生だったのだ。

 

もちろん、制御不能な現象ゆえ、気がついた時には手遅れだったり、大変なことになって青ざめ、自分が嫌で仕方なくなるってことが何度もある。つくづく自分が信じられないし、恐怖と隣り合わせだ。

 

明日会う予定の人に前日偶然スーパーで会って「明日だよねー」と言い合って別れて、次の日きれいに忘れてすっぽかしたこともある。

それは、その人が嫌いとかではなく、押し付けられた仕事を一緒にやるための集まりだった。当日来ない私にその人がどしたのーと電話をくれ、「うあー忘れてたっ」と正直に言ったらものすごく驚かれたけれど、爆笑され、「分かったこっちは大丈夫」と言ってくれ、後日私の脳内問題を正直に説明した。その人とは今も仲良しだ。

 

嫌いという感情を、「きらいむかつく」とぐっと思うことが嫌で、すぐ忘れてしまおうとしてしまう。忘れることが私を救ってくれる部分も多々あるのだけど、困難に「向き合い」「克服する」を是とする日本人ぽいメンタリティーには全然そぐわない、へなちょこすぎる対処法。闘わずしてダッシュで逃げるということを、自分に許しすぎているせいで、こんなにも忘れてしまうんだろうか。

 

人によっては「しっかりしてる」「こだわりが強い」「完璧主義」と言われたりする私。それも自分の一要素なんだろうなとは思うけれど、この、ねじがひとつ抜け落ちている私が私(や多分家族)にとってのリアリティーだから、どうにも変なものだと思う。