続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「パターソン」

 

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昨日の昼間これを見て、夕方から仕事して、「企業人ってほんとによー(けっ)」と思いつつ帰りの混んだ東横線に乗り込んで、一度はどっと疲れたのだけど、

 

「あ、そうだ『パターソン』のこと思い出そう」と思い立って、映画のこと考え出すと、みるみる機嫌が良くなって我ながらびっくりした。

 

それで、噛み締めるみたいに、ずうっと「パターソン」のことを考えながら帰りの電車に揺られて、幸せな気持ちだった。

 

 

こんなにも愛着を感じるジャームッシュ作品に、もう一度出合えると思っていなかった。予想以上だった。とってもとってもとっても嬉しい。

 

ジム・ジャームッシュの脂が乗っていたのは、なんといっても1980年代後半から1990年代にかけてだけれど、20年以上経って、1991年の「ナイト・オン・アース」のように、思い出すといつでもにっこりとした気持ちになれる作品をまた届けてくれた。

こういう気持ちになれる映画は、他にはカウリスマキ作品くらいだ。

 

素晴らしい力の抜け具合、ジャームッシュらしい可愛らしいユーモア、同時にどこから見ても好ましく美意識は貫かれている。なんて心地良い調和。なんてスムースなんだろう。

 

ほんとにだんなさんの言ってた通りだし、「どうして皆こういう風に生きられないのかなあ。パターソンは特に難しいことをしている訳ではないのに」と思う。

 

撮影が好きとしかいいようがないのだけど、撮影監督は「ナイト・オン・アース」のフレデリック・エルムスという人。知らなかったが、デビッド・リンチジャームッシュ作品をはじめ、アメリカ映画なのにアメリカ的でないあの作品もあの作品も、彼が撮っていたのか、と改めて知る。

 

ティモ・サルミネンのように美しく夜を撮る。

さびしくて、でもどこかわくわくと心踊る。暗くて、そこではどんな奇妙なことでも起こりうる。そんな懐の深さを備えた、自由で広々とした夜。

それは、深呼吸したくなるような、泣きたくなるほどほっとする風景だ。

 

家のエントランスの感じとか、小径の緑や無骨なレンガ造りの通路。「よく周囲を見てみて。世界は美しいよ」と言われているかのよう。何の変哲もなく、しみじみと優しく心に馴染む。

 

バスが、朝車庫からゆっくりと出てきたり、街の交差点をゆっくりと右折したりするのが、どうしてこんなにもじんじんとああ、いいなあと感じるんだろう。

世界のどこかに、名もない善き人々がこつこつと世界を動かす部品に日々丁寧に油を差し、きりきりとねじを巻いているというイメージ。そういう無心な良心を信じられるような気分になる。

 

バスに乗り合わせた人たちは、きまって愚にもつかない、ちょっとずれたようなことを議論し合っていて、運転手のパターソンはそれを聞いてちょっとだけ笑ったりしている。

バーでは顔見知りの客が失恋して変に深刻になったり、マスターが奥さんにすごまれてしゅんとしたりしている。

双子が無意味にやたらと出てくるのも、可笑しく、効いているんだよな。

 

 

パターソンも、他の人々も無理に寄り添わない、どこか呑気にひとごとなんだけれど、奇妙だったりみっともなかったりする人々を、けして見下したり攻撃したりはしない。

気の効いたことも言わなければ、役に立とうとも特にしない。神妙そうな顔をしてただ聞いている。

それが、何ともあったかいのだ。

何のジャッジもせず、ただそこにあなたがいるということを当たり前に肯定するということが、何よりも優しい。

 

そういうことが、今の世の中、本当にできていないんだと思うし、そのことに、みんなの心の奥深くがすごく傷ついているんだと思う。

一億総括役社会とか、犬に喰われろと思う。

 

 

アダム・ドライバー、ちょっと変な風貌の役者なのに、どんな役を演じてもそういう人が確かにいるよね、という納得性を感じさせてそこにいる。面白いなあ。パターソン、実に可愛らしかったし、彼と「詩」との関係性のささやかさとかけがえのなさに胸が熱くなった。

 

ローラを演じたゴルシフテ・ファラハニ、「ぎー、可愛すぎるやろー!」と誰でも心の中で吠えずにはおれない天然全開のチャーミングさだった。

自由気ままで、責任感や整合性はなく、その時々の気持ちのまま生きている。彼女なりに大真面目に猪突猛進。それでいて、何の条件も計算もなく、まるで子どもみたいにパターソンのことが大好きで、心から彼を肯定し、甘え、彼の心に寄り添っている。

 

さらに、彼らの飼い犬マーヴィン。不細工な顔をした特に懐いている感じも薄く、散歩では呼吸がブヒブヒとうるさく飼い主をぐいぐい引っ張って歩き、しつけも大してなっていないイングリッシュ・ブルドッグ

「いるだけでいい」ということをこれ以上体現しているヒトはいない。

 

パターソンにとってのローラは(そしてマーヴィンも)、全然合理的な存在じゃない。彼にとっては理解しがたい、訳の分からないことに入れこんでいるし、奇妙な実験みたいな料理を作る。ローラもマーヴィンも、彼らなりの必然性でもって、てんで勝手に生きている。パターソンはそんな全部に「いいね」と言う。

でこぼこした存在たちがひとつ屋根の下で機嫌良く共に暮らしている。

 

でも、パターソンはローラがいることでどれだけ救われているか分からないし、もし彼女がいなかったら生きているかいがないくらいにさびしいだろうとひしひしと伝わる。

彼らが眠る姿そのままに、二人は実にしっくりと、入れ子みたいにぴったりと安定している。

 

共有するものしないもの、無理なく、気を遣わずお互い好きなようにしていて、でもなんの意地も攻撃性もなく、相手にハッピーであってほしいという優しい気持ちだけがある。巣に戻れば、お互いの話しをきちんと聞き合う。

 

それができるのは、彼らが努力をしていい夫婦であろうとしているからでは全然ない。

そういうきれいごと感は全然ないのがいい。

すごく気の合うふたりであるということはもちろんあるが、

まずもって彼らが変に忙しくないからだし、変な野心も、どんなイデオロギーもないからだ。

彼らがよそに心を、たましいを奪われていない人たちだからだ。

 

今の世の中は、痛々しいくらいにみんな余分な重荷をくっつけていて、それらと格闘している。私もそのひとり。

 

今や、彼らのシンプルさや軽やかさは、瞠目すべきものになってしまったということなんだろう。だから、ああなんていいんだろうと微笑みながらも、どこか苦いのだ。

 

 

「パターソン」は、あなたの恋人やパートナーや子どもや親に優しくしたくなる映画。ずっと大好きな映画がまたひとつ増えた。