続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

先週今週。

夏休みも始まって1週間が過ぎた。

ねっとりとまとわりつくような暑さをこらえつつ、日々走っているというかんじだ。

 

今日は夕方からおでかけ。朝からちょろっと仕事をしたけれど、何となしに気がそぞろなので、今日は整える日にしよう。昨日も夕方庭掃除をしてすごく気分が良かったから、今日も。最近とんとご無沙汰の多いブログ。日々いろいろと思うことがあるのに、あたらしいことが押し寄せて、気がつくとざーっと遠くに流れ去っている。何も分からないまま、何も解決されないまま、全部こんぐらがったまま。

だんなさんも波乗りに行ってしまったし。子どもたちは珍しく部活も友だちとの約束もないって、宿題に励むと言っている。今日も機嫌良く家族ばらばらの一日になりそうだ。

さて、久しぶりにブログを書こう。

 

お盆休み明け、妹と台湾へ行くことにしたので、ちょこちょこ調べたりなどしているうちに、少しずつ楽しみに。とはいえ、日々に追われて準備はゼロだ。たかだか4日間だからちっちゃいリュック1つでさくっと準備を終えられるとタカをくくっている。ブックオフで昔のガイドブックを300円で購入。発展目覚ましい台湾、電車の路線もどんどん増えているらしいので、昔の本でええんかという話もあるが、春休みに家族旅行で台北へ行った友だちいわく「東京のよう」だったそうで、じゃあまあ何とでもなるわね、というかんじ。美味しいもの屋と占い横町と市場、夜市がわかれば良し。

 

その、春休み台北へ行った友だちに、漫画返却&台湾話聞かせてということでこないだ会った。何年ぶりかの葉山Blue Moon。初めてという友だちは素敵、と大喜びしてくれた。

賢い人というのは悩み多きものだ。そして自分が話すそばからどんどん分析をされることの気鬱さよ。でも、何かを自分の分かるように型にはめて、分類して収納するみたいな感じで整理をするということで、精神の安定をはかろうという気持ちは、結構分からんでもない。私にもそういう所があると思う。だからこその長い付き合いなんだろう。

 

しかし、どっと疲れるものだ。なんとか他愛のない笑い話に持ち込み、がははと笑かしてみるのだけど、いつのまにかしんとした空気に戻っている。人と人との関係は化学反応で、だからこそ面白いのだけど、いっぱい笑ったのに別れた後に何とも知れないさびしい気持ちになるというのは、何だかやりきれなかったな。

私のお姑さんもものすごい頭の切れる人で、それゆえの過敏さで緩慢な自殺を遂げるような亡くなり方をした。賢いということはつくづく諸刃の刃だなあと思う。

 

自分には致命的にばかなところがある。致命的に考えが及ばない、致命的に浅はかなところが。

そういう、「なんでそこに気がつけないかね」という部分で、子どもの頃には家族から責め立てられたし(そう、今の息子のように)、大人になってからは恥をかいたり、「あ、こいつあかん方の奴やな」と切り捨てられたりしてきた。

ほんとにうんざりするくらいつらいし、恥ずかしいことなんだけど、そういう自分の馬鹿らしさはたくましさでもあり、自分の命を救っている部分があると思う。

だからばかでいいんだとは、やっぱりとても思えないけれど。でも、ばかはあやうくはないよね・・・。

 

そして、ともかくもFacebookというツールは嫌なもんだなと思った。やっぱりやりたくねー。さまざまな断片を寄せ集めから、結構人は断定的に分析されてしまうもんなんだなーと。もちろん、全然わるくちでも悪気もないのだけど、私はそんな風に知ったように誰かに分かられたくはないなあ。

Facebookは、「見えないところから傍観すること」に新たな価値を付与したメディアだ。傍観者が上位に立ち、発言者や表現者を間接的にコントロールすらする。

 

傍観することに価値があるなんて、どこかゆがんでる。意見が合おうが合うまいが、勇気を持って誠実に表現したり、意見表明をしたりする人こそを評価したい。

 

もちろん、SNSにも気持ちの良いやりとりもある。思いがけない再会や、遠くに住む同士が友情を深められることもあるだろう。けれど、それは実世界でも何らかの確かなものを共有しあえる間柄があってこそなのではないかな?

 

そういうリアルの部分をすっとばしてしまうと、トランプのカードをひっくり返すみたいに、過剰な好意は容易に憎悪に転じ得る。

そういういびつな形のコミュニケーションに加担するのは、やはり純粋に気持ちが悪いよなあ、と思った。そして、最近よく見聞きする「インスタ映え」という言葉に関しては、もはや虚しすぎて。こういうものからはできるだけ遠ざかってこれからも生きていきたい。

 

 

今週のインタビューは2件。超有名アイドルの舞台衣装をしている方と、桶谷式母乳マッサージの第一人者のおばあちゃんという、なんとも真逆の世界観のお二人で、どちらもとっても面白かった。

 

ピンクの髪にゴスロリファッション、全ての指に武器のように指輪がはまっている舞台衣装さんのブラックな仕事ぶり。その中で夢に向かうど根性。アイドルという人種の持つ闇。いろいろと考えさせられたなあ。

 

母乳マッサージのおばあちゃんは、年齢より若くてぴかぴかしていて。

ロミロミや整体の仕事を学ぶ際には、まず「切る」方法を学ぶんだという。体に何かしら悪いものを持っている人が、それを治療する目的で来るのだから、彼らに触れて施術する中で、「悪いものをもらってしまう」からだ。

ヘナをやってもらっている友だちも、「髪は女性の心と子宮と直結しているから、施術している人の悲しみを受けて涙が止まらなくなっちゃうこともあるよ」と言っていたなあ。

アジアでマッサージを受けると、若いんだろうにすごく老け込んだ女性にあたることがあったが、あれってきっと色々なひとの悪いものをもらっちゃってるからなんだろうと思う。

 

人の体に直接触るというのは、そういう怖さがあるんだと思うが、乳飲み子を抱えたお母さんのおっぱいばっかり30年以上触ってきている人の肌ツヤや手はこういう感じなのだなーとにっこりとした気持ちになった。なんともふわふわと柔らかい、女性らしい優しいかんじの方だった。

 

現代の女性にとって、妊娠出産子育ては、自然とつながる偉大な転換点なんだと思う。という風に書くと、「じゃあ産めない人はだめなのか」みたいな議論に必ずなるが、でもこういう方と会うと、やっぱりそう思わずにはいられない。産まなきゃ一人前じゃないということではけしてない。現代においては、「人間が本能を目覚めさせることのできる装置」が他にほとんどない、ということなんだ。

 

ひとりひとりのお母さんと赤ちゃんに寄り添うことが、地球のことに直結する。そういう大仰なものじゃないのよ、と気恥ずかしそうに、おばあちゃんは言う。少しも偉そうでない。でも、いかんともしがたく大きなものに必ず結びついてしまうのが、現代におけるお産というものなんだろう。

 

先週今週は、そんなことをしつつ考えつつ、やっぱり怒濤のように原稿を書き続け、子どもやだんなと話し、映画を見、週に2度のヨガは死守するというかんじで流れて行ったことだった。

 

 

 

さて、お母さんはこれから掃除と昼ご飯の支度だ。