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続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「セールスマン」

いいお天気!

庭のフォレストパンジーは、濃いピンクの花をほぼ散らせて、あとからぴかぴかした銅葉が出て来た。これが、秋になって黄色くなって散るまで、どんどんどんどん大きくなる。夏は大きな木陰を作ってくれる。

 

今日は、先週会った腹話術師さんのインタビュー原稿をできれば完成させたい。もろもろの連絡、アポ取りなどは、できるだけさくさくっとやっつける。要領悪いと、どんだけでも時間を取られがちなので。

 

先週末のファルハディの新作は、ヘビーだったなあ。

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個人的に、まともな判断能力の回路がショートしてしまう弱点というか、ポイントがあって、それは、「女性(ときに男性も)がむりやりに犯される」というものだ。

自分にとって、これほどおそろしいことはない。もう、文字通り震え上がってしまう。客観的な視点を持てなくなってしまう。

映画「セールスマン」では、主人公の妻が、だしぬけにこのような被害に遭うということが、大きすぎる出来事として、この作品全体を貫いている。

ああ、困った・・・・。何をどう書けばいいんだろう。

 

性的なことって、つくづく不思議だ。互いに信頼関係及び意思の一致があれば、ジョンとヨーコのごとく、それは人類が未来を紡ぐ基本で、「LOVE&PEACE」なのだし、この上ない癒しにも活力にもスポーツにもなりえるし、あるいは、気心の知れたカップル関係においては、ささやかでごく普通の日常の行為のひとつであり、時には気の乗らないルーティンワークにさえもなりえる。

 

それが、合意なく暴力的にそのことが行われた時に、「取り返しがつかない」「死にたいほど辛い」という感覚をもたらす。

自分は、普段宗教性みたいなものを自分が持ち合わせていると意識することってほとんどない。性的にも別にストイックでもなんでもなく、ごくノーマルと思っている。

でも、この事に対峙すると「穢れ」という感覚を自分が根深く抱いているのだなあ、と気付かされる。一体、この感じは、どこからやってきたものなのだろう。このことの本質とは、なんなんだろう。分からない。

 

ニュースを見ていても、性暴力の被害は世界中であとを絶たなくて、それを見聞きするたびに、いつもぎゅっと胸が恐怖で縮こまる。

自分や自分の大切な人がそういう目に遭ったら、どうしたらいいのだろう、という思いがよぎることもあるけれど、この年になっても答えはない。自分だったら、死んだ方が楽と思うだろうな、とは毎回思う。

同時に、死んでも何も解決しないし、そういう目に遭った世界中の多くの人たちは、皆その辛さを抱えながら生きているのだな、とも思う。

「でも、もう元の自分には戻れない」という感覚は、何らかの宗教的な意識に通じているんだろうか。自分に考えられるのは、せいぜいそこまで。文字通り、思考回路がショートしている。

 

 

ところで、試写会が終わると、ロビーなどで、業界の人たちや配給会社の宣伝の人たちが、けんけんがくがく、映画について語っているのをよく目にする。

 

私はいつも、映画が終わると、しばらくはかなりぼーーーっとしてしまう。すごい映画ほどひたすらぼーーが増える。物語の世界にどっぷり浸りこんで、しばし、現実の世界に戻ってくるまでには時間がかかる、というかんじ。

言葉が出てくるのは、しばらくあとで、感情のかたまりのようなものを噛み締めているだけだ。

今回も「ああー、生きるってなま易しいものではないのう・・・ううーん」というような取り留めもないことを呆然と思いながら出口に向かって歩いていたのだけど、そんな時、舌鋒鋭い分析的意見で盛り上がっている人たちの話が耳に飛び込んでくると、正直焦る。

 

「全部が繋がっているんですね。冒頭のあのガラスに入ったヒビは、夫婦間の亀裂を暗示していて」「そうなんですよね。おそろしいくらいに緻密な脚本と演出プランですよね」とか、やけに切れ味鋭くって、ま、まずい、私色々見落としている?と一瞬焦る。

焦りすぎて、軽く立ち聞きすらする。でも結局、今、上に書いたこと以外は思い出せないや(笑)。

 

とにかく、頭のいい人たちは、すばらしく分析的思考に長けている。私は、そもそも分析的にものごとを見る能力はないし、自分が少なくとも初めて何かを見たり読んだりする時に、「分析モード」が入るのは詰まらん、と思うから、そのモードはシャットダウンし、身体ごとで、オープンマインドで、ぐーーっとできるだけ深く暗いところへ潜って行く。それが芸術を味わうということだと思っている。

 

言語化するのに時間がかかるから、きっと人より書くのに時間が結構かかっている。でも、今も昔も、「頭上20cmくらいのところに、雲みたいにふわふわ浮かんでいるまとまりのない考えのかたまりを、ひゅっ、ひゅっとひとかたまりずつつかんできて、それにできるだけぴったりとした言葉を与え、漠然とした雲状のものを、徐々に輪郭化する」ということが、私の「書く」ということの意味なので、それなくしては、書いているかいがない。

 

このところ、自分のようなやり方でもそのうちに何とかなる、という小さな自信が生まれてきた。

しばらく悶々と考え、しかるべき時間を置けば、なんとか自分なりに、形にどうやらなってくれた、という経験則が積み上がってきたからだ。

 

これまでも、映画の事は、個人的に好きに書いて来たけれど、お金をもらって書くというのは、「読む人にちゃんと差し出せる何かがある」という手応えがないとだめ。これまでは、そのことをろくすっぽ意識して書いてこなかったということだ。

 

分析的思考については、このところ色々考えていたので、また別に書きます。