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続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「たかが世界の終わり」

昨日は一日偏頭痛がひどくて、体調が悪い訳でもないのになんでだろうと思っていたら、きっと気圧のせいだと言われ、なるほど。いちんち風がごうごうだったからなあ。台風の時に頭が痛くなるあのかんじと確かに似ていた。

今朝起きたら、風はおさまり、頭痛も去っていました。

 

息子は部活へ、娘は子ども会へ、だんなさんは明るくなる前に起き出し、日帰り札幌。北海道日帰りなんて、まったくどうかしている。

しかし独り好きの私はほくほく。

 

 

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昨日の「たかが世界の終わり」。うーん、今までで一番乗れなかったかなあ。

本作がカンヌのグランプリ穫ったと聞いて、ちょっと「ううむ」と思っていたが。カンヌのグランプリって、純粋に作品そのものというより、「そろそろこの監督にあげてもよかろう」的な、ある種あわせ技で選ばれた的な印象を持つ作品も少なくなかったりする。

 

でも、はっとするような映像の数々、独特の緊張と弛緩、せつなくなるような色彩感覚は健在で、ひととき酔いつつじっくり見入った。

 

アブディラティフ・ケシシュの映画のように、息が詰まるほどクローズアップのカットが多用されていて、登場人物の揺れ動く心理を顔の表情から読み取らせようとする。

ものすごい疲れるのだけど、役者たちはさすがの顔ぶれだから、見応えがある。

 

こないだシャーロット・ランプリングの「さざなみ」を見て、あれもすごい作品だったけど、それに匹敵する「顔色を見る映画」だった。

 

そして、やはり彼の描く「年増の女性」は素敵だ。本作ではナタリー・バイ演じるお母さん。いつも通り、ドランが衣装を担当しているのだろうけれど、めちゃいかしてたなあ、化けてたなあ!

彼の映画の年を重ねた女たちは、ときに悪趣味すれすれだったりもするのだけど、いつもすごく決まっていて、ぐっとくるセンス。

何より、ドランが描く女性たちは、どんと太く、懐が深くって、力強い正直さのパワーを持っていて、なおかつ繊細な可愛らしい部分を感じさせる。

そんな「ありのまま」を感じさせる女の描き方に、女性に対する深い愛と自然なリスペクトの感覚を感じる。

 

きっと彼はフェミニストなんだろうなと思う。「女性優遇、レディファースト」的な浅い意味ではなくって、男性が女性を所有したり、支配したり、性的客体として見ることを良しとしないということだ。そういう視点から自由だから、彼の描く女性はこんなにも好ましいのだろうなと思う。

 

それはもちろん、彼自身がゲイであることと切り離す事のできないことで、私がLGBTの映画監督や役者に好きな人が多いのは、男権主義的な、女を男から見て価値が高ければ崇拝し、あるいは価値が低ければ蔑むといった、無意識に仕分けするような視点を彼らがあらかじめ持たないからということも大いに関係するんだろうと改めて気付かされた。

 

今回ちょっと残念だったのは、テーマかもしれない。

若くして時代の寵児となった彼が、周囲の人々のどんな思惑の中にあるかを想像することは難しくない。彼が彼の才能と感覚の求めるままに前へ進み、華々しく成功した事で、彼に見捨てられたと思っている身近な人々の恨み。意図せず傷つけてしまった人々に対する罪悪感。彼はなんといってもまだ若いし、それだけにしたり顔で説教されたり、罵られたり、やっかまれたりすることは、きっとものすごくあるんだと思う。

そういうことをすごく辛く悲しく淋しく思うだろうなということも理解できる。気の毒だとも思う。

けれど、自己憐憫に陥ってしまってはだめだ。創作する人は、その一つ下の層を掘らないと。そのゾーンでは多分似た者同士でしか繋がれない。

 

本作のヴァン・サン・カッセルの演じた、かなり突飛でエキセントリックに過ぎる異様なキャラクターには人間の説得力を感じられず、ちょっとコメディー的ですらあった。それはアントワーヌという人物が、物語のご都合をしょってしまっていたからなんだろうな、と思う。

 

お話を意図する方向に進めるために、あるいは作者の一方的な、ひとりよがりな視点でもって、登場人物の自然に寄り添わず、それを曲げてしまうと、キャラクターのダイナミズムは、どんなに役者が上手に演じたとしても大きく損なわれてしまう。それぞれの人物における納得性というものが、フィクションにおけるリアリティーの肝なんじゃないだろうか。

 

次作を楽しみに期待。