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続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

今日から期末テストらしい

週半ば。今日、明日と中学校の期末テスト。

息子は大して勉強もしていないのに、「今日は数学かあー、ちょっと楽しみ!」とうきうきしながら学校へ行ってしまった。

言うまでもなく、成績は普通に中の下!です。

昨日も「ジム・ボタンと13人の海賊」をずっと読んでいて、9時には寝てしまっていた。

それでプレッシャーないどころか、楽しみって何だ。

「あいつ、行事かなんかと勘違いしているね」としみじみ話しながら朝食をとる私たちだった。

 

息子の勉強には、時々思い出したように「宿題だいじょぶなの〜」と訊く程度。

だいたい、勉強のために勉強をするということがまず、そもそも難しいことなのに、その上、親がプッシュしたら、誰のための勉強かという前提も崩れてしまうだろう。

子供に「勉強してやってるんだから、俺はやることやってるだろ」みたいにはき違えられるのも業腹だし、「おめーのことだよ」いう部分はきっぱり持っておきたい。

 

母としては、学ぶって楽しいことだという本来の感覚だけは死守してほしいなと思う。それさえちゃんとあれば、対象が定まればいつでも巻き返しはできる。

でも、勉強が苦手で苦痛なものになってしまったら、相当大人になって分別がつくようになるまで(たいていは学校を卒業するまで)の日々は、学びという意味では、ほぼまるっと損失になると思う。

 

最小限の合理的な努力で、最大の効果(=成績)を得ることがもっとも賢く得である、という消費者的認識を、教育に対してたくさんの人が持っている。

学ぶって隣の人に勝つことなのかな?

 

そもそも、産業革命時代のイギリスにおける「学校」というものの成り立ちからも明らかなように、学校が「工場労働者を大量に育成するための機関」としての役割を担っていたからこそ、「長時間座って行儀良くできる辛抱強さと、できるだけ早く正確にこなす能率性の追及」という要素が重要視されるということがつながってくる。

そうした我慢強さや効率は、「本来の学び」にとっては必須のものではないことは明らかだ。

 

豊かな学びと「労働者大量生産型」の学校のありようはまったく別のものということを忘れないでいたい。

 

10代の感性のいちばん生き生きとした時期を、好奇心を持って、できるだけのびのび楽しんでほしいな、そのためには邪魔をしないよう気をつけなければな、といつものように思った。

 

さて、仕事。