続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「誰のせいでもない」

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ヴィム・ヴェンダースが監督した、セバスチャン・サルガドのとても美しいドキュメンタリーを最近見て、自分の中で「パリ・テキサス」のままである意味止まっていたこの監督が、自分が熱心にフォローしてこなかった「パリ・テキ」後もずっと、メーンストリームとは離れた場所で、誠実に表現をしつづけていたのだと感心した。

もっとも、2000年頃からはドキュメンタリー中心で、劇映画は少ない。

そんなヴェンダースが折しもこのタイミングで、新作をしかも3Dで撮るとは。役者もジェームズ・フランコレイチェル・マクアダムス、そしてシャルロット・ゲンズブール。みんなかなり好きな俳優。

 

じわーっと胸に何かが迫って来る、渋い作品だった。

そして、たっぷりした間でもって語るのが印象的だった。ヴェンダースって、映画を撮っていない時は、どのようなライフスタイルなんだろう。それこそサルガドのように、人里離れた静かな場所で、じっくりと暮らしているのだろうか、と想像する。

 

現代人のスピードは、とどまる事を知らず早くなっていっている。映像を見ていると、映像の呼吸というか、刻むビートの速度が、明らかに昔と今では違う。それはとどまる事無く早くなり続けている。

LINEをみんな便利便利と言うけれど、私なんかには息があがるくらいのスピード感で、もうついていけないし、心身に害があるから、ついていかなくていいと決め込んでいる。

しかし、ああいうスピード感に、皆があっという間に馴染んでいく以上、映像がせからしくなってゆくのは当然だ。

 

ヴェンダースの刻むビートは、今の世の中の標準よりは随分ゆっくりしている。かったるく感じる人は必ずいると思う。でもそう感じたならば、それはその人が根本的に落ち着きを失っているからだと思う。

構成や編集に無駄はなく、説明も台詞も最小限で、むしろミニマムな作品だ。しかも12年という長期間に渡る物語を2時間で見せているのだから。

 

 

この物語、ジェームズ・フランコははまり役だったと思う。そして、トマスは、ある意味ヴェンダース自身の存在を投影していると思う。

冒頭、トマスは、生涯償うことのできない、しかし過ちを犯す。

そりで突然飛び出して来た子供を轢いてしまうという不幸な事故。

カナダの法の下、彼は法的には罰せられることはない。しかし子供を殺したという事実はなくなりはしない。

トマスは、その苦しみを背負って生きていく。どんなに笑顔でいても、憂鬱の影が消える事はない。トマスは一貫してそういう人生を生きている。

もともと作家だった彼はその後、作家としてより順調に、社会的な成功を収める。

 

この作品で、トマスは色々な女たちにコミットを迫られる。そして、誰にもコミットしきることは出来ない。出来るだけのことはしようとするが、彼生来の性格に加えて、意識下の事故の記憶が、彼を内省的にしている。

そのことを女たちは一様になじる。

彼が彼女らの意に添わないこと、彼が彼女らを不安にさせること、彼が彼のままでいることを、女たちは責める。

トマスは一貫して受け身だ。自分から何かを求めるということをしない。そして、女たちにとってどうしようもなく魅力的な男である。

 

この映画には、強い生命力を持ち、健やかであるからこその、女のある種の横暴さが描かれている。しかし、男は女抜きで生きて行くことは出来ない。女性に対する根本的な諦めに似た憎しみの感覚がヴェンダースにはあると思う。動物として確かな存在感を持つ女性と違って、男性は寄る辺ない、形而上的な存在である。

 

ウディ・アレンは同じことをシニカルなコメディで言うけれど、ヴェンダースはあくまでシリアスに言う。

 

そして、この作品には男性ー女性という軸とは別に、もうひとつの重要なラインがある。これが西加奈子の新作「i」と通底すると感じた部分。世の中的に、スペック的に「恵まれている」ということと、その人自身の幸福には実際相関性はないのだけど、他人は決してそうは思わないということ。

 

社会的に成功して、お金があったら、そうでない人よりも幸せだ、と当然のように思い込む心がある。

けれど実際、観客として俯瞰で物語を見た時に、トマスを幸せそうとは一度も思わないのである。

 

最後に、トマスは殺した子供の兄であるクリストファーという少年からもコミットを迫られる。

「不公平だ」と少年は言う。

母は息子を喪った悲しみに暮れ、一生うだつのあがらない画家であるのに、トマスが作家として成功したなら、それは不幸な事故の経験を彼の「肥やし」にしたからであって、そんな成功は許されない。

 

ヴェンダースに限らず、成功した表現者は、これに似たそしり、逆恨みを多かれ少なかれ、どこかで受けるものなんだと思う。

 

そのことに対するひとつの答えが、映画のクライマックスにある。

そもそも少年の思いは、女たちとは違う。トマスを自分のものにしたいのとは違う。

少年は、ぶざまにぶつかることで、トマスの無言の抱擁で、ただ逃げずに向き合う姿勢で、理解する。

 

時間が経っても、成功しても、お金を得ても、トマスは変わらず悲しみ、苦しみ、背負い続けている。それは決してなくなることはないのだという当たり前のことを。

世の中的な価値観において、彼が不幸であってほしいと願っても、それは本質的な贖罪にはならないのだということを。

 

嫉妬はなくならないし、解決はない。そうした深い諦めはそのままにあるが、ある朝、少年とトマスの心に、分かり合えた喜びが一瞬通い合って映画は終わって行く。台詞はほとんどなく、説明的でないのに、伝わる。そのすごく微妙な心のやりとりがいいなと思った。

 

惜しむらくは3D。そりゃあ臨場感、現実により近いリアリティーというのは多少得られるのだろうけれど、3Dという技術自体には、映像をありありと本当だと感じさせるだけの力は、根本的にはないと思っている。撮影も、3Dありきにすることで、失われたものがあったと思う。優先順位というものがあると思う。

 

そして冒頭、3Dで狭い室内をカメラが動き、独特の大仰な音楽がそれに乗ると、まるきり「ハリー・ポッター」的世界に思える・・・と思ったら、音楽監督がやはりハリポタの人であった。そういう感覚も、ちょっと邪魔だったなあ。

 

でも、さすがヴェンダースだった。濃密な時間に感謝!