続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

墓参り

 

昨日は御殿場に久々の墓参り&恒例のアウトレットへ。

子どもたちの冬物だけをちゃっちゃと買うつもりで行ったけれど、

なんやかんやと時間がかかり、帰宅したのは夜8時。それから大急ぎで手巻き寿司を用意して食べた。

 

我が家のお墓は、富士山のふもとにある超巨大な霊園だ。

辻堂の友人や、近所の人でも、ふとしたことで話が出ると、「あーうちもそこよー」なんて話になるという、もんのすごい規模の霊園だ。

 

はじめは嫌で仕方なかった。

映画で出て来る、アメリカの戦没者のお墓みたいに、おんなじ形のお墓が整然と一点透視的にざざざざーと並び、きれいに刈り込まれた植木の、隙のないきれいすぎる風景がなんて寒々しい。

専門のお世話係がいて、墓の両脇に季節毎にきれいに花苗が植えられている。掃除も抜かりない。でもいつ行っても人気はない。

こんな清潔でさびしいところに別段親しみもない夫家の一族としていずれ入るのかあ〜と思ったものだった。

死んだら親しみも何もなかろう、とは思うのだけど、そういう感覚って変なもので。

 

自分の実家の墓は、そりゃあローカルなもので、信号を渡って一分歩いたらお墓。小さなお寺の一角にある田舎の村のお墓は、雑草も生えてるし、墓石もばらばらで、苔むしてすっかり角も丸くなって、墓によっては傾いたりもしている。

でも真新しい仏花がいつでも生けられて、いつでもこまごま世話されている、暮らしに馴染んだお墓だ。我が家の墓も、先祖、じいちゃんばあちゃん、戦争で死んだ本当のじいちゃん、家の墓、誰かから大昔に託されたという無縁仏と、ばらばらにいっぱいあって、それぞれに水をかけて、線香立てて、おがむ。

私はこのお墓が大好きで、帰省中は必ず一度はお参りに行く。

 

でも、もう数年、この御殿場のお墓に通うようになって、だんだんまあここもいいかと思うようになった。実家のローカルな感じに焦がれながらも、田舎で生きるには、田舎社会や田舎の人間関係が全然苦手で、結局田舎に馴染めず飛び出し、東京や色んな国のあちこちで、無名的に好き勝手に生きて来て、東京の人と結婚して、標準語をしゃべる子供を持った。

 

御殿場の墓はいつでも空気がきりっと澄んでいて、振り返ると、怖いくらいに峻厳な富士山が大きくそびえている。

ここは淋しくて、無名的で、実にさっぱりしている。

自分が似合うのは、実家のあのあったかい雑多な雰囲気のお墓じゃないんだろうな、と思う。

下界はまだこれからだけれど、富士山の五合目に近いそのお墓では、紅葉の盛りだった。きれいに計画植林された木々が美しく色づき、燃えるような赤色の落葉樹にみとれ、しばらく意味なく他の区の墓周りをドライブしてから帰途についた。