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続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

ねじまき鳥クロニクル週間

thought

先ほどだんなさんを長野へ送り出し、ほっと一息中。

 

今日はボーイスカウトキャンプファイヤー、明日はオケの定期演奏会。夏の終わりの2連チャン、さて、粗相のなきよう、気を入れていこう。

 

そしてまた台風が近づいている様子。おっきいやつ。ふうむ。

 

そこはかとなく鬱々としたまま、なんとか浮上しようともがきつつ試行錯誤でやっているこのところ。今回も長い。年を取るごとにスパンが長くなっている気がする。だけれど、年取るごとにどこかのポイントで「抜ける」ことも知っているので、うんざりもしながらなんとかかんとか日常をやっていく。具体的なことをひとつひとつやって、しのぐ。

傍からみれば淡々とした暮らしだのに、心の中というのは凪いだり荒れたりどうやっても心が動かなかったり、ほんのささいなことでも喜びに震えたり。自分はとりわけアップダウンの激しい人間なのだろうけれど、この年になってもなかなかドライブしていくコツは掴めぬ。

 

職場でお年寄りを見ていると、「色んなことが大した事じゃあない、どうでも良いと思えることの善さ」を感じ、その大らかさとシンプルさが微笑ましいし、長く生き抜いて来た時間の重みも含めて尊敬して見ている。

けれど同時に、自分自身の心のダイナミズムみたいなものは出来る限り手放したくないし鈍らせたくないなと強く思う。感性を生き生きさせて色んなものに驚いたり、感激したりできることが生きる喜びだと思うので。

しかし、人間の毒気みたいなものは多分それと表裏のもの。

感性を研ぎすませて生きて行くということはだから修羅の道でもあるんだろう。色々な先達を見ていてもそう思う。

今は私もそっち側から離れられないのだろうけど、先の事は分からない。

そんなゲームからはあっさりと降りて、あまり考えず、のほほんと笑って暮らせる時が来るといいなと憧れている。

 

今はそれもこれもの日々の中、やじろべえみたいになんとか中道を保とうとする働き自体が生きていくということのように思えている。

 

 

久々に「ねじまき鳥クロニクル」を再読している。もう10回以上読んだ、ぼろぼろの単行本。前回読んでから数年は経っている。しばらく前からまた読みたいかな、と思い出して、とうとう数日前からページを開くことになった。「ねじまき鳥」を読むと私は一時的に更に下がり、潜ったような状態となり、ぐっと落ち込むことになる。ひとり静かに、人知れず。

 

子どもたちは知ったこっちゃないし、普通に人とも会うし、ちゃんと社会生活は送っているくらいのだけど、私の内面のそういう動きをだんなさんは割と分かってくれていて、そっとしておいてくれる。そういうのありがたいなと思う。

 

そしてそのうちに、ぽかんとした、しいんとした時間がやってくる。

その一連の流れを、また繰り返す時期に来ているのらしい。

 

そして昨日のヨガは素晴らしかったなあ!鍛えてる感は薄かったが、先生の声、ゆったりとしたリズムが心地良く、久々にサヴァアーサナで寝落ちした。これからもこのクラスのお世話になろうと決める。