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続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

関わり合う、助け合う、笑い合うことの値打ちに気づかされる

thought

早朝だんなさんは宮崎に行ってしまい、いつも早起きの娘は珍しくお寝坊の日曜日。

なのでもひとつ記事を書く。今日も蒸しっと暑いけれど、暦の上では今日から秋か。

 

男二人がいない今日、「何したいー」と娘に尋ねると「カフェでお茶したい!」って可愛いなあ〜。女の子産んで良かったなって毎日思うです。

それで、今日は日曜だから混み合うかもしれないんだけど、普段は大人だけで行くような、小洒落たイタリアンランチでも行こうかな、と思っている。

 

先週、勤めている友だち夫婦経営のデイサービスで、夏休みということで人手が足りず、急遽いつものキッチンではなく現場(介護助手)をした。時間も朝〜夕方まで。

まず長いなあー、夕方のヨガのクラスにも行けなくなったなーというのがあったのだけど、困ってるんだろうな、と思って「だいじょぶよ!」と迷わず請け負った。いつもはヘルプは近隣に住むスタッフから声がかかるので、片道1時間もかかる私にはあまり無理を言わないようにしてくれていること分かっているので、よほどなんだろうなと思ったので。

 

ここに出入りするようになってから、自分が意外にお年寄り好きなんだという事は自分にとってはちょっとした発見だった。というか、そもそもお年寄りはお年寄りという生き物でなくって、それぞれひとりひとりの人なので。好みの人もそうでもない人もいるというだけで。

それほど自分は父親が転勤族の核家族に生まれ育ち、様々な世代の人に多く触れ合わずに生きて来てしまった、人生経験が少なかった、ということなんだと思う。子ども育てるまで赤ちゃん触ったこともほとんどなかったわけだし。

今の日本は、個に分断されて、どんどん生身の人と関わらなくてもなんとでも生きて行けるようにますますなっていっているし、社会的弱者はまとめて隔離されているので、自分から求めなければ、あるいは必要に迫らなければ、様々な立場の様々な世代の人と接触する機会は少ない。

 

弱者をまとめて隔離するという「合理性」はほんとに良くない考え方だと思う。小学校でも障害のある子は、親が「勉強に差し支えるのでいてもらっちゃ迷惑。特別学級に入れてくれ」などと言うのだから。それで子どもに「思いやりを持ちなさい」とか言ったって。鼻白むばかりだ。

そういう鈍感さは、類友で集まってばかりいることによる弊害なんだと思う。日本て街中で障害者を見かける事じたい、圧倒的に少ないもの。

だからそれは個々人の人柄うんぬんの問題でなくて、それなりに長い時間をかけてシステマチックに作り上げられて来た必然的な流れなのだと思う。

 

先日の子どもの勉強漬けの話でも書いたけれど、「回り道を嫌い、正解であると思うところの最短距離を行く、それが一番得だから」という考え方ってほんと貧しいなあと思う。それって、「勝つ」ことを目標設定とした人生なんでしょうけれど。

自分のように「過程」とか「あわい」が人生の楽しみであり喜びであり、むしろ人生そのものだ、というような考え方をする人にとっては、何か「意味がない」とさえ思える価値観の違いだ。

 

話が脱線してしまったが、それでじっくり腰を据えて5人のお年寄りと一日過ごした。久々にものを食べさせてあげたりもした。

特に盛り上がるということもない。表情も感情も乏しいお年寄りをむしろ盛り上げなくてはならないしんどさがある。でも不快でも全然ない。あくまでフラットな気持ち。

普段、気を遣うのが苦手な人間なので、帰りにはどんだけ疲れてるだろう、と思ったが、帰宅して家族に今日の事を話している時、かえって自分が普段よりも元気なことに気づかされ、小さく驚いた。喋りながら「あれ、なんでだろ」ともう一人の自分が驚いていたというかんじで。

 

基本主婦で、日常的に長く物書きをしていて、映画や本を見たり読んだりしている自分は、日頃ソサエティというものの中に身を置き、そこで自分なりに考えたり動いたりするってことをほとんどしていないと改めて気づかされたのでした。自分で思うよりもずっと自分は「閉じている」。

家族がいても、家族はラクチンで、それほど脳みそ使ってないのですね。そして仕事は虚業で。

 

自分自身の日常のそういうバランスの悪さみたいなものをこの小さな変化のある一日で気づかされ、考えさせられました。

自分にとって「楽しい事」「やりがいのあること」が生きる力を上げる、それももちろん一理あるのですが、その前に、ごく単純に、

人間ということばの通り、「人と人との間にある」そういう社会的なありようを維持することで、自然と生きる力が担保されるのだろうな。

人としての健全さを保つ為に、親しいとか親しくないとか、楽しいとか楽しくないとか、そういうこと以前に「複数の人と関わり合って、助け助けられ、笑顔を交わし合う」ということが、シンプルに、生き物としてすごく必要なんだろうなと思ったのです。

 

ちょっと省みて、そういう視点からまた暮らしを考え直し、マイナーチェンジしていきたいと思ったことでした。