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続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

勉強漬けの子どもたちに思う

昨夜の真夜中の土砂降りはすごかったなあ。

大きな雷鳴もあって、怖いくらいだった。

こういう時に限ってだんなさんがいないのだけど、息子の存在を心強く感じて、ああ、大きくなったんだなあ、守る気持ちはもちろんずっと消えないだろうけれど、頼れる気持ちもいつの間にか育ってたと感じた。

とは言っても、息子もこわいーと起きて来て、二人でちょっと身を寄せ合ったりしていた。大の字でガーガー寝ていた娘が実は一番頼れるのかも。

 

さっき、昼前まで息子の友だちのNくんがちょこっと遊びに来ていた。彼は秀才で、全国でも有数の進学校に中学受験して入ったから、顔を合わせて遊べるのは久しぶり。楽しそうで良かった。子ども同士で遊んでいる姿をみると、一番安心する。

 

それでもちょうど正午に帰って行ってしまった。午後は学校で「補習」なのらしい。中学一年生、13歳。あっちを向いても、こっちを向いても、どこの学校へ行っていようと勉強ばかりの子どもたち。

 

私立中学の子は夏休み中も補習などで学校へ行ったり、姪っ子なんかはそもそも夏休み中に2週間正規の授業があるため、夏休み自体が2週間しかない。

公立中学の子は塾の夏期講習通い。息子の仲良しの子も、お盆を除く月曜から金曜までびっしり。日中は部活があるから、夕方から夜遅くまで。

 

もちろん我が家みたいに部活だけ(それでも私は部活が毎日すぎると疑問に思っているけど)、そういう家庭も1年生だからまだたくさんあるんだろうけれど、これが2年生になるとどんどん通塾率が増え、3年生なんて行ってない人が少数。なんで?大丈夫?と訊かれてしまうくらいのものだ。

 

一体どうなっちゃってるの、と思う。夏休みという長期休暇だというのに、そんなに成績を上げることばかりを優先する生活、何の豊かなこともない。

目標は何で、何を目指しているんだろう。本当に、素朴に全然分からないんだ。

 

早朝から夕方まで部活動、夕方から遅くまで塾。帰ってから宿題。それが学校の学期中のみならず、休み中まで続くのだ。どう考えても人間が集中して良いパフォーマンスをあげられる状況じゃない。人間の集中力はそんなにしじゅう途切れる事無く続くものではないし、何のメリハリもなく絶え間なく勉強人生では、モチベーションも上がらないのは火を見るより明らかだ。

 

そういう子たちは、なんとかノルマをこなすために、場当たり的にその場その場で課題をこなしていくしかない。学ぶ喜びや、好奇心の芽や、わくわくするような夢みたいなものは殆ど存在しないか二の次だ。

 

そういう風に余白を無くし、子どもが自ら色々なことを考えたり、想像力を羽ばたかせる時間と機会を奪い、ただただ受け身でゲーム的に与えられた目の前の事をクリアーし、「何の為にこのことがあるのか」ということをきちんと考えないままに大人になっていくことが、どれほどその子どもを大きく損なうことかと思うと、本当に暗澹とするばかりだ。

そうやって隙間なく絶え間なく勉強することをしつけられた子どもたちは、一見子どもらしく見えても、どこか諦め顔に見える。そういうものだと割り切ってそれらに臨んでいるように見える。

 

先週、お盆以外月〜金で塾(&日中は体育会系部活)という生活スタイルの息子の友だちに花火大会で久々に会ったのだけど、以前の生き生きとした輝きは随分なりをひそめてしまっていたように思う。それを思春期の屈託だ、難しい年頃だからと母親は解釈しているようだったけれど。

 

少なからず、彼の主体性や想像力は圧殺されているのだと思う。そんな生活をしていればむしろ当然のことのように思える。

 

そして、それは取りも直さず子どもにそういう生活を強いる親の主体性や想像力が圧殺されているからに他ならない。

自分がその子の立場だったら、とても我慢できないような生活を、どうして大切なはずの我が子に強いることができるんだろう。それを自分がやるんだと想像したら、とても疲れて耐えられないって思うだろうに。もっと自分の時間がほしいってきっと思うだろうに。想像力の欠如。

 

そして、その生活スタイルはそのまんま、将来企業戦士になって、ワーカホリックに働き詰めの人生を送る事のカーボンコピーのような、周到な予行演習のようなものになっている。

それで、安定したお金を稼ぎ出せたとして、それが果たしてハッピーなゴールなの?と問いたくなる。

 

やることやったら、その次に数字や成績にはに計上されない「豊かなこと」に取り組めばいい、と都合良く考えている親も多い。でも、そんな生活ではそもそも余力など残らないし、好奇心も想像力も圧殺されてしまっては、仮にぽんと空白が与えられても何をしていいか分からなくなり、戸惑うのが当然だろう。

それはなくなったわけではないだろう。けれど大きく損なわれてしまっているし、それらを取り戻すのは容易なことではないだろう。

 

何かをさせたら、別の何かはできなくなるのだ。当たり前のことだ。でもそれは何故か勘定には入れられない。どんどん増やす=得る、という側面だけしか見ない。

 

そもそも子どもを勉強漬けにしたり、生活の余白を無くしてしまうことの、目的や目標のようなものをきちんと考えてた上で選択していない人も多い。流されてそうなっている人もいる。

 

私には本当に分からないので、「そうすることでどういうメリットがあるか、その先に何があるのか」というようなことを批判にならぬよう気をつけながら周囲の人々にマイルドに尋ねてみても、残念ながら説得性のある答えに巡り会ったことはほとんどない。私立中学受験に対する考えも、結局わたし的には「マイナスではないのかもしれないが、色んな意味でコスパ悪すぎでしょう」という結論だった。

 

むしろ率直だと思うのだけど、とっさに返って来る答えで多いのが「焦ってー」という言葉だ。これ本音なんだろうな。みんなが行っているから。自分だけ取り残されないように。それから多く聞かれるのが「保険」という考え方。将来の選択肢が広がるから、というような。

 

18才までの期間しかチャンスがないと皆思っている。

 皆、不安にかられて流されているし、「隣の人に勝つ」事ばかりを考えている。'competition'なのである。

設定する枠が狭くて長い目で見た時なんの意味もないということを、大人自身が経験しているはずなのに。

 

一見、我が子には安定した人生を送ってほしいという親心のように思えるけれど、受験産業や、日本社会や、資本主義などにさまざまな不安を煽られた親が、自分の不安を安易に解消するために子どもに深く考えず強いているという場合もあると思う。

 

ほとんどの戦争行為が「平和」と「正義」の名の下に行われるように、善かれと思ってやることは常に間違ったものになり得る危険性をはらんでいる。そのような注意深さと謙虚さを持ってこれからも子育てをしなければと思う。

 

大体において、子どもの「ネイチャー」は間違わない。むしろ間違っているのはほとんど大人の方だ。大人は子どもに何かをしてやれるなどと思わずに、自分の人生を胸を張って生きられるものにするようだけなんだと思う。

どうしたってしてしまうけれど、できるだけ子どもの邪魔をしないようにしたい。

 

あまり賛同を得られないばかりか、多くの人の反感を買いそうな文章になってしまったけれど、でも、私はそう信じている。

 

子どもたちには、近くでなく遠いところに師匠を持ち、本質を見つめ、自分の頭で考えサバイブしていってほしいと、それがどこであっても幸せと思って生きていってほしいと思う。大きく稼げなくても、勝てなくても、センス良くなくても、損しててもいいから、友だちがいて、愛されて、ほがらかに笑って暮らせるように。