続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「生きる力」が上がるかどうかだけなのだ

薄曇りの夏休み。

中学校の吹奏楽部に入っている息子は、3日後に市内コンクールを控えているので、このところ土日も無く一日中部活生活。

私も毎日お弁当作りをせねばならぬので、毎朝早起き。長期休暇に入ったような気持ちに全然ならない。

 

夫はこのところ立て続けに仕事が入って、昨夜金沢から帰って来たと思ったら明日は渋谷、明後日からは長野とのこと。

忙しい男ふたりの小さな愚痴を聞くのもこのところの日課になっている。

 

小4の娘だけが悠々、読書三昧。今も階下から歌声が聞こえて来てにっこりとした気持ち。彼女だけが時間に追われていないのだなあ。

ちなみに私はこの後老人施設へウクレレの演奏をしに行く予定。準備しなきゃなのだ。

 

 

人々をを取り巻く社会の環境に対して、私も思う事はたくさんある。個々についてはまた時間のある時に書きたい。

 

もちろん完璧に機能しているシステムなどないし、故小沢昭一さんが言っていたように「そもそもおかしくなかった時代などなかったんだ」。

だから、不平不満は際限なくいつだってあり、それらをあげつらっていても、解決の道はないと考えた方がよさそうだ。人類の経験的に。

 

とは言っても、だから黙って巻かれるのか?それはやっぱりいやだなと思う。

システムを変えるよう行動を起こそう、という選択をするのはよっぽどのケースだ。

決定権も支配権もない一個人が、それが大きかろうが小さかろうが、複数の人々で構成される一度作り上げられてしまった強固なシステムを改変するということは、「時に人生の大部分をそれにかかずらせていく」ということを意味する。そのコスパを考えると、大抵の場合は二の足を踏むだろう。人生には有意義な使い方は他に山ほどあるんだもの。

 

じゃあ、じゃあその枠の中で、あなたが悔いなく納得のいくようにするために、どういうった選択をするのか。おおむねそういう話になっていく。

大事なのは、自分がどこを目指しているか。何を大切にしたいと願っているのか。

 

選びようのない二択だったり、すごくひどいとまあまあひどいの間を取らなきゃいけなかったり、常に忸怩たる思いはつきまとい、映画やドラマのような胸のすくようなバラ色の決断なんて現実にはほとんどないかもしれない。

でも、自分の頭で考え、自分の意志やフィーリングで決めていくことが全てだ。

 

他者に決められ、指示されて、よく考える事もせず自分の行動を決めてしまうことは、短期的には苦しみや葛藤を伴わず、楽であるかもしれないけれど、長期的にはその人を大きくむしばむと思う。たとえその他者が愛する人であったとしても、憎しみの種を抱えることになるのだと思う。

 

物事の選択をする時に、たったひとつの基準で考えるといい、と思想家の内田樹先生は書いていた。

それは、

「そのことをする/選ぶということを考えた時に、自分の中の『生きる力』が上がるか下がるか」。

この文章を読んだとき、素晴らしい物差しを与えてもらったなあ、と思った。

 

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(多分この本の言葉だったと思うんだけど・・・いずれにしても、とっても面白い、それこそ「生きる力が上がる」わくわくがとまらなかった一冊。)

 

だって「儲かるかどうか」とか「損か得か」とか「ラクかしんどいか」とか、「人に良く思われたい」とか、色んなトラップを全部超越する物差しだから。

例えば、「しんどくて険しい道だけど、普通に考えたら選びたくないんだけれど、多分その方が自分の命が活性化する」というような選択だってあると思うので。

 

大きなことをする必要はない。

日々は小さな「better」を選択していくことの積み重ねなんだなと思う。

わたしたちは、生きる力が下がることを選択しなければ大丈夫。