続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

さて、考えるべし

押し出されるみたいにして、7月に突入してしまったーという感じだ。

今日はいろんな事務作業でこんな時間になってしまった。もう書くのはやめにして、久々にブログで近況を書き留めておこうっと。

 

ちなみに、午後は極力PCを触らぬようにシフトチェンジ中のこの頃。

 

もうそろそろ、インタビューの案件が一区切りを迎えそう。

今後も続くか分からないけれど、インタビューしまくる日々は、楽しいことばっかりだったなあ。

途中、忙しすぎて不義理も起きて、落ち込んだりもしたけれど、やっぱりインタビューは大好きだ。できればこれからも続けたい。

 

先週、自分的には総括になるような1日があった。1日のうちに立て続けに2人、物書きの大先輩にお話を聞くことができた。

30年以上のキャリアを持つルポライターのIさんへの取材、午後に別のインタビュー(CM業界の人だった)を挟んで、夜は青山ブックセンターのの本店で山田ズーニーさん×プロインタビュアーの木村俊介さんのトークショーへ。

 

一日を通じていろいろな示唆がありすぎて、とてもひとことでは書ききれないのだけど、物を書いて生きていくということがどういうことかということが、肌感覚でようく分かった一日だった。

実際に会って何時間か話を聞く、その人の顔の表情や醸しているムードやちょっとした対応なんかに接することは、100通のメールにも勝る情報量だとつくづく思う。

 

多様な職業の人にインタビューをする中で、仕事を職種で紋切り型に捉えることって、かなり的外れであって、鵜と鵜飼に大別されるんだなーとしみじみ思うことが多かった。そして、どんな組織にも属さず、個人で生きていくことは大きな自由だが、同時に搾取もとどまることを知らないというかんじだ。

 

とどのつまり、世の親たちが、子どもに勉強せい、ええ学校に入れと言っているのって、平たく言うと「鵜飼になれ」って言うてんねんなあ、と思います。

 

なかなか両方をできている人は世の中少なくて、それができてれば最強なのだけど、大抵は「鵜」は「鵜」ばっかだし、「鵜飼」は「鵜飼」ばっかりの人生みたいだ。

そして私もだんなさんもばりばりに「鵜」人生だ。まあそういうことなんだなー。

 

経済のこと考えるなら、物書きになっちゃいけない、とまで言っていたIさん。

ズーニーさんはこんな話を。ベネッセという大企業の管理職時代は、合理性に従ってするすると人の首を切ったりしていて、全く気にもしてなくて心が痛みもしなかった。フリーになって初めて、地べたではいつくばるみたいにやっている人たちの気持ちがわかった。同時に霧がさーっと晴れるみたいにして世の中のからくりが見えてきた、と。

 

呑気なノンポリだった自分が今、社会や政治の事も以前より日々気にして生きているのは、子どもを持ったことと「それだけ今がとんでもないことになっているから」だと思っていたけれど、会社員時代、社会の事を全く!!と言っていいほど考えなかったのは、「会社員」だったからかも。と改めて思った。

全てにおいて、当事者意識というか、コミットメントが薄かったのだ。

考えるようになったのは、ましてや自分が大人になって成熟したからなんてかっこのいいものでは全然ない。私なんて、立ち位置だけみたいなことなんだと思う。だから、人の事どーこー言えた義理では全然ないな、と改めて恥じ入る思いだ。

 

自分にとって大事なもの。大事な人。

もう折り返し地点を過ぎて、日々あちこち痛い中で油差しつつ生きてる限りある人生。

売り渡してはいけないたましい、おもねない心。

 

日銭稼ぎじゃ意味がないと思うよ。とだんなさんが言ってくれた。

ほんとにその通り。

立派にも、今さら金持ちにもなりたかないけど、どこで終わりが来てもあんまり悔いないようには整えていきたいもんだと思う。

この仕事の区切りにまたよーーくよーーーーーく考えてみなくちゃ。

 

今週から仕事もしつつメンテナンス月間に入ります。

「光」

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今月は全然映画見れてない!ぎー!と思い立って、

昨日は夕方から河瀬直美の「光」を見に行ってきた。

ああ見られて良かったなあ。素晴らしかった。これまでの彼女の作品の中で間違いなく一番好きだ。

 

いつもながら、本当に映像がいい。湿り気のある日本独特の自然の空気感。湿気や風や匂いが触れられそうに思う。ただきれいで心洗われるというようなことでは甘いことではなくって、凶暴さをはらんだ暗さを内包した、生々しい自然。その無心さ、作為のない迫力。

 

そういう河瀬映画独特の感覚は、やはり河瀬監督自身の感性と深く絡み合っていると思う。彼女の持つ、女性らしい残酷さ、直感の生き物としての女の強さ、正しさや理性はどこか二の次という感覚があり、そのありようは時に傲慢なんだけれど、どこまでも正直で嘘がない強さが伴うので、誰も抗えない。

 

脚本が素晴らしかった。最小限の説明と台詞。役者の顔をクローズアップを多用して、じっくりと見せて行く。

ほんとうに、お腹の中から出て来た言葉しかそこにはないから、何気ない言葉の重みと納得性がものすごくあるのだ。もうほんとうの言葉しか、発したくないし、聞きたくはないんだと言っている。そんな脚本。

 

ほんとうの言葉に感情を揺さぶられる。その揺さぶられ方が、とても微妙なんだ。

何に自分が泣かされているのか、ちょっと説明が出来ない。訳が分からない。

そういう、心の奥深くに整理されないままに混沌と沈んでいる層が激しく揺さぶられる。分かりやすい映画ばかりの中、そういう上等な映画が見られて、とてもうれしい。

 

目の見えない人と見える人の関わりが描かれる。同時に、若い者と年老いた者、男と女の関わりも描かれる。

そこには、どうあっても超えることのできない分断がある。「分かり合うことは、不可能だ」とこの映画はきっぱりと言っている。

 

主人公の若い女性、美しく健康で、独身で身軽でまっすぐで、そして年相応に視野が狭い。

彼女との関わりの対比のなかで浮き上がるように、さまざまな弱い立場に置かれた人の心が浮き彫りになる。障害や老いといった、いかんともしがたい苦しみを抱えて生きる人のありようを、少しも誇張せず、けれど尊厳のまなざしを持って描いている。

 

弱者であることは、とても不便でみじめで、悲しいこともたくさんある。大事なものを諦めねばならないこともある。

けれど、弱者を見下すのは、お門違いだ。

語らないということが、議論しないということが、彼らが「考えていない」ということにはならないのだ。言葉でなんでもつらつら上手に説明する人の方が、賢いとみんな思ってる。

でもそれば全然、全然ちがう。

 

「可哀想な人」である彼らの、ぎくっとするほど鋭く聡明な視点。分かってもらえないということを前提に、謙虚に対話をする姿勢。相手の無知と傲慢さを静かに受け入れる忍耐。相手を無理にねじまげようとしないあきらめを含んだ寛容の心。

 

「想像力がないのは、どっちなんだろう」という台詞の重み。

 

分かり合えないということをベースに、私たちは生きていくしかないのだし、けれど、地道な努力の先には、必ずしも我を通す者と我慢する者という二者択一ではない、もっと豊かなものが生まれる余地もあるのだということを、この作品は示していると思う。

 

美しさがものごとを善く変えていく、そう信じたい。

 

うつくしくない国

あーーー朝からたまらなく嫌な気持ち。

共謀罪が、成立したらしい。

すごいなあ、このなりふり構わぬごり押し感。間違っていようが誰にどう思われようが、もはやどうでもいいという開き直りっぷりのすさまじさ。

議席を与えてしまって、たった数年でここまで来た。権力って、かくもあっという間に凶暴化するのだ。

 

権力って、ほんとうに人を豹変させるのだ。

ヤンキー先生、「文科省内部告発者を処分考えている」と。記者に聞かれて「正義の話をしているんではない、法にのっとってやっている」と、濁った目で答える。熱血教師の面影はかけらもなく、魂をなにかに売り渡してしまっている。

純粋に、よく分からないんだ。少しも幸せそうに見えない、陰鬱な顔。昔の教え子や、友人知人、まともな人は軒並み彼のもとを去っていることだろう。

それと引き換えに、彼は何を手に入れたんだろう。この先、どうありたいんだろう。本当に不思議でならない。

 

今の一連のことは、私たちが多すぎる議席を与えてしまったことがすべてだ。

このことを、みんなが心に刻んで、権力にあぐらをかいて好き放題した人物と、それに追従した人物のことをようく覚えておいて、次の選挙で権力の座から引きずり下ろすしか方法はない。

 

ああ、でも、これからますます、自由にものが言えなくなり、嫌な奴が威張り、嫌な奴に媚びる人間が増えると思うと、心底うんざりするものがあるなあ。

 

温泉と日本のおいしいご飯が大好きだけれど、日本脱出計画考えていかねばならんなあ、とだんなさんと話し合う、薄暗い梅雨の朝。

狂っている

今日は土曜日で子どもがいるので、まあはかどらないとは思っていたけれど、午後からゆうたの要請で買い物のはしご。つかれたー。帰って来てすぐに飲んじゃうから、もう何にもしたくなくなってしまうんだよな、と分かりつつも、やめられないんだなー、ぷしゅが。

 

ゆうたに「このごろ、おとうさんもおかあさんも仕事ばっかり」と言われ、反省。夜は夜風の中を4人でアイスとフルーツを買いにスーパーへ。

 

 

でも、仕事の能率が上がらないのは子どものせいだけじゃなく。

空いた時間にPCに向かっても、何だか気持ちがそぞろで、ニュースやツイッターを追ってしまいがちな今日だった。

 

だって今の政権すごいことになっていると思いませんか。

なんで、こんな同時多発テロみたいにすごい爆弾があちこちで爆発してるというのに、世の中がさほど事もないような、平然とした雰囲気なのがつくづく信じられない。

 

共謀罪も、加計学園文科省現役職員たちのリークも、レイプもみ消し事件も、読売新聞の官邸と癒着した記事も、国連からの度重なる告発も、どれもこれも頭がくらくらするほどめちゃくちゃな事態だ、と思う。

 

純粋に、ありえないでしょう、と思う。今の政権は狂っていると思う。どうしてみんな怒らないんだろう?これで別にいい、大したことではないと思っているのかな?と思うと、さらにくらくらする。

 

今の政府は、凶暴化していて危険な存在だ。歴史修正主義や、国家主義的考えをもはや隠そうともせず、詭弁を弄して、どうせ何もできはしないだろうと薄ら笑いを浮かべている。民主主義の国と思って来たが、一度過半数議席を与えてしまったら、こんなにも短期間に驕り、暴走してしまうとは。怖すぎる。

人間は、学ばないし、かくも愚かなものなのだということを、日々ひりひりと突きつけられている思い。

 

これまでずーーっと政治に無関心な人生だった。関心ないままで行けたら良かったのに。でもそれは、さぼって甘えてきたことから復讐されているということなんだな。「俺たちの民主主義なんだぜby高橋源一郎」だ。

 

お金のことや保障のことも大事だけれど、自分は、何より自由が大事と思う人生だから、個人が自由に生きることを制限し、国の思うままにしてやろうという人々の思惑だけはどうしても見過ごせないんだ。

 

 

ああ、それでも日々ご飯は美味しく、子どもたちはかわいい。素敵な音楽に感激し、初夏のそよ風に幸せを感じている。

そんなささやかな日々の中で、不吉な予感のように薄汚く、きな臭い事柄がいくつもよぎって行く。

 

まるで、映画「この世界の片隅に」の、冒頭のシーンみたいだ。

あの後、あれよあれよという間に、日本はひどい国になっていったんだった。

きっと、今私たちを取り巻く現実は今のところ、あの流れをなぞっている。とてもとても、残念だけれど、不安にかられた思い込みではないって思う。

 

人間を高く見積もるもんじゃないってことさ、とだんなさんは言った。

なんとか、なんとか踏ん張りたい。

ながらがはかどる

今週も、駆け抜けるかのごとし一週間であった。

今日も、いろいろなたくさんのことを、ひとつずつ確実に片付けていかなくっちゃ。

その前に、ちょっと一息だ。

 

今朝は、目覚ましが鳴ると同時に、おっちんがぐいっと起き上がり、軽やかにたたたっと階段を駆け下りて行った。

今日から明日にかけて、学校の1泊キャンプで、彼女はすごーくそれを楽しみにしていたから。

いいなあ、そのやる気。何度もしおりを見返しては、ここをもっとこうしたほうがとか考えていたり、フォークダンスの練習をしたり。「おっくう」の「お」の字もない。すごいなあ、いいなあ、とにこにことした気持ちに。

 

おっちんは、小さな竜巻みたいにさーっと行ってしまい、残された老夫婦は静かにゆっくりご飯を食べる。

食後は、本を読みながら溜った洗い物をする。

私は重度の活字中毒(そして家事嫌い)なので、洗い場のちょうど目線のところに書見台を設置していて、本を読みながら台所仕事をすることが多い。さすがにマンガはページを繰る頻度が高すぎて無理なんだけど、なぜかはかどる。

 

電車に乗る時はもちろん、お風呂にも、トイレ(小でも)にも、どこにでも本がないと気持ちが不安定になってしまう。何につけ「ながら」人間で、そんな自分をだめと思ってきたけれど、ずっと前に野口整体の先生の本を読んでいたとき、自分の体癖が「ながらの方が落ち着き、はかどる」と書いてあって、ほう!と驚く。で、それでいいのかな、と開き直って今に至っている。

 

 

今は、半月後にインタビューする方の著書を読んでいる。キャリアが長く、何冊も出版されているので、会うまでに何冊読めるか。

でも、読むこと自体は苦にならないどころか、良すぎて、涙がじょびじょび出て来ることもしばしばだ。

 

ネット上で、彼女が他で出ているインタビュー記事にも目を通したけれど、言葉の端々から、気取らず、でもぐっとお腹に力の入った生き様を感じるし、強くて優しい顔の写真を見て、こういう顔で年を取れたら素敵だなと尊敬の思いが湧き上がる。

こういう機会は、この仕事は本当に役得だな、と思い、同時に気が引き締まる。楽しみだ。

 

さてっとそろそろ仕事にかかろう。

 

 

 

 

 

そして生活はつづく

今日は、子どもたちオケだから、あとちょっとだけ、のんびり。

 

昨日は、Nさんちでヘナ。

ヘナは、単なる髪染めだけじゃなく、浄化も兼ねているんだよ、ということだけど、ヘナ以上に、Nさんに会って喋って、ケアしてもらい、いっぱい笑うことで、随分と気持ちが洗われたような気持ち。

 

私は、中身「男」だから、Nさんのような、本当に女らしい生き方を全うしている人に会うと、目からウロコがぼろぼろ落ちるほど、自分の勘違いや、思い込みを正してもらえる。

考えが違うこと、自分はそうは思わないということも、ちゃんと言ってくれるその率直さが大好きだ。

 

いつもお昼を一緒に食べようと言われるので、気を遣わせまいと、おにぎり持参かパン買うよーと言うのだけど、いいよいいいよ簡単なものなら作るよ、と結局小料理屋くらいにいろんなものをぱぱっと作ってお盆に乗せてごちそうしてくれる。

私はぎりぎりの時間まで仕事しているもんだから、やっとこおやつの焼き菓子を買っただけ。

 

そのご飯が、しみじみとおいしくって。

柳川飯、具沢山のお味噌汁、かぼちゃのマッシュに海老を和えたものと、野沢菜と茄子の古漬け、白菜と豚肉の煮物、それから庭で今摘んできたばかりのルッコラとサニーレタスとイタリアンパセリのサラダ。バジル入りのオリーブオイルとポン酢をかけていただく。

そういうのがぽんって、気軽に出て来る。一口食べるごとに腹わたに染み込む。いい食べ物を食べた時の、いかにも「滋養」という感覚。

すごい、ほんとおいしい、すごいねえ、と感心しまくっていたら、目を丸くして、「え?全部あったものだよ?残り物だよー」と言う。

 

「ああ、私もちゃんとご飯作ろう。もう本当に作ろう」とつぶやくと、可笑しそうに「それ、前も言ってたよね」と言われる。代わり映えのない私・・・

さらに「私とこうして会えば、数日はやろうってなるからいいんじゃない?」と言われる(涙)。何もかもお見通しだ〜。

 

ほんとに、わたしのだめだめさを許して付き合ってくれている何人かの友だちには、いくら感謝しても足りないくらいだ。

 

彼女はほんとすごくて、ものすごいブラック企業に勤めるだんなさんがいて、でも夫婦仲良く健やかな家族を築いている。同居のお姑さんとも、変な我慢をせず、とてもフレンドリーにやっている。

今の世の中、周囲を見回しても相当な偉業であると思う。本当にすごいなあといつもお手本にさせてもらっている。

 

やはり女の役割ってあるのだよなあ、と思う。男並みに稼いで家計を支えるなんてことより、「俺、大事にしてもらってるなあ」とだんなさんが感じられるようなケアができる、包んでくれる奥さんであるほうが、だんなさんはどれだけ嬉しい事か。

 

でも、誰もほめてくれない地味な日常、三度三度の食事を作り、家をこざっぱりと整え、重たい布団を干し、来る日も来る日もアイロンがけをし、子どもの学校や地域のボランティアをやり、家族皆の話を聴き、そういうことは書くほどには簡単なことじゃない。

 

彼女は、得意なんだよな。苦にならない。食事作りが大変と思ったことがない、と昔言われて、のけぞったもんなー。

私は、ご飯とかわりにどうでもよくなってしまいがち。ずっと作ってばかりいるのは、苦になる。

そういうのはもう、生来のものってところはあるから、開き直るしかないと思うところもあるんだけれど、

今回、悟るみたいにして思ったことを書き留めておく。

 

星野源ブームが続いていて、エッセイ「そして生活はつづく」を読んでいて、すっごくすっごく腑に落ちた文章に出会った。それは、こういうものだ。

 

「人は生まれてから死ぬまでずっと生活の中にいる。どんな華やかなスターだって、どんな暗い世界に生きる犯罪者だって、生活から逃れることはできない。顔をあらったり、うんちのついた便器を磨いたり、食べ残しを片付けたり、電気代を払ったり。

でも、私は生活というものがすごく苦手だ。劣等感のかたまりのような自分から逃げるために、芸術に夢中になった。現実を感じぬよう、自分で自分を忙しくした。けれど、どれだけ大勢の人の拍手喝采を浴びても、帰宅してひとりになると、小学生の頃に感じたとてつもない虚無感が変わらず広がっていた。華やかな達成感と生活に戻った直後に感じる虚無感との差は日に日に広がっていった」

 

だから、生活から逃げずに面白がろうと思う、と星野源は書いていたけれど、

私は星野源のこの文章に加え、Nさんの生きざまを見て、

 

もうきっぱりと

「優先順位は生活が上なんだ」

と、思った。もう、生活の方がだいじと思って、日々を過ごしていこうと。

 

何をもったいぶって書いてんだか、と思われるかもしれないけれど、

自分にとって、この思想は結構なブレイクスルーで、

小型のハンマーでこめかみを叩かれたみたいな衝撃があったんだ。

自分はこの日本で、この資本主義の社会で、何だか勘違いをして生きてきてしまったということを、あらためて身に沁みて思った。

 

この文章、星野源がもがき苦しみつつ書いたからこそ値打ちある。

生活が大事ってことは、例えば松浦弥太郎だって言う。

けど、そんな立派でできてる人に言われても、謝るしかできんちゅーか。

「丁寧な暮らしオブセッション」の轍にはまるちゅーか(by ジェーン・スー)、

 

生活を大事にせんことには、幸せはないとゆーことを、この年になって、ようやくしみじみ観念したでござるよ。うむ。

あんまりだ

そうめんと焼き穴子でお腹が満たされたところで、午後の部スタート。

と言っても、あと1時間もしたらヨガだ。

 

ああ、しかし、このところのニュースのやりきれなさってどうだ。

安倍首相のごりおしで無理に認可を通した、合計100億円以上の税金を無償で投入した、加計学園の一連の事件に対する前川前事務次官の告白。

どっちが真っ黒なのかは、火を見るより明らか。

 

首相の懇意の山口敬之という記者によるレイプ被害を国にもみけされたとして訴えた、詩織さんという女性の会見。

話を聞けば聞くほど、犯罪があったのは明らか。

何より、詩織さんという人が、どんな辛い思いでカメラの前に自分を晒して、真実を訴えているだろうと思うと心からやりきれなくなる。

 

そして、これだけの事件なのに、テレビはひとつもこのニュースを報じず、ネットでしか見られないのもすごい。

国ぐるみの犯罪の隠蔽より、5月が記録的猛暑とか、誰かが大関に昇進とか大事なのだって。

 

共謀罪について懸念を示した国連の調査官ケナナッチ氏に対して官房長官が逆ギレして「激しい言葉で非難をするだけで何にも答えていない」と冷静に返されていたり、国連のコメントを都合の良いニュアンスに翻訳を操作して指摘を受けていたり、このような人たちが国の代表なのかと思うと、情けなくて泣けて来る。

 

「問題には当たらない」とか「まったく的外れ」とか「怪文書」とかの言い草で、本当に逃げおおせることなんてできてしまうんだろうか?そんなことが本当にあっていいのか?

あまりの下品さとひどさに元気が奪われるかんじがここ数日止まらない。ずっと頭に見えない重しが乗っているような仄暗い気持ち。

 

 

いつの間にこんなひどい国になっちゃったんだろうな。まるでフィクションみたい。そして、今後、どこまでひどくなっていくんだろう。心から悲しい。

あんまりだと思うけれど、ちっぽけな自分には何もできない。

世の中も、普通に事もなく回っているように見えるし、周囲の人もあまり気にしていないように思える。ひとり悲しんでいる自分がおかしいのかと思えて来るほどに。

 

 

こないだ、夜のニュースである兄弟がつかまった、というニュースを見た。「主に金庫破りを専門としていました」というコメントを聞いて、なぜかふっと笑ってしまった自分がいて。

それは、「金庫破りを専門に」っていうのが、今、ニュースで喧伝されている嘘や恫喝や裏切りや忖度に満ちた嫌なニュースの数々に比べたら、痛快なくらいにシンプルに思えて、もはやさほど悪いとも思えないとさえ感じている自分がいて。

そんな自分の感じ方で、今どれだけ陰湿なニュースに取り囲まれているのかに改めて気付かされたことだ。

もうなんか、疲れてきちゃったなあ。

 

来月初旬には都議会選があって、極右組織「日本会議」の議員候補が57人もいるそうだ。前回の3割増で、ほぼ半数にあたる。

かつてナチスも、こういう風に勢力を拡大してきたのかなあ。

ああなんてこった、と思う。東京の人たち、どうか気概を見せてくだされ、と思う。