続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

そして生活はつづく

今日は、子どもたちオケだから、あとちょっとだけ、のんびり。

 

昨日は、Nさんちでヘナ。

ヘナは、単なる髪染めだけじゃなく、浄化も兼ねているんだよ、ということだけど、ヘナ以上に、Nさんに会って喋って、ケアしてもらい、いっぱい笑うことで、随分と気持ちが洗われたような気持ち。

 

私は、中身「男」だから、Nさんのような、本当に女らしい生き方を全うしている人に会うと、目からウロコがぼろぼろ落ちるほど、自分の勘違いや、思い込みを正してもらえる。

考えが違うこと、自分はそうは思わないということも、ちゃんと言ってくれるその率直さが大好きだ。

 

いつもお昼を一緒に食べようと言われるので、気を遣わせまいと、おにぎり持参かパン買うよーと言うのだけど、いいよいいいよ簡単なものなら作るよ、と結局小料理屋くらいにいろんなものをぱぱっと作ってお盆に乗せてごちそうしてくれる。

私はぎりぎりの時間まで仕事しているもんだから、やっとこおやつの焼き菓子を買っただけ。

 

そのご飯が、しみじみとおいしくって。

柳川飯、具沢山のお味噌汁、かぼちゃのマッシュに海老を和えたものと、野沢菜と茄子の古漬け、白菜と豚肉の煮物、それから庭で今摘んできたばかりのルッコラとサニーレタスとイタリアンパセリのサラダ。バジル入りのオリーブオイルとポン酢をかけていただく。

そういうのがぽんって、気軽に出て来る。一口食べるごとに腹わたに染み込む。いい食べ物を食べた時の、いかにも「滋養」という感覚。

すごい、ほんとおいしい、すごいねえ、と感心しまくっていたら、目を丸くして、「え?全部あったものだよ?残り物だよー」と言う。

 

「ああ、私もちゃんとご飯作ろう。もう本当に作ろう」とつぶやくと、可笑しそうに「それ、前も言ってたよね」と言われる。代わり映えのない私・・・

さらに「私とこうして会えば、数日はやろうってなるからいいんじゃない?」と言われる(涙)。何もかもお見通しだ〜。

 

ほんとに、わたしのだめだめさを許して付き合ってくれている何人かの友だちには、いくら感謝しても足りないくらいだ。

 

彼女はほんとすごくて、ものすごいブラック企業に勤めるだんなさんがいて、でも夫婦仲良く健やかな家族を築いている。同居のお姑さんとも、変な我慢をせず、とてもフレンドリーにやっている。

今の世の中、周囲を見回しても相当な偉業であると思う。本当にすごいなあといつもお手本にさせてもらっている。

 

やはり女の役割ってあるのだよなあ、と思う。男並みに稼いで家計を支えるなんてことより、「俺、大事にしてもらってるなあ」とだんなさんが感じられるようなケアができる、包んでくれる奥さんであるほうが、だんなさんはどれだけ嬉しい事か。

 

でも、誰もほめてくれない地味な日常、三度三度の食事を作り、家をこざっぱりと整え、重たい布団を干し、来る日も来る日もアイロンがけをし、子どもの学校や地域のボランティアをやり、家族皆の話を聴き、そういうことは書くほどには簡単なことじゃない。

 

彼女は、得意なんだよな。苦にならない。食事作りが大変と思ったことがない、と昔言われて、のけぞったもんなー。

私は、ご飯とかわりにどうでもよくなってしまいがち。ずっと作ってばかりいるのは、苦になる。

そういうのはもう、生来のものってところはあるから、開き直るしかないと思うところもあるんだけれど、

今回、悟るみたいにして思ったことを書き留めておく。

 

星野源ブームが続いていて、エッセイ「そして生活はつづく」を読んでいて、すっごくすっごく腑に落ちた文章に出会った。それは、こういうものだ。

 

「人は生まれてから死ぬまでずっと生活の中にいる。どんな華やかなスターだって、どんな暗い世界に生きる犯罪者だって、生活から逃れることはできない。顔をあらったり、うんちのついた便器を磨いたり、食べ残しを片付けたり、電気代を払ったり。

でも、私は生活というものがすごく苦手だ。劣等感のかたまりのような自分から逃げるために、芸術に夢中になった。現実を感じぬよう、自分で自分を忙しくした。けれど、どれだけ大勢の人の拍手喝采を浴びても、帰宅してひとりになると、小学生の頃に感じたとてつもない虚無感が変わらず広がっていた。華やかな達成感と生活に戻った直後に感じる虚無感との差は日に日に広がっていった」

 

だから、生活から逃げずに面白がろうと思う、と星野源は書いていたけれど、

私は星野源のこの文章に加え、Nさんの生きざまを見て、

 

もうきっぱりと

「優先順位は生活が上なんだ」

と、思った。もう、生活の方がだいじと思って、日々を過ごしていこうと。

 

何をもったいぶって書いてんだか、と思われるかもしれないけれど、

自分にとって、この思想は結構なブレイクスルーで、

小型のハンマーでこめかみを叩かれたみたいな衝撃があったんだ。

自分はこの日本で、この資本主義の社会で、何だか勘違いをして生きてきてしまったということを、あらためて身に沁みて思った。

 

この文章、星野源がもがき苦しみつつ書いたからこそ値打ちある。

生活が大事ってことは、例えば松浦弥太郎だって言う。

けど、そんな立派でできてる人に言われても、謝るしかできんちゅーか。

「丁寧な暮らしオブセッション」の轍にはまるちゅーか(by ジェーン・スー)、

 

生活を大事にせんことには、幸せはないとゆーことを、この年になって、ようやくしみじみ観念したでござるよ。うむ。

あんまりだ

そうめんと焼き穴子でお腹が満たされたところで、午後の部スタート。

と言っても、あと1時間もしたらヨガだ。

 

ああ、しかし、このところのニュースのやりきれなさってどうだ。

安倍首相のごりおしで無理に認可を通した、合計100億円以上の税金を無償で投入した、加計学園の一連の事件に対する前川前事務次官の告白。

どっちが真っ黒なのかは、火を見るより明らか。

 

首相の懇意の山口敬之という記者によるレイプ被害を国にもみけされたとして訴えた、詩織さんという女性の会見。

話を聞けば聞くほど、犯罪があったのは明らか。

何より、詩織さんという人が、どんな辛い思いでカメラの前に自分を晒して、真実を訴えているだろうと思うと心からやりきれなくなる。

 

そして、これだけの事件なのに、テレビはひとつもこのニュースを報じず、ネットでしか見られないのもすごい。

国ぐるみの犯罪の隠蔽より、5月が記録的猛暑とか、誰かが大関に昇進とか大事なのだって。

 

共謀罪について懸念を示した国連の調査官ケナナッチ氏に対して官房長官が逆ギレして「激しい言葉で非難をするだけで何にも答えていない」と冷静に返されていたり、国連のコメントを都合の良いニュアンスに翻訳を操作して指摘を受けていたり、このような人たちが国の代表なのかと思うと、情けなくて泣けて来る。

 

「問題には当たらない」とか「まったく的外れ」とか「怪文書」とかの言い草で、本当に逃げおおせることなんてできてしまうんだろうか?そんなことが本当にあっていいのか?

あまりの下品さとひどさに元気が奪われるかんじがここ数日止まらない。ずっと頭に見えない重しが乗っているような仄暗い気持ち。

 

 

いつの間にこんなひどい国になっちゃったんだろうな。まるでフィクションみたい。そして、今後、どこまでひどくなっていくんだろう。心から悲しい。

あんまりだと思うけれど、ちっぽけな自分には何もできない。

世の中も、普通に事もなく回っているように見えるし、周囲の人もあまり気にしていないように思える。ひとり悲しんでいる自分がおかしいのかと思えて来るほどに。

 

 

こないだ、夜のニュースである兄弟がつかまった、というニュースを見た。「主に金庫破りを専門としていました」というコメントを聞いて、なぜかふっと笑ってしまった自分がいて。

それは、「金庫破りを専門に」っていうのが、今、ニュースで喧伝されている嘘や恫喝や裏切りや忖度に満ちた嫌なニュースの数々に比べたら、痛快なくらいにシンプルに思えて、もはやさほど悪いとも思えないとさえ感じている自分がいて。

そんな自分の感じ方で、今どれだけ陰湿なニュースに取り囲まれているのかに改めて気付かされたことだ。

もうなんか、疲れてきちゃったなあ。

 

来月初旬には都議会選があって、極右組織「日本会議」の議員候補が57人もいるそうだ。前回の3割増で、ほぼ半数にあたる。

かつてナチスも、こういう風に勢力を拡大してきたのかなあ。

ああなんてこった、と思う。東京の人たち、どうか気概を見せてくだされ、と思う。

 

 

 

 

遅れて来た星野源ファン

なかなか自分の仕事をすることが叶わぬまま、時間とともにさらに積み上がっていく。どことなく上の空で、だんなさんともぎくしゃく。話を聴いてあげられていないのだな、とはたと気付くものの、方向修正も上手くはゆかず、気が塞ぐ。

 

ああ、今日もあちこち、人の都合で引っ張り回されて、不毛な一日だったなあ。

明日こそまとまった時間ぐっと集中して書いて、夕方からはちょっとは身軽な気持ちでヨガへ行きたい。

 

あまりに自分の時間のない週末だったゆえ、ひととき、独りに返る時間。真夜中のBGMは星野源「Yellow Dancer」。

ちょっと前までろくに知らなかった。世の中であんなに一世を風靡した「逃げ恥」も,人に勧められて一度見てみたけれど、まったくぴんと来ず、恋ダンスはかわいくていいなーと思ったものの、深追いはせず。

 

しばらく前に、仕事で星野源のことを書く機会があり、いろいろ調べているうちに、彼の書いた文章を読む機会があって、彼が雑誌に連載していた映画コラムをいくつか読んだら、実にすばらしかった。

「プレシャス」の映画評で、吹き出すみたいに泣いてしまって、びっくりした。

それで他の本もぐんぐんと読み、試しにYouTubeで音楽も聴いてみたら、これまた良くて驚く。音楽性は違うけれど、小沢健二のようだと感じる。その根本思想が文章とも通底している。映像関連は手をつけていないんだけど、そのうち見ちゃうのかな。

 

しかしなんといっても文章ががいい。ベストセラーの「いのちの車窓から」は、移動中の電車の中で読んでいたのだけど、やっぱり何度も涙がじーんと湧いてくる。

泣かそうとしている文ではないのに、その思慮深さ、愛情の深さになんだか読んでいる自分が救われたような気持ちになる。

 

すごいなあ、えらいなあという人の文章でも、「なんかすいません」とか、どこか責められているような読後感を持つ人もある。乱暴でぷんすか怒っているような文章でも、見捨てないあったかさを感じることもあるし、表面上の言葉は寛容なようでも、すごく狭量さを感じる文章もある。

 

文章は、ひとつひとつはある意味をもった単語の集積なのだけど、その無限の組み合わせ如何によって、ある景色が浮かび上がってくる。

よく難しい本、平易な本という言い方をするけれど、私の場合、なんの景色も見えない文章が難しいというか、読むのが苦痛に思うのだろうな、と思う。

むずかしい本は、絵本でもむずかしい。

そういう意味では、文章は音楽に似ている。まずはパーツでなく、感覚まるごとで飲み込むみたいにして読んでしまう。

 

その、感覚の根っこにあるのが、書くの人の景色を浮かび上がらせるのが、その人の根本思想なのであり、ここはどう繕っても隠しおおせるものではなく、どうしたって滲み出る。

 

なんだろうなあ、この心が洗われるような清潔さは。多様性に対する祝福の感覚は。わくわくを伴った、あらゆるものへのフラットな視線と、礼儀正しいリスペクトの感覚は。

 

エゴじゃなく、読む人のことを思い、すごくサービスして書いている。何かにおもねているということではなく、一所懸命思いを伝えようと、さぼらず考え抜いた表現をしている。ちょっと見には簡単にさらさら書いている文章と変わらないように思えても、すごく心が行き届いていて、適当がない。じんじんと伝わるものがある。

 

久々に新しい誰かのファンになった。地平の果てまでながーーーく続いている「星野源好き」行列の最末尾に、照れつつこそっと並んだような気持ち。

 

星野源の文章や音楽には、苦しみや暗さの湖の中から生まれた、ぎゅっと濃縮したような、ちょっと意固地で、熱を持った、でも振り切るような、独特の明るさがある。

ちょっとカットがいびつでにごりもあるけれど、この上なく温かみある、特別な自分のための宝石みたいだ。

 

こういう、本当の意味で育ちの良い、「どこに出してもだいじょうぶな男の子」をまたひとり知ることができて、嬉しいなあ。

また明日もがんばっていかなあかんな、と思います。

それではおやすみなさい。

 

f:id:beautifulcrown7:20170529083047j:plain

運動会

初夏の陽気の中、ゆうたの中学校の運動会。

町内会対抗綱引きに出れば、お弁当とお茶をもらえるので、気楽に手ぶらで学校へ。

 

春から陸上部に入ったゆうたは選抜リレーのメンバーに選ばれ、クラス対抗リレーでもアンカーに。どちらも1位は取れなかったけど、なんだか楽しそうに一所懸命走っていて、嬉しくて胸がじんとした。

 

毎年恒例の全員参加の創作ダンス、心はまだ幼い部分もあるんだけど、体はしっかり大きい中学生たちが、ありえないほどノリノリで、独特の振り付けのダンスを披露してくれる。

道端で会ってもろくに人の目も見ないような思春期中学生が、はじける笑顔で、奇妙な気合いのかけ声を発しながら、両手にポンポンを持って、スクールメイツ的なダンスを踊る。それはそれは独特な世界で、おおー、まじか・・・!と胸がどきどきするほど。うちの息子含め、全員が心から楽しそうにはっちゃけている。

知った顔を見つけては、あまりの衝撃的な面白さに何度もぶはっと吹き出してしまうのだけど、いやあ、これだけ自分を解放できる機会を持つことは、非常に貴重な経験だろうと思うわ。

ゆうたを連写して、撮れた画を見るたび、爆笑がとまらない。面白すぎる。将来彼女ができた時に、封印したい思い出No.1になることであろう。これはいざという時に使えるカードだ。母は厳重に保管しておくよ。

 

しかし今日も疲れた。子どもたちが大好きだし、こんなに早く大きくなっていくのはさみしいのだけど、自分が学校に行かなくちゃいけない期間は、とっとと早く終えたい。

ああーん、がっこにがて。高校はもう行かなくていいだろうから、あと4年か!

 

さて、今日は活躍した息子リクエストで、母子で回るお寿司に行ってきまーす。

 

一区切り

昨日も今日も、風がほんとに気持ちいい。

昨日はさくっとウクレレ練習。海で練習。風が強くて参ったけれど、気持ちよかったな。相方さんにスリランカ土産とコストコの巨大なカップケーキを頂く。もうほんとに大きい。おいしかったが胃もたれがすごい。

夕方ヨガでリセット、続くスパは極楽。ジム帰りの身体はふわふわふにゃふにゃで、いつも幸せな気持ち。昨日はピンク色の夕焼けと春風で、もう他には何も要らないという気持ちになった。にやにやと自転車を漕ぐ。

 

今日はこれから幕張。海浜幕張の駅前のアウトレット、行きたかったブランドが入っているので、取材後にお買い物に立ち寄るのが楽しみー。わーい。自分の買い物のためにわざわざ幕張なんて行かないものね。

 

だんなさんは今日は手術の撮影とやらで、朝早く出て行った。なんでも、無菌状態の手術室に入って、手術の様子を撮るらしい。怖いー。そして予定時間は6時間、途中で出ることも、飲み食いすることもかなわないらしい。想像して朝から疲れていた。

つくづくお医者さんや看護士さんってすごいお仕事だな。

 

さきほどアスガー・ファルハディの試写会レビューをなんとか納品。かかっちゃったな。でも、書きながら考えるというか、書く事で見えてくるものがあるという感覚は、いつでも快感で、その中でよりよい言葉をチョイスしていくという作業はやっぱり好きだなあ。来月はもっと映画の仕事が来ますように!

 

今読む本がないんだけど、こないだ友だちから借りた漫画「ピアノの森」と山田ズーニーの文書術についての新書を旅のお供に。この本、ぱらぱらと途中から読み出しても、なんだか反省で身をつまされる所が多すぎる。テクニックではなく、生き方指南の本みたいだ。

 

さてと準備。

 

 

 

 

踊らされぬよう

昨日、おとといと怒濤のスケジュールであった。

おとといは先方の都合で、1日に2件インタビュー。昨日は大会の間をぬって某マイナースポーツの、けれど日本ランキング1位の選手にインタビューするという形のアポだったので、断続的な待ち時間の長いこと。結局インタビューはやりきれないまま、後は電話で補足するかたちにさせてもらった。

昨日の帰りの東海道線では、もうへろへろ。

それでも人と会うのは面白いことばっかりだ。

夕飯は息子がべしゃべしゃの肉ジャガを作ってくれた。

 

金曜日の職業インタビューは、出版業界と映画業界の人。誰でも知っている、はなやかな大企業。

どちらも超ブラックで、出版の方は朝遅めだったが、帰宅は早くて終電、大抵タクシーで帰るので、近くに越しました、とのこと。映画の方はもっとひどくて、朝は6時前から、終わりはテッペン過ぎてもってことがしょっちゅう。あーあまたかー、というかんじだ。仕事の面白い、いい面もそりゃああるんだけど、それがモチベーションでみな頑張ってるんだけど、それにしても、安月給で人間の限界まで酷使され過ぎでは?と思う。

 

電通の不幸な事件があって、今は残業問題がホットなので「ほんとのこと書いてもらったら困るんで、ぼやかしてくださいね」というようなことは、本当にしょっちゅう言われる。

帰って、いろいろ聞いた「ほんとうの話」を酒のつまみにだんなさんに話すと、しみじみ「日本てすごい国だなあ」と感心していた。

 

インタビューが終わって夕暮れの銀座を歩いていると、就活スーツの大学生のグループとすれ違う。皆、実に同じような格好をしている。多くの中から、他の誰でもない自分を売り込みに行くのに、この没個性、クローン人間のごとし無個性は、あまりに矛盾してないかい?と素朴に思う。

 

私の会った人の勤める出版や映画の業界って、花形というか、憧れる学生がとても多い分野。名のある大企業の場合、就活で正攻法で新卒採用を受けても、1000人受けて3人採用とかの世界だ。

はっきり言おう!そういうアクセスの仕方は、根本的に誤っている。専門職に関してはこの限りではないですが。

仕事の得かたとして、それはあまりにもナンセンスなものだ。純粋な消耗だ。

 

大企業の就職試験の内容は、能力を見出すためのものでなくて、落とす口実のため、という意味合いのほうがずっと大きい。

なんで歴史から時事問題から流行や文化やら、数学やら理科やら、そんなあんまり業務に関係のないようなことまで試験にする必要があるのか?そんなパーフェクトヒューマンが必要か?

そしてその後、5次や6次まで面接があったりするのだ。

 

そういう「落とす前提」な就活の状況の中で、「自分はだめだ」「自分は必要とされていない人間なんだ」と自信をなくしてしまうようなこと、逆に「こんな自分を採用してくれたんだから、他はないんだから、多少無茶でも我慢しよう」とか「せっかくこんな大企業に入ったのだから」といった思い込みは、その人にとって、何ひとつプラスにはならない、と思う。

 

実際の社会においては、日本企業の多くは「人を育てる」というマインドをほぼ失ってしまっている。手のかかる甘えた新人はお荷物だから、スキルを身につけた人を中途で引っ張って来る。自分が取材する大企業の人、華やかな業界の人も、みなそうやってまず業界のすみっこに「うまいこと入り込んで」「スキルを積んで」「それを持ってもっといいとこに入り込む」という形で今に至っている、という人が多い。新卒の人って、案外辞めちゃったりしてる人も多いのじゃないのかなーと思う。

 

お金には稼ぎ方があるように、仕事にも仕事の得かたというものがあるのだよな、といろいろな人に会っててつくづく思う。

 

ベタな就活は、就活支援企業の作ったプラットフォームで踊らされているだけ。ほんとに。ああいう一大就活ムーブメントの周辺ビジネスで、どんだけ人材派遣系の企業が儲けてるかと思う。

 

この仕事をしていて、世の中の「マッチング」がどうしてこうもうまく行かないかな、と素朴に疑問を持っていたけれど、リクルート的には、実はそもそもそんなこと、どうでもいいことなのだと端々からようく分かる。

儲かるプラットフォームを、より強固なものにしていくこと。その中で踊らされる人が増えることを企業は望んでいるし、自分の頭で考えて、知恵を絞って自由で多様な進路を見出して行きたいというような人は、どこまでもマイノリティーであってほしいのだ。

 

世の中には実にいろんな仕事があって、若い人を求めている仕事があって、そして仕事は地方にもいーーーっぱいあるのだ。何なら自分で仕事を作ることだってできるのだ。都会で、会社に雇われて働くということに、あまりにも偏っていませんか?

 

就活を後押しする企業は、表面的には「あなたの勝利と幸せのために」という顔をしているし、実際その企業の人たちも、意識としてはそういう思いを持ってやっている、というところが実にたちが悪い。自己欺瞞に気がついてないみたいな、いやな無自覚さがある。

やっぱり企業というのは、どうあっても利益を追求するシステムで、皆、呼吸をするみたいに自然に儲かることを選択するのだ。自分でも気がつかないくらいに、自然に。あるいは心のどこかで気がついてるんだけど見ないようにして。

と、いう現実をシビアに見つめないことには、はじまらない。

 

外部からクールに見ていると、すごく変で、必然性のないことや、実際的でないことをなぜか正さないということにぶつかる。その時に、霧を晴らすみたいに、ものごとの実際を明らかにするのは「それが儲かるかどうかで選ばれているか」ということを見抜く視点だ。

 

学生はいろんな情報をただで与えてくれるように思ってありがたく思っているかもしれない、もちろん有用な情報もある。けれど、同時に視野を狭めるいろんな刷り込みをされていることを、頭の片隅に留めておくべきだと思う。

 

これ、受験システムも一緒ですよね。適齢期になれば「ゼクシィ」とかいう雑誌があるけど、ああいうのも結婚までのレールを敷いた一大プラットフォームの商売だし、結婚して子どもが生まれたら、また「たまひよ」やら「赤ちゃんホンポ」やらでレールを敷いて、やがて子どもは「お受験」へ。そして同じサイクルは続いていく・・・・おおこわ。

 

上手に利用するのはいいけれど、素直に踊らされてはいけないよ、と思う。

 

私が、若いうちに長い旅をすることが、どうしてかくも大事かと思うかというと、自分のいる場所の「枠」のからくりに、あほでも気がつくことができる、視野の広さを獲得できるからに他ならない。

 

いろいろな仕事をしている人にあって、労働条件が悪いことが一概に悪いとは思わない。単純に時間とお金ではかれないことは、世の中にはいっぱいあるもの。

でも、ちゃんと自分で自分の人生を選んでいるという感覚薄く、「こういうもんなんだ」と思ってやり過ごすみたいにして受け身で生きるのは、良くないなと思う。

 

システムというものは、現代でもっともおそろしいもののひとつだ。

すべてのシステムが悪ではないけれど、システムには心がない。システムを介在させることで、人と人が心のない関わりをすることにもなる。

心がないのに、ひとつの志向に向かって、あたかも有機的に増殖していき、個人にはコントロールができなくなってしまう。誰が求めているかも分からないところへ、時にシステムは極まっていく。

 

あーやば、こんな時間、働こ!

 

 

息子の思春期

友だちと、ちょっと前に出来た材木座テラスでランチ。

前回あった時は、ひどいモラハラを受けて会社をクビになったばかりだった彼女。切り替えようとばかり、さっと転職して、とっても忙しい職場に移ったので、1ヶ月半がかりでやっと予定を合わせて会った。

 

こんなに海の近くに住んでいるのに、このところちっとも海を見ていない、季節もいいから海の風を感じながらテラスでご飯もいいな、と思い提案したのだけど、友だちが元エステティシャンだったことを忘れていた・・・。

5月は1年間で一番紫外線がきついシーズンであり、一度できたシミはもうなくならないのだ、とご教示を受ける。で、室内の席で、それでも眺めは最高の席でタコライスランチを食べたのだけど、お会計を払ってお店の外に出たら、さーっとすごく気持ちのいい風が潮の匂いも乗せて体にじかにあたり、やっぱり自然の風はいいなあ、と思った。

 

息子つながりの友だちゆえ、お互いの息子について、「思春期がどんな出方をしているか」という話で盛り上がる。

友だちの息子は、ある意味王道。納得がいかないことがあると、親でも先生でも食ってかかる。自分の思い通りにならないことがあると、キレる。幼い頃から正義感が強く、自分なりに納得しないと動かない子だったから、まあ想定内というか、彼は全然大丈夫だろうな、と思う。今のモヤモヤイライラを超えて大人になれば、またきっと楽しくなれるはず。

「周りがどうだからって流されるってタイプじゃないみたいよ、奴は。」って、まるきりあなたのキャラでしょう、それは!

 

我が家の息子は、反抗やキレるというのは相変わらず全然なく、おだやかで優しい。むしろ妹がしょっちゅうキレて、やれやれと言っている。気がつけば口数はずいぶん減ったなーというかんじ。

でも!めんどくさい!なぜめんどくさいかと言うと、本人がこうと決めためちゃめちゃたくさんのルールを例外なく遵守するからであーる。

我が家では、主にだんなさんのダイエット目的のため、グルテンフリーの朝食にしているのだけど(これと早朝サーフィンだけでだんなさん13キロ痩せた)、で、昼夜は普通に何でもおいしく食べているのだけど、現在息子のみ、ほぼ完全グルテンフリー暮らしをしている。

独身時代、食品会社の商品開発の仕事をしてた関係で、私も添加物や農薬がどっちかというと気になるタイプで、子どもに与えるものにわりと神経質だったと認める。加えて、中学の家庭科の授業での栄養素の話やら、自分で図書館でいろいろ借りて読んでいる本やらで、どんどん思想を強化してしまい、気がつけば結構な健康オタクな人になっていた。

 

「あーもうめんどくさい!おかーさんは今日パスタ食べたいんだから、あんたは餅でも焼いて食え」と言うと、最近は自分で料理を作ったりもしている。

空気のきれいな自然いっぱいの田舎暮らしにも憧れて、だんなさんが取材で仲良くなった長野の農家の田植えに行くと言っている。

「行ったらもう帰ってこないんじゃない?」と妹。山村留学・・・ありうる・・・。

 

それだけじゃない。視力検査で0.3可しかなく、目が悪いのはテレビの見過ぎ、ゲームのやりすぎって、確かにあたしゃ言った。だから眼鏡をかけなさい、って。

気がつけば、テレビも映画もパソコンも携帯の画面も一切見ない人になっていた。

まあ、悪いことじゃないんだからいいんじゃない?とだんなさん。だけど、町中の液晶スクリーンの広告や、しまいにはデジタル時計の画面すら見ないってなってしまったので、まじか、と思う。

それで、最近の視力検査では1.0まで持ち直し、またまた思想を強化・・・。

 

食べないことも、見ないことも、「今お腹いっぱいだからいいや」とか「別に興味ないから見ない」とかあくまで穏便に波風立てないように言うので、もやもやしつつも放置

してきたけど、うーむどうしたものか。

 

友だちは大受けであった。そんな思春期の出方ってあるんだ!やー将来が楽しみだね!

でも、こうやって書いていると、やっぱりおおむねオレのせいだと感じるなあ〜。

 

友だちや、いろんな知人の思春期の話を聞くと、「あ、おかーさん(つまり話し手)に似てる」って感じる。子どもがお母さんの性質を、より強化して融通がきかない状態で全うしようとしているみたいな印象。

大人はぶーすか言いながらも、社会生活と折り合いをつけて、妥協もしつつ、のらりくらりやるんだけど、子どもはすごく「真に受けちゃう」というかんじで、いやはや困ったとみんなが言っている気がする。

 

「子どもが親の矛盾やずるさを突きつけるある種の合わせ鏡のような状態」が思春期状態の親子関係と言えるんじゃないだろうか。

それは、絶対的な愛と依存と信頼関係で、親を客観的に見ることがなかった子どもが、親をひとりの人として理解、解釈、納得しようとしはじめ、やがて乗り越えていこうとする過程のことなんだろう。

 

子育ては、子育てられだね、実際。

ま、テキトーに様子を見ていくしかないか。