続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

バースデー

誕生日。

明日は人寄せなので、買い出しや掃除などでばたばた。

夕方家に帰ると、子どもたちが部屋にこもって「ハッピーバースデー」のアンサンブルを練習している。

回数を重ねるごとに、ちょっとしたフレーズを変化させたり、和音を変えたりして、試行錯誤している。

私は枝豆やとうもろこしやモロヘイヤを茹でたり、レタスをむしったりしながら、じんじんと幸せな気持ち。

 

夕食はみんなで「キママル食堂」。おいしいタイ料理を食べて帰り、息子が作ったどろどろのチーズケーキとミルクティーをセッティングしてから、さて「ハッピーバースデー」のクラリネットオーボエの演奏。

1回目はへろへろ、2回目はまずまず。ふたりともずいぶん上達したな。おっちんも「チャルメラ」でなくなった。

寄せ書きと写真の入った額と、割れてしまって欲しかったデュラレックスのピカルディとシャープペンシルをもらう。

 

はあーーーー、じんじんじんじん。

 

今日みたいに張り切って、特別な日にがんばってくれることももちろん嬉しいのだけど、ほんとはこんなにしてもらっていいのかなあ、って毎日ふとした瞬間に思っている。何の留保もない愛情をまっすぐ向けられるたびに。

それらは、とてもそんな人間じゃないよ自分は、と怖じ気づくくらいの留保のなさだ。

日々の小さな事たちが実はあまりにもすごいことなので、まともに考えると胸が苦しく、どきどきしてしまう。

だから、あんまりぐっとそこは見つめないようにして暮らしている。

それだのに誕生日とかだと、きらきらした顔で「さあじんじんしたまえ」と言わんばかりの圧を向けて来るから、たじたじっとなるなあ。

でも、本当は毎日のことだ。日々の子どもたちとの関わりは、自分にはもったいない、ありがたい、有り・難いとしか言いようのないことだ本当は。

 

ぐんぐんと育っていく。もう数年もすれば離れて巣立ってゆく。

そしたらわたしは、老いていろいろ痛い、皺の入った体を抱えながら、静かに残りの時間を生きていくフェーズに入っていく。

老いることはバラ色ではないから、ため息つきつき、じりじりと歩むことも多いだろう。

そんな時、子犬のようにまとわりついていた、まっすぐ覗き込むように私の目を見た子どもたちを何度でも笑顔で思い出すんだろう。

この平凡で冴えない、時に忸怩たるようにも思える今の暮らしの記憶が、多分死ぬまで私を温め続けてくれるんだろうなあ。 

 

 

 

ダイアログ・イン・ザ・ダーク Dialog in the dark

8月も10日が過ぎた。いよいよ私の書斎は蒸し風呂のよう。きついよう、この部屋にもクーラーがほしいよう。

 

気がつけば、後5日で台湾か!さすがに少しは準備しなきゃと思い、今日のノルマを書き上げた後は、書類のコピーをしたり、行きたい場所のリストアップをしたりしていた。小さなリュックで行けばいいかと思っていたが、買い物も楽しみたいからやっぱりスーツケースにしようかなと思ったり。

 

いずれにしても、基本はパスポートと旅行会社の書類があれば、後は国内旅行と何ら変わらないわけなんだな。この気軽さは、スマホを所持していることも大きいと思う。良くも悪くもそういう世の中になったものだ。

 

昨日は、家族4人で外苑前へ。この夏休み唯一の揃っておでかけの一日だった。

だんなさんたっての希望で「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」へ。完璧な暗闇の中、視覚障害者の感覚を疑似体験する施設だ。今月末でひとまず閉館するということで、えいやっと行ってきた。閉館することも手伝って、予約を取るにも苦労したそう。

 

具体的には、暗闇の中で移動しながらいろいろなものを触ったり、匂いを感じたり、知らない人と雑談をして、ジュースとお菓子を食べる。

わりにふつーのことで、はらはらどきどきしたり、ショックを受けたりするようなことはなく、「ほうほう、なるほど、わー、へー」というくらいのテンションだ。個人的には、ものすごーくインスパイアされた!というわけではなかったが、ひとつ驚いたのが時間の経過の感覚。

ナビゲーターの視覚障害者の方が、一通りのコースを終えて最後、感想を尋ねる中で、「どれくらい時間が経っていると思いますか」と聞いたら、

子どもは「10分」、大人も「30分?」「3〜40分くらいかな」と口々に言っていたが、正解は70分だった。私もせいぜい2〜30分と思っていたので、まじで!?と思った。

 

これって何現象なんだろう。五感を働かせて、「今・この瞬間」に必死で集中していたということは言えると思う。時間てなんなんだろう、と改めて思った。

 

そして、もうひとつ感じたこと。8人の即席のパーティで共に過ごしたのだけど、暗闇の中では顔も見た目も関係なくて、みんなろくに動き回る事もできない寄る辺ない存在になる。そうすると皆フランクに声をかけ合い、体を触れ合い、感じよくフレンドリーに過ごす。

 

けれど、暗闇から出て、ロビーで感想を用紙に書かされるのだけど、そうなるともう一切お互い目も合わせないのだ。「わー、あの人こんな顔の人だったんだ」と思いちらりと見ると、睨むような視線を送られてぎょっとしてしまった。

 

アンケートを書くと、皆、隣の人にあいさつもせずに立ち去ろうとする。

私はどうにも気持ち悪くて、「お疲れさまでした」と笑顔で声をかけると、おずおずとした反応が返ってきた。結局、家族4人で楽しくがやがや看板の前で記念撮影をしていたら、参加していたカップルの女性のひとりが「良かったら撮りますよ」と申し出てくれた。意地悪いとか親切とか、そういうことではなくって、もうみんな本当にできれば嫌な思いをしたり、相手に引かれたりしたくないから、自分からはアクションしないと決めているという人が多いということなんだと思う。

 

普通の、見えている都会の暮らしでは、皆が誰にも頼らず一人でやっていくことができると思っているから、関わらないよう、関わらないようにする。弱くて人の助けを借りなければやっていかれない状況では、人はぐっとお腹に力を入れて人と関わろうとするし、感じよくあろうとする。

災害の時などの非常時などでも、そういうことなんだろうと思う。災害時の連帯感は、平常時に戻ると消えてなくなってしまう。

 

これだけ便利な世の中だから、誰もが「一人で生きている」と思えてしまう。一人で生きられると思うことは、世の中にさびしさを増やしているのだなあと思う。

 

子どもたちは、「また行きたい!また行きたい!」とノリノリだった。ナビゲーターの視覚障害の方のスムースさには到底及ばないけれど、子どもは運動能力も高く、感覚もビビッドだから適応力も高くて、大人よりずっと見えない世界で触覚や味覚や嗅覚を使って積極的に楽しんでいたし、暗闇ではみんなが平等に寄る辺ないので、子どもと見くびられることなく、しっかりとみんなが話を聞いてくれる、そのフラットさを感じていたのだと思う。

 

帰りは、青山の高級ハンバーガーレストランへ。家族4人で7000円なり!青山価格恐るべしだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インタビューについて思うこと

むはー、き、きつかったなー!

2日がかりで、やっとこ某業界プロデューサーのインタビュー記事が書き上がった。

最近は、録音データを聞きながらテープ起こしは省いてそのまま記事にまとめていくことが多いのだけど、この録音データがくせもので、相手がどうこうってんじゃなく、自分のだめさ加減をあらためて聞き直すのがどうにもこうにも苦痛というのがある。

 

時々、ひどい自分のインタビューに出くわすと、「ぎゃー」とさけんで思わずストップボタンを押してしまう。昨日は途中であまりの羞恥に続行不可能になったというわけ。

 

言い訳になるけれど、この方へのインタビューの日は、午前中にすごく濃い、そして強く共感できる方へのインタビューがあり、大幅に時間をオーバーして熱く語っていただいていたんだった。インタビュー後は、へろへろのかすかすで、準備もいい加減なものだった。

 

その上、自分自身基本的に「プロデューサー」という仕事がどーにもこーにも好きになれん。「広告代理店」の次に苦手、という意識があるなかで、それこそ広告代理店に向かって仕事しているみたいなそのプロデューサーさんの立ち位置について、ごく正直に言えば、リスペクトが不足していたと思う。

 

もちろん、ひとつも失礼なことは言っていない。丁寧で、和やかで、漠然とした質問もしていない。けれども、「何に着目し掘り下げていくか」「返ってきた答えに対しどう深めるか」という部分で、もう全然だめだ、穴があったら入りたい、というかんじ。

 

文章は、編集だから、いろいろな部分が削ぎ落とされている。だから、結果としてあがってきた文章はまがりなりにも形はなる。クライアント的にはそれで別段オッケーなのが悲しいところで、ひとり地味に自分なりのクオリティーにこだわっているだけなんだけれど。

沈黙や「間」は文章には表現できない。会話は相互性のある化学反応であり、対話者は言葉だけでない、いろいろなものを交換し合っている。ああ、だんだん、だんだんと下り坂になっていく会話よ。

 

もう本当に、疲れているのはだめだし、相手を好きになろうという気持ちが不足しているのはだめだし、謙虚で素直な好奇心が欠けていたなら、何も豊かなものは相手から引き出せないんだなあ、とすごく反省した。

 

普段から、喋り方が下手とか、なんどもしつこく聞くとか、関係ないようなことを聞くとか、そういうのは毎度のこと。「はー相変わらずスマートじゃないね」とは思うものの、結果が引き出せて、そして相手をきちんと尊重できていれば、自分の格好悪さは全然許容できる。けれど、相手に対してベストとほど遠い、きちんと全身で傾聴できていないというのは無理。ものすごく恥ずかしかった。

 

原稿を起こす段階で資料をも一度読み込んだり、映像を見たりすると、すごく興味深い要素がたくさんあって、きっと面白い部分をたくさん持った取材者のはずだった。多忙を理由にろくに下調べしなかった。

せめてきちんと人と出会った、という実感を残す時間にするようにしたいなと思った。

 

対象への勉強不足よりは、調べていったほうがもちろんいいんだけど、そこは多分一番じゃない気がする。インタビューって、上手であったり、丁々発止であったりするのが上等なことじゃない。下手は下手なりの良さがある世界。

自分は、やはり疲れていないことが何より大事と思う。余白に相手の言葉を染み込ませ、素直なラリーを続けるには、好奇心と対象への愛情が不可欠。

 

今回のインタビュイーに関しては、思いやりというよりは、「変な気遣い」みたいなことだった。くだらん。はー、でも勉強になった。これからがんばろっと。

 

 

ところで、インタビュアーというのは、そもそも「格好悪い」人なんだと思う。ある意味、読者に代わって格好悪い立ち位置を代表することもある人。全部がそうとは一概に言えないにせよ、インタビューの対話にはそういう側面が必ずあると思う。

 

だから、自分の意見を得々と披瀝していたり、取材者に負担をかけるような抽象的な質問をして「それっぽい質問したな」とどや風になっていたりする聞き手にはつい、違うやろ、と思ってしまう。

 

基本、相手へのリスペクトと礼儀を忘れない範囲において、なんでも素直に子どものように聞くがよしと思っているが、ひとつ絶対しないと思っている質問がある。それは

「あなたにとって◯◯とは何ですか」

という質問。

 

必ず聞いたことがあるはず。「あなたにとって女優とは?」「あなたにとってサッカーとは?」「あなたにとって教師とは?」とか。スポーツ番組やオリンピックのインタビューでは、定型句とも言えるこの質問を、わたしはほとんど憎んでおります。

 

一度、自分が言われてみればよろしかろう。「あなたにとって人生とは」「あなたにとって結婚とは」気の利いた答えができる人がどれだけいるだろう。てか、どんだけ丸投げやねん。こういう質問は、マウンティング行為でもあるという意味でも、わたしは好きくない。

 

それにしても、インタビューは面白い。世の中には、面白くない人なんていないからだ。下手でもそれなりの良さを見出せるインタビュアーって、めっちゃポジティブな仕事だと思うなあ。つくづくありがたいことである。

 

先週今週。

夏休みも始まって1週間が過ぎた。

ねっとりとまとわりつくような暑さをこらえつつ、日々走っているというかんじだ。

 

今日は夕方からおでかけ。朝からちょろっと仕事をしたけれど、何となしに気がそぞろなので、今日は整える日にしよう。昨日も夕方庭掃除をしてすごく気分が良かったから、今日も。最近とんとご無沙汰の多いブログ。日々いろいろと思うことがあるのに、あたらしいことが押し寄せて、気がつくとざーっと遠くに流れ去っている。何も分からないまま、何も解決されないまま、全部こんぐらがったまま。

だんなさんも波乗りに行ってしまったし。子どもたちは珍しく部活も友だちとの約束もないって、宿題に励むと言っている。今日も機嫌良く家族ばらばらの一日になりそうだ。

さて、久しぶりにブログを書こう。

 

お盆休み明け、妹と台湾へ行くことにしたので、ちょこちょこ調べたりなどしているうちに、少しずつ楽しみに。とはいえ、日々に追われて準備はゼロだ。たかだか4日間だからちっちゃいリュック1つでさくっと準備を終えられるとタカをくくっている。ブックオフで昔のガイドブックを300円で購入。発展目覚ましい台湾、電車の路線もどんどん増えているらしいので、昔の本でええんかという話もあるが、春休みに家族旅行で台北へ行った友だちいわく「東京のよう」だったそうで、じゃあまあ何とでもなるわね、というかんじ。美味しいもの屋と占い横町と市場、夜市がわかれば良し。

 

その、春休み台北へ行った友だちに、漫画返却&台湾話聞かせてということでこないだ会った。何年ぶりかの葉山Blue Moon。初めてという友だちは素敵、と大喜びしてくれた。

賢い人というのは悩み多きものだ。そして自分が話すそばからどんどん分析をされることの気鬱さよ。でも、何かを自分の分かるように型にはめて、分類して収納するみたいな感じで整理をするということで、精神の安定をはかろうという気持ちは、結構分からんでもない。私にもそういう所があると思う。だからこその長い付き合いなんだろう。

 

しかし、どっと疲れるものだ。なんとか他愛のない笑い話に持ち込み、がははと笑かしてみるのだけど、いつのまにかしんとした空気に戻っている。人と人との関係は化学反応で、だからこそ面白いのだけど、いっぱい笑ったのに別れた後に何とも知れないさびしい気持ちになるというのは、何だかやりきれなかったな。

私のお姑さんもものすごい頭の切れる人で、それゆえの過敏さで緩慢な自殺を遂げるような亡くなり方をした。賢いということはつくづく諸刃の刃だなあと思う。

 

自分には致命的にばかなところがある。致命的に考えが及ばない、致命的に浅はかなところが。

そういう、「なんでそこに気がつけないかね」という部分で、子どもの頃には家族から責め立てられたし(そう、今の息子のように)、大人になってからは恥をかいたり、「あ、こいつあかん方の奴やな」と切り捨てられたりしてきた。

ほんとにうんざりするくらいつらいし、恥ずかしいことなんだけど、そういう自分の馬鹿らしさはたくましさでもあり、自分の命を救っている部分があると思う。

だからばかでいいんだとは、やっぱりとても思えないけれど。でも、ばかはあやうくはないよね・・・。

 

そして、ともかくもFacebookというツールは嫌なもんだなと思った。やっぱりやりたくねー。さまざまな断片を寄せ集めから、結構人は断定的に分析されてしまうもんなんだなーと。もちろん、全然わるくちでも悪気もないのだけど、私はそんな風に知ったように誰かに分かられたくはないなあ。

Facebookは、「見えないところから傍観すること」に新たな価値を付与したメディアだ。傍観者が上位に立ち、発言者や表現者を間接的にコントロールすらする。

 

傍観することに価値があるなんて、どこかゆがんでる。意見が合おうが合うまいが、勇気を持って誠実に表現したり、意見表明をしたりする人こそを評価したい。

 

もちろん、SNSにも気持ちの良いやりとりもある。思いがけない再会や、遠くに住む同士が友情を深められることもあるだろう。けれど、それは実世界でも何らかの確かなものを共有しあえる間柄があってこそなのではないかな?

 

そういうリアルの部分をすっとばしてしまうと、トランプのカードをひっくり返すみたいに、過剰な好意は容易に憎悪に転じ得る。

そういういびつな形のコミュニケーションに加担するのは、やはり純粋に気持ちが悪いよなあ、と思った。そして、最近よく見聞きする「インスタ映え」という言葉に関しては、もはや虚しすぎて。こういうものからはできるだけ遠ざかってこれからも生きていきたい。

 

 

今週のインタビューは2件。超有名アイドルの舞台衣装をしている方と、桶谷式母乳マッサージの第一人者のおばあちゃんという、なんとも真逆の世界観のお二人で、どちらもとっても面白かった。

 

ピンクの髪にゴスロリファッション、全ての指に武器のように指輪がはまっている舞台衣装さんのブラックな仕事ぶり。その中で夢に向かうど根性。アイドルという人種の持つ闇。いろいろと考えさせられたなあ。

 

母乳マッサージのおばあちゃんは、年齢より若くてぴかぴかしていて。

ロミロミや整体の仕事を学ぶ際には、まず「切る」方法を学ぶんだという。体に何かしら悪いものを持っている人が、それを治療する目的で来るのだから、彼らに触れて施術する中で、「悪いものをもらってしまう」からだ。

ヘナをやってもらっている友だちも、「髪は女性の心と子宮と直結しているから、施術している人の悲しみを受けて涙が止まらなくなっちゃうこともあるよ」と言っていたなあ。

アジアでマッサージを受けると、若いんだろうにすごく老け込んだ女性にあたることがあったが、あれってきっと色々なひとの悪いものをもらっちゃってるからなんだろうと思う。

 

人の体に直接触るというのは、そういう怖さがあるんだと思うが、乳飲み子を抱えたお母さんのおっぱいばっかり30年以上触ってきている人の肌ツヤや手はこういう感じなのだなーとにっこりとした気持ちになった。なんともふわふわと柔らかい、女性らしい優しいかんじの方だった。

 

現代の女性にとって、妊娠出産子育ては、自然とつながる偉大な転換点なんだと思う。という風に書くと、「じゃあ産めない人はだめなのか」みたいな議論に必ずなるが、でもこういう方と会うと、やっぱりそう思わずにはいられない。産まなきゃ一人前じゃないということではけしてない。現代においては、「人間が本能を目覚めさせることのできる装置」が他にほとんどない、ということなんだ。

 

ひとりひとりのお母さんと赤ちゃんに寄り添うことが、地球のことに直結する。そういう大仰なものじゃないのよ、と気恥ずかしそうに、おばあちゃんは言う。少しも偉そうでない。でも、いかんともしがたく大きなものに必ず結びついてしまうのが、現代におけるお産というものなんだろう。

 

先週今週は、そんなことをしつつ考えつつ、やっぱり怒濤のように原稿を書き続け、子どもやだんなと話し、映画を見、週に2度のヨガは死守するというかんじで流れて行ったことだった。

 

 

 

さて、お母さんはこれから掃除と昼ご飯の支度だ。

 

 

 

 

 

ブルーに生まれついて

まだ眠れやしないのでもういっちょ。

 

だんなさんが間違ってアマゾンプライムの無料体験をするをクリックしてしまった。我が家はNETFLIXも入っているので、1カ月後には忘れずに解除しなければならないのだけど、せっかくだからとウディ・アレンがアマゾン資本で作っている連続ドラマを見る。

 

例の心癒されるいつものオープニングは健在だったし、撮影のクオリティーは映画と何ら遜色ないものだったけれど、会話にキレがなく、役者さんもウディ以外は知らない顔ばかりで、演技も見劣りがする。全体に間延びした印象があってどうにものれない。

気がつけばソファでがーがー居眠りしてしまった。(それでこんな時間にぎんぎんな訳ですが)

 

面白い映画やドラマの法則。開始5分でもうどきどきわくわくしていること。エキサイティングとかノリが良いとかいうことではなくって、めっちゃ暗くても静かでも、面白い映画は胸がどきどき、これは面白いよと体が告げてくれるかんじ。どんなに眠くても目が覚める。逆の場合は残念ながら・・・というケースが多い。

 

だんなさんは、ウディ・アレンなりに今のひどいアメリカの状況に対して思うところがいっぱいあって、それをテーマや会話に乗せて彼らしく表現している、これはかなり意図的でポリティカルな作品だということで、一定の評価をしていた。でも私はやっぱり作品の魅力ありきで見てしまうな。

昼間の元気な時にまた見直してみようっと。

 

逆に、めっさ眠かったのに見出して1分でかきーん!と目が覚め、胸のどきどきとわくわくが止まらなかった映画は、イーサン・ホークチェット・ベイカーを演じた「Born to be blue」(邦題:ブルーに生まれついて)だった。

 

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冒頭のトリッキーな演出がいかにも洒落ていてにやりとさせられるし、やっぱりジャズはこうでなくっちゃ、というジャズそのものの空気感が画面に充満していて、ジャズの一番元気だった頃のタイムトリップをひととき堪能した。

 

イーサン・ホークは、味がある年の取り方をしたんだなあ。格好悪く、でもちゃんとどこか格好いい。捨て犬みたいな、みじめだけど放っておけない魅力があって、横顔もどきっとするくらいに似ていて。(似てるといえば、マイルズもディジー・ガレスピーもすごく似ていて、わーと感心しつつ、ちょっと笑った。だってマイルズのそっくりさんてどうしたって)

 

最近のイーサン・ホークは、自分とかプライドとかは二の次で、役者という仕事に本当にがっぷり四つ組んでいるという感じがする。どの作品を見ても好ましい。その中でも今作はピカイチで魅力的だった。

 

ロバート・バドローという若いカナダ人の監督にとって、これまでで一番のビッグバジェットの作品だったと思うけれど、すごくセンスが良くこなれていて、隙がなかった。いやあスタイリッシュだったなあ。

 

グザヴィエ・ドランもジャン=マルク・ヴァレもカナダ人。最近カナダ人監督の映画をよくいいと思うんだな。へー。

 

しばらく前は、ロドリゴ=ガルシアや、アレハンドロ・ゴンザレス・イリャニトゥとかメキシコ人だったなあ。何かあるのかなあ。

 

映画のことを考え出すとますます眠りが遠のくので、これくらいにしておこうっと。

ばらばらだけど仲良しな日

参ったなあ、眠れない。

 

今日はいつも通り、昼まで原稿書きをして、午後は縫い物(長いこと抱えていた宿題をやっとこ済ませられて、せいせいした)。

 

早朝、ゆうたは部活へ行ってしまい、昼前に帰って来てざるそばを食べ、午後は同じ部活の友だち「まきお」と遊ぶ。ゆうたは最近まきおとばっかり遊んでいる。

 

おっちんはゆっくり朝ご飯を食べ、クーラーの効いた部屋でのんびりしてから11時からの「 メアリと魔女の花」を見に、ひとりで映画館へ。2日前に予約して、ベストの席を取ってある。

感激して上機嫌で帰って来て、私の仕事部屋に入って来て「ねえ、あらすじ言っていい!?」と訊くから、「だめー」と言う。1から10まで長いんだこれが。

 

だんなさんは朝はサーフィン、午後はサーフィンのワックスとウェットスーツシャンプーを買いにモールへ。

 

みんな見事にばらばらで、好きなことを好きなようにやっている一日だった。

 

それで夕方にはなんとかまとまって、みんなで辻堂の老舗とんかつ屋「大関」でとんかつを美味しくいただく。

一日ばらばらだったけど、ご飯の時は盛り上がってみんなでわいわいと話す。帰り道もみな上機嫌だった。

 

休みの日だからって、無理にまとまって一緒に何かをやらなくってもいい。みんなそれぞれやりたいことあるのだから、人に迷惑をかけない範囲で好きなようにやればいいんだ。

人生フルーツ

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「メッセージ」と迷った末、だんなさんにくっついてこの映画を見に。ドキュメンタリーで有名な東海テレビの制作で、愛知県に住む老夫婦の話。91分の地味な作品にも関わらず、周囲がざわざわしてる、これは見とかないとかも、とだんなさん。

私もろくに知らなかったけど、なんとなく興味を引かれて。

 

まあーあっぱれなおふたりだった。

「人は生きてきたように死ぬ」のだという言葉を、おふたりに捧げたい。

今流行りの(って書く自分に悪意を感じるなあ)「ていねいな暮らし」みたいな、しゃらくさいことではなくって、実に無理がなく、夫婦がそれぞれ自立して好きなようにやっている、でも誰よりも気が合うから何でも自然に協力しあってやっている。

 

 

何か、色々しなきゃ人生じゃないなんていうイデオロギーがあるかと思うのだけど、本来は「暮らす」だけで十分なんだな、と思わされる。

暮らすことが退屈を知らないクリエイティブかつ自由なものであり、結構な重労働でもあり、おままごとでもあるという、大事なんだけど気楽に構えている感覚が何ともいいなあと思った。

 

英子さんの煮たブルーベリージャムをのせたヨーグルトをゆっくりと口に運び、味わってちょっと「ニコッ」とする修一さんの顔が今も心に残る。色々あろうがなかろうが、もう本当に今この美味しいジャムがうれしいなあ、それだけで十分だなあという満たされた顔。

 

老夫婦の起伏のない生活を、螺旋に構成することでしみじみとした深みを感じさせる演出の妙、ほとんど説明のない、言い訳めいたところのひとつもない作りも非常に好感が持てた。

 

ただ、始まりと終わりが少々芝居がかっており、無理に「映画」にしなくってもいいのにさあ、と思う感じはあった。ラスト、英子さんのきれいなお顔、日常を淡々と紡ぐ様子をじいっとただ見せて終わったほうが、どれほど沁み入ったろう。

同時に、ナレーションがわざわざ樹木希林でないといけないわけだと納得。箇所はすごく少ないけど、樹木さんだからこそ成立するナレーションだった。

 

それにしても、いつものように庭の草むしりをして、ひと仕事した後のいつものお昼寝をして、もうそのまま起きて来なかった。という修一さんの見事な最後。おだやかで可愛らしい寝顔のような死に顔。偉大な達成だと感じ入った。

 

帰宅後、にわかに庭仕事に精を出した私に、だんなさん苦笑。