続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

あなたはいつ

あまりの暑さにカラスも寝床から動けないんですねー、とお隣さんと言い合う朝。

カラスに燃えるごみが荒らされることがないのは良かったものの、リビングクーラーなし生活はもう限界に近いっす・・・。工事の26日が待たれる。

 

今日は日中は仕事、夕方からオケ当番。今月も毎週通ってるわ〜。粛々とがんばるです。

 

しかし、ニュースを見るだにムカムカするのが健康に悪いなあ!暑さと相まってもうー。カジノ法案も、定数増法案も、つくづくめちゃくちゃな決め方だなあ。小学校のホームルームでも、これよりは秩序があるだろうというめちゃくちゃぶり。

人数で押し切れる状況になれば、人間と言うのはここまであけっぴろげに遠慮なく好き放題やるようになるのだな。この短期間での腐敗はすさまじいものがある。

200人以上の人が災害で亡くなり、今も大変な状況に置かれている人がたくさんいるのに。

 

そして、しばらく前にニュースで読んで「まじか」と思っていたニュースを、7/17の国会で山本太郎議員が安倍総理に直接問いただしている国会動画を見て、二度びつくり。例によって、TVや新聞では完全に黙殺されているから、知る人ぞ知る事件のようだけど、これやはり結構なことだよなあと思う。

 

https://youtu.be/uzSbNrY4_W8?t=2m54s

 

自民党の幹事長だった頃、山口市長選挙でヤクザとつながりのある人物に対立候補の選挙妨害を事務所が依頼、自民党候補が当選するも、報酬や見返りの約束を安倍総理側が守らなかったために、妨害者は怒って安倍総理の自宅や事務所に火炎瓶を投げつけ放火するなどを複数回行ったという事件。

 

総理は、「相手は有罪判決が出ていて、終わったことで、自分は被害者だ」と言っているけれど、山本議員の言うとおり、

 

最高裁の判決文に、政治家が選挙妨害を依頼した事実、300万円の報酬を渡した事実もはっきり事実認定されている。ので、こういう行いをしたということ自体は明白になっている。

 

すごいなあ!絵に描いたような悪代官じゃないですか。残念すぎてもはや脱力してしまう。

 

 

1990年代に、コッポラが撮ったジョン・グリシャムの小説を映画化した「レインメーカー」という作品があった。とても面白い作品。

その中で、マット・デイモン演じる主人公の弁護士の青年が、高価なスーツを着て若者を見下して嘲笑している大企業のエリート顧問弁護士と対峙するシーンがある。

 

 何も世の中のことが分かってないねえ、これだから新人は。とばかりに、ひそひそ笑いをして、余裕を見せている弁護士たちを、マットはテーブル越しにじいっと目を見開いて見ている。そして、ぽつんと静かに言うのだ。

 

「あなたは、いつから堕落したのですか?」

 

その言葉にエリート弁護士のにやにや笑いは凍り付き、そして怒りを見せつつも逃げるように無言で席を立った。

 

 

彼にも訊きたい。あなたは、いつ堕落したのか。

 

 

誰もがおおむね数十年の、一度しかない人生を生きる。

失敗ばかりでなかなかスマートにはやれないけれど、そこそこお天道さんに顔向けできるような人生でありたいものだ、と、強烈な反面教師的人々を見ながら静かに思う。

 

 

だいじょぶか

今日はまだましだけど、毎日暑くてつらい。

昨日は観念してリビングのエアコンを新調してきた。我が家は1Fが吹き抜けワンフロアだから、おっきいエアコンが必要で、いやー手痛い出費だったです。そして工事は1週間後。遠いわ〜

 

相変わらず世の中の人手不足は加速しているみたいだ。

昨日も1件断るも、諦めないという新たなパターン!やりとりが続くのがめんどくさい。たくもー。

しかし日本だいじょぶかー。知らんけど。

 

人生折り返し地点を過ぎているから、割に合わない仕事、意義を感じられない仕事は、これからもじゃんじゃん断って行こうと思う。そうするとあんまり何も残らないという話だが、とほほ。

 

しばらく前に、触ってふと気付いたのだが、耳の下にしこりがある。

基本気にならないんだけど、夕方とか腫れたような感覚があったり、喉が熱かったりする。ネットで調べたら、あんまり良くないことが書いてあって、どきどきしつつも、日々に紛れて放置していた。けど、断続的に気になってしまうので、今日えいやっと病院に行って来ようと思う。滅多に行かないお医者さん。

 

いつか必ず全員死ぬということを、人は皆知って生きているのに、そのことを大事に生きるのは難しい。自分もしかり。こういうふわっと不安なことが起こると、そのことを思わされる。

 

吉本ばななの「キッチン」の中には、

「必ず死ぬということをいつも意識して生きていたい。でないと生きている気がしない」

というような言葉があったよなあ。

 

 

 

しんど

だはー、しんどかった。やっとこ書き上がった。半月後また同じやつが待っているのだけど・・・!

新しい媒体への執筆は、いつもとりわけ時間がかかる。力がないんだから、じっくり時間をかけてやるしかない。でもそれだけに、ほんのり達成感がある〜。

さ、とりあえず今日は店じまい。

 

昨夜は飲み会。飲み過ぎて、このところの自分の変さが変な形で出てしまったような気がする。何がどうということもなく、普通にわー、ばいばーい、と笑顔で別れたのだが、なんでだろう?そこはかとなく気分が沈む。このところの鬱っぽさのせいもあるのかな。

 

普通に楽しかったし、何が問題なわけでもないのだけど、ただひとつ、このところの自分の中のバランスの悪さだけは自覚しているのだ。自分で自分がどこか好きくないのだ。きっといろいろ楽しくないのはそれが原因だと思う。結構このモードは続くような気もする。どうしようもない。残念だ。

 

一見まったく普通、家族でさえ気付かぬ程普通なのだけど、心の中はずーっと車酔いみたいなありさまだ。

 

とにかく経験上、こういう時ほど無理に動かず、あんまり人とも会わずじっとしておくに限る。しばらくは貝にになり、静かに本を読み、主にルーティーンをこつこつ地道にやることにしよう。

 

 

 

毎日遅刻

夏の友だちとの旅行がキャンセルになった。宿の予約とか場所決めとか、炎天下でどこ行こうとかいろいろ億劫に思っていたのに、いざやめるとなると思いのほかがっくり。互いに家族を持つとはこういうことだ。私たちの世代は、自分以外の人のことを一所懸命考える、時間もお金も捧げる、そういう時期なのだ。

さっぱりとあきらめて、新たな計画を立てよう。

 

昨日は夕方、大雨警報が出て部活の子供たちが一斉下校。友だちの家でお茶していた私もこれから大雨?と慌てて帰宅するも、あっという間のスコールだった。

その後は、仕事しようにもなんだか興が乗らず、全然筆が進まず。ワインを飲み過ぎてごろごろしているうちに一日が終わったー。今日は書かねば!!

 

 

今朝は優太の病的なまでの遅刻癖についてだんなさんと話していた。寝るのが遅くて朝が起きれず遅くなるんだ、と本人は言っているが、今朝は昨夜やりきれなかった提出物を仕上げなきゃ!と5時半起きしていて、で、やっぱり朝練開始5分前に家を出る。学校まで10分弱)

さらに家を出て3分後「靴を間違えた」と言って帰って来て、靴を履き替えて行った。

 

毎日毎日、遅刻か、超ぎりぎりか、予定自体を忘れるかのどれかだ。叱っても無駄なんだろうね、とだんなさん。でも叱るっていうか、もう腹が立って立って、怒ってます〜!

勉強なぞできなくてもいいが、毎度遅刻の人、約束を守らない人にはなってほしくない。自分がそういう人とは付き合いたくないからだ。

 

周囲の人に聞いても、「どうしたもんかねえ」的反応。

昨日は思わず検索してしまった。

 

遅刻、と入力すると、「遅刻癖」「遅刻 言い訳」「遅刻 反省文」と予測が出てきて苦笑。

遅刻 なお と入力すると「遅刻 治らない」「遅刻 直らない」と出てきて、呪いか?と思うが、世の人々も悩んでいるのだなあとちょっと面白く思う。

 

で、「遅刻 治し方」でヒットした文章にいくつか目を通してみたら、遅刻とは、まあ想像してはいたけれど、想像以上に根本的な人間性に関わる問題なのである。

 

まずは、なぜ!なぜ!いつもちょっとずつ遅刻をするのか!?

その原因を探り、それに応じた対策を、クールに、プラクティカルに実行するのだ。

 

 

はー、他に考えたいことは山ほどあるのにさ。これもまた子育て。

ちなみに、下の子おっちんは、5分前行動どころか、30分前行動の人。小学校の校門が開くのを毎朝外で待っているような人だ。

同じものを食べて同じように育てているのに、こんなに違う性質とはこれいかに。

研究結果、実験結果はまた後日。

「20センチュリーウーマン」

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2016年アメリカ/原題 20TH CENTURY WOMEN/マイク・ミルズ監督/119分

 

公開時に映画館で見たこの作品を再び。

昨夜は21時まで一人だったので、ワインとチーズとチップスを傍らにリラックスして見た。夕方の光が部屋に差し込んで、すごく映画にマッチした柔らかいムードの中。

内容をほとんど忘れてしまっていたのだけど、うわ、こんないい映画だったかな、と改めて驚く。

 

映画館の大画面で見た方がその映画の良さが味わえるっていうのも一つの偏見だな、と今回思う。

見る人の、見る時のコンディションが何より重要だ。

大体、トイレを我慢していたら、どんな名作だって頭に入らないもの。

でも同時に、いい映画は5分で眠気も疲れも吹き飛ぶんだけれど。 

この作品は、公開当時映画館で見た時よりなんだかずっと胸に沁みて、至福のひとときだった。

 

 

1979年のサンタバーバラが舞台。リラックスしたゆるいカリフォルニアの空気感が心地良い。どの場面もハッとするような色彩感覚と完成された構図を持っていて、絵画的に美しいんだけれど役者の上手さもあって白々しくない。

どこかまったりとした夢みたいなムードをたたえながら、ある時代を誇り高く生き抜いた一人の女性の生きざまが力強く、同時に哀愁をもって描かれている。

 

主人公ドロシアを見つめるまなざしが、お母さんへの思慕そのもの。けして完璧な、理想的な人物としてドロシアを描いているわけではない。悩んだり落ち込んだり自信を失ったりして右往左往している。強くて自分を曲げないんだけど、迷っている。

人生と身近な人々を愛し、何より我が子ジェイミーの幸せを思い、自分の足で立ち、自分の頭で考えて一所懸命生きている。

そう、書いてしまうと本当に陳腐なんだけど、自分のスタイルを貫いて、一所懸命生きている。

そんな母の偉大さと寛大な愛の問答無用のパワーにひれ伏すようにして編まれた、監督が天国のお母さんへ捧げたラブレターみたいな映画だった。

 

母親に対して息子ってこういうところ、きっと少なからずあるよなあ。無条件の思慕。

自分の息子においても、この不完全な母に対して、どんなポジティブ色眼鏡なのだ、と思うような肯定感で持って見てくれていること、全面的に彼の一部を預けてくれていることを感じることがある。そんな息子が愛おしくないわけがない。夫とも誰とも違う、特別な関係だ。その結びつきの感覚は、娘との間にはないものだ。

 

身体の一部みたいな感覚だったのが、理解不能な領域が増え、徐々に離れて行くさまのせつなさ、ジェネレーションギャップやうっとおしさもすごくありながら、まだまだくっついていたい、ままらなぬ気持ち。

母と子の愛と難しさを描いた作品はたくさんあるけれど、これほどの納得性をもって、母と息子の独特の結びつきの感覚をありありと感じさせた作品はなかったように思う。私個人のパーソナルな感覚もきっと大きいと思う。ドロシアという女性、個人的にとても共感できる。

 

同時に、女性の描き方が、男性監督とは思えないほどに女性の感覚とずれていないというか。男性のひとりよがりのファンタシーや幻想が全然なくてほんと好ましい。

監督自身が映画のジェイミー同様、父親不在の家庭で、パンクミュージックを聴きながら、賢く強い女たちに囲まれて育ったことがもちろん大きいのだろうと思う。

 

現代的な感覚の一方、ノスタルジーの感覚もこの作品を魅力あるものにしている。

1979年には、インターネットもエイズもまだなかった。

アメリカでは、1980年には大統領がレーガンに変わって、世の中がどんどん経済至上・権力主義の方向に傾いて行く。アップルコンピュータも生まれる。現代世界との大きなターニングポイントになった境目が、1979年。

 

何かをゆっくり味わうこと、人と共に過ごす時は十全にその人と関わること、退屈すること。あらゆるシンプルさ。

こうしたことを、私たちはたくさん失ってしまった。

世界の右傾化や度重なる内戦や、地球温暖化や遺伝子組み換え食物や富の独占と貧困、そしてインターネットなどによって。

誰もがいつも気が散っていて、相手の見えない承認欲求、批判に対する恐れを抱えていて、絶えず時間に追われている。

 

この作品の醸している楽観的でスローなムードは、今では遠く甘やかなノスタルジーだ。

 

 

ラスト近くでの、母と息子のやりとりが心に残る。

「ぼくを育てるのが面倒になって人に任せたんでしょう?」と責めるジェイミーに、「あなたには幸せになってほしいから、私だけでは足りないと思った。私のようにはなってほしくなかったからアビーとジェシーに頼った」というドロシア。

そうすると、息子はまっすぐ母を見て、こう言う。

「I thought we were fine though, just me and you.」

 

いずれ失われてしまうと分かっていても、これ以上ない愛の言葉、泣かせるなあ。

ドロシアは呆けたみたいに「あら、そう?」とやっと言い、息子は「そう」と言う。

 

 

空軍パイロットになりたかった母の思いを叶えるように、1999年に癌で亡くなったというナレーションと共に、セスナで大空を駆けるドロシアのとびきりの笑顔を最後に映画は終わって行く。母の人生をまるごと祝福するように。

 

この映画は、アビーやジェシーという、他の世代の20世紀の女たちもとても魅力的に描き出していたけれど、長くなりすぎるー。

とりあえず今はドロシアの人生を思い、かみしめていたい。

 

 

復活

さて、今日はコラムを1本、今日は仕上がらないだろうけれど。

余った時間でオケの役員仕事、14時からヨガ。

だんなさんを名古屋に送り出したら、今日はしばしひとりだ、わーい。

このところ、座ってPCに向かう時間が長くなりすぎているので、体をもっと動かさなくちゃ。

 

昨日は庭の掃除をやって、すごく気持ちがさっぱりした。蚊にぼこぼこ刺されてしまったけれど。

 

毎年、地域の花火大会の日にだんなさんの知人友人をまとめて人寄せすることをやっていた。昼間から庭でBBQして飲んで喋って、日が暮れたら海へ行って花火を見て。戻ってから深夜までまた飲み続けることもある。

 

東日本大震災があった年、とてもそんな気になれないよね、と取りやめた。その後、馴染みのコアメンバーが移住したり、友だちに生まれた下の子が障害のある子で一家はケアで大変になったり、カップルが別れてしまったりしていろいろ疎遠に。

そして、我が家の正面の空き地に建売り住宅がみっしりと建って、要塞みたいに家を取り囲まれてしまったこともあって、すっかり人寄せする気を失ってしまっていた。

気がつけば7年。

 

移住していた人が引揚げて東京に戻ってきたり、障害の子は手術で随分良くなる見通しがついたり、新たに招待したい人がいたりして、「久々に今年はやりたいねー」と春から言っていただんなさん。億劫もあるが、気負わず久々のおもてなしをしよう。

 

こういうことは、細ーく長ーくやることに、何よりの値打ちがあるのだ。日頃のご恩返しの良い機会。

 

 

「パーティーで女の子に話しかけるには」

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2017年アメリカ・イギリス合作/原題 How to Talk to Girls at Parties/ジョン・キャメロン・ミッチェル監督/103分

 

 

ジョン・キャメロン・ミッチェルの代表作「ヘドウィグ・アンド・ザ・アングリー・インチ」は、私のオールタイムベストに入る大切な映画のひとつで、彼の「ショートバス」も大好き。

 

ジョン・キャメロン・ミッチェルという人の嘘のなさと何にもおもねない才能を無条件に信頼している。

なかでも、彼の作品における一番の美点は、まっすぐで何の留保もない愛情深さだと思う。泥まみれでやけくそで、でも生きてることは素晴らしいんだ、誰がどう言おうと。そう賛美するような彼の溢れんばかりの愛の表現にはいつも圧倒されてしまう。

 

この作品は、ニール・ゲイマンが2006年に発表したSF短編小説をジョン独自の感性でもって映画化したもので、相当に風変わりな作品になっている。

シュールすぎて途中で投げ出したくなる人も少なからずいるのではないかと思われる。

好き嫌いは大きく分かれ、それでいいんだ、というタイプの作品。

 

私としては、予備知識もなく見始めた前半は話について行けず結構つらかった!

が、独自のユーモアの感覚や、ある種チャチな宇宙人の描写(ウディ・アレンの「スリーパー」のような)はやはりツボで、くすくす笑ってしまうのに、同時にしっかりグロくて残酷な得体のしれなさも結構怖い。こういう演出なのにチープにならないのは、やっぱり監督のセンスがいいからなんだろう。

 

この作品は、ジャンル分けするのが実に難しい作品。

すごくピュアな恋愛映画であり、SFホラーであり、ブラックコメディであり、70年代パンクを扱った音楽映画であり、青春ドラマでもある。

一律に取り扱うことのできない混沌とした映画が、ジョン・キャメロン・ミッチェルらしいし、あえて意識的にそうなってるんだろうなと思う。

平易さや売れやすさにすり寄らない、商業主義的でないのもいい。

 

何より、私たちは簡単に仕分けできないものをそのままに受け入れることに対する耐性が必要なのだ、もっともっと。

 

ヒロインのエル・ファニングは、これまで天性の女優、幼さや存在そのものが魅力という立ち位置ありきなところはあったと思う。すごく自然にスクリーンの中で呼吸している、物語に溶け込んでいるのは彼女の大きな魅力。

だけど、この作品ではすごく巧みさを感じさせた。恵まれた環境にまかせて今があるのではなくって、システマチックな努力も重ねているのだと思う。何より、これまで組んできた一流の監督やスタッフたちの存在が、彼女にとっての学校だったにちがいないのだから。前向きな熱意と好奇心。

3才から役者なのだから、20才にしてもう相当なキャリアを詰んだベテラン俳優なのだなと実感した。

 

この作品を大きく貫くテーマは「パンク」でも、音楽ファンでもない自分には、パンクって分かるようで分からない存在。

 

作中では、「パンクしようぜ」「それってパンクだね」という具合に、それが音楽の特定の一ジャンルということではない、むしろある種の行動様式や哲学というか、生きざまとして表現されている。

さらにイギリスにおける70年代パンクシーンのムードも知らないままに見るのは、結構な無理解なんだろうなあと思いながら見ていた。

 

それでも、炸裂する情熱からひりひりとパンクのスピリットは伝わった。

パンクは、現代の息苦しく不安な世の中に対する風穴みたいな存在。

パンクとは、全ての偽善や権力やことなかれ主義に対する挑戦で、自分を萎縮させるものを疑い、リスクを取って自分をさらけだすことで解放すること。

そんなパンクの精神を今こそ映画にしたいと思った作り手の気持ちにはごく普通に共感する。世の中の逆を行ってこそ芸術だからだ。

 

作中のパンクミュージックの演奏も魅力的で、ニコール・キッドマンの怪演には最後までびっくり、でも吹っ切れていて格好良かったな。

ほんと、こんな自主映画みたいな題材とノリの作品を、ちゃんとスタイリッシュに見せる力量なー。ほぼ「引くことなく」見れたというのがまずすごいなと思った。

 

隅々までへんちくりんな物語なんだけれど、観賞後いつもの後味はちゃんとあって、だからジョン・キャメロン・ミッチェルはやっぱりえらい。

そこに愛はあるか?あーるんです(川平慈英風)。

 

誰をも差別せず祝福するような寛容と愛の優しさがじんじんと胸に沁みる。