続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「女王陛下のお気に入り」

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2018年アイルランド・イギリス・アメリカ合作/原題:The Favourite/ヨルゴス・ランティモス監督/120分/日本公開2019年2月15日〜

 

これは、権力の物語である。

そして、人間を観察するのが醍醐味の映画。

分かりやすいカタルシスなんてない。そんなもの、はなから与える気なぞない。

げんなりもするし、すっきり割り切れるものなどないが、ああ、これが人間だという、ずっしりとした手応えが残っている。

 

人物造形について。

登場人物全員が喰えない人物だ。皆腹に一物を抱えている。

権力の周りで醜い思惑がうごめき、それぞれが必死になりふり構わずサバイブしようとしている。その怖さと滑稽さ。

 

3人の主役、アビゲイルエマ・ストーン)も底意地悪くて良かったが、私は特にアン女王とレディ・サラに心惹かれた。

 

それは、こんなにも嫌らしい面があって、共感もできないし、呆れるような思いで見るところもたくさんある、そんなクセのある人物だのに、物語が進む中で彼らに不思議と愛らしさや悲しみを感じたからだった。

終始だらしなさや汚なさや醜さと共に描かれているのに、威厳や温かみも強く感じさせる。同時に人物をつかんだという手応えは最後までもらえない。

そんな複雑かつ愛着を感じる魅力的なキャラクターだった。

 

それは、ヨルゴス・ランティモスによる人物造形が、ただ微に入り細に入りよく観察しているということにとどまらず、どうしてその人がその人たりえたのかを相当根本的なところでつかんだ上で描いているからだろうと思う。

そして、一見ヒューマニズムの人にはとても思えない、皮肉で嫌らしく人間を見ているようで、実は人間に対する愛情深さが奥底にあるからなんだと思う。

愛情というか、甘い馴れ合いや上辺の気持ち良さは拒否するけれど、誰もに等しく人間の尊厳を感じる感性。

 

作風や構造のせいか、ラース・フォン・トリアーが想起されるのだけど、ヨルゴス・ランティモスのまなざしはトリアーのように冷酷ではなく、独特の可笑しみがある。

しかし、トリアーと同様、どちらかのサイド(つまり善の側)に依って、簡単に安心させたり高みの見物はさせない、見る者を甘やかす気はない。

歪みを伴う広角レンズを多用した撮影は、見る者を盗撮者のような気分にさせるし、簡単に感情移入させるような安易な人物がそもそもひとりも登場しない。

 

 

権力について。

3人の女たちは、それぞれの欲望を持つ。それぞれに思惑は醜く、後ろ暗く、エゴに満ち、加害性を伴ったものである。

しかし同時に、各々が被害者である。苦しみを乗り越え必死にサバイブしようとすることの帰結としての彼女らの存在がある。

彼女らなりに切実で、やむにやまれずそうなっているという説得性がある。

 

権力というのは、誰かに踏みつけられることなく、他人から尊重され、自分の思い通りにできるということだから、権力を手にすれば欲望を達成できるのだと人々は考える。

とりわけ差別や不幸や無理解といった、自分にはどうすることもできない理不尽を多く味わってきた人においては、権力を手にする事はすべてを解決してくれることに思える。

 

しかし、権力を実際に持った時に、人は満たされるのだろうか?

それぞれのトラウマや悲しみや不安や恐怖が、人を権力に駆り立てる。

しかし権力を手にしたことで、トラウマや悲しみや不安や恐怖からその人は解放されるのだろうか?

 

この権力の物語は、権力とは何か、権力は何を与えてくれ、何はけして手に入れられないのかということを三人三様のかたちで突きつけてくる。

笑うに笑えない、非常に皮肉なかたちで。

 

 

 

いつの世も人々は血まなこになって権力を目指してきたのだろうし、今の世の中においてもまるきりそうである。

富と権力って不思議である。

そんなに大変な思いをして手に入れて、それでやりたかったことって、これ?この程度のことなの?

そう問いたくなるような人のなんと多いことか。

 

アビゲイルの下衆さと必死さが、今の日本の権力者たちの姿と重なる。

「何のためにそうするべきなのか」ということが完全に見失われていて、ただ勝つために、自分が蹴落とされないために相手を蹴落とすこと自体が目的化していて、そのためにはどんな恥ずかしい下衆なことでも省みずやるのだし、誰が死んでも、何が損なわれてもそんなことはみんな「仕方ない」のだ。

競走馬みたいな視野狭窄のなか、自分の醜さにも気がつかないほど必死で。

 

それで一体何を手にしたのか、それがあなたの本当に欲しかったものなのか、訊いてみたい。

 

 

権力が、その人なりの誇りや幸福よりも優先された時に、人生はあまりに虚しく滑稽なものになる。

この映画が端的に伝えていること。

「ブランク13」

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2017年/齋藤工監督/70分

 

この作品の題材と、言いたいことには共感する。

自分が誰かのお葬式に行った時に、自分なりにこういう人なんだろうな、と思い込んでいたものが、他の知らない誰かとの知らない関係性を見せられて心が揺らいだ感覚を思い出す。

 

経済とか社会のことが、その人をありのままに見る目を曇らせてしまう。

人は誰しも他人にははかり知れない、深くて多様なものを抱えているのだなあ。

それらは何てことない、ささやかなことなのかもしれないけれど、でもそのささやかなことが結局人生の値打ちに一番近いところに寄り添うことになるんだ。社会的なことや、公のことや、大きなことや、分かりやすいことではなくて。

そういう部分に思いを馳せることは、全ての人間に対する救いであり、優しさにつながっている。

 

なのだけど、映像が提示するイメージが貧困で寄り添えないぃーーー。

あまりに分かりやすい、ステレオタイプな表現で。

絵に描いたような借金取りの取り立て、雀荘で遊ぶ父。

絵に描いたような父子のキャッチボール。

絵に描いたような苦労を背負う薄幸そうな母親。

絵に描いたような苦学生の子どもたち。

最後、ハイライトの箱が映って、ハナレグミの「家族の風景」のカバーが流れ出した時は、苦笑してしまった。

とても好きな曲だし、カバーしていた笹川美和の声も素晴らしかったのに。

 

撮影も音楽も役者もいい。だから良くも悪くも見られてしまう。

でも演出が陳腐だと、ただの思わせぶりの格好つけになっちゃう。

ムードと役者に頼りすぎだなあと感じてしまった。

 

そんな中でも、出番は多くないにも関わらず、松岡茉優のたたずまいは説得力があって惹き付けられた。

高橋一生も、神野三鈴も上手だったけれど、だからこそもやもやが倍増してしまった。

各々のキャラクターがただただアンニュイな行動にとどまっているので、「で、それで?」となってしまうからだ。

 

やりすぎ感はあれど、お葬式で皆がひとりひとり故人との思い出を話すシーンは嫌いじゃなかった。笑かそうとしていたのだと思うし。

でも、隣りの葬式の泣きおばさんは要らない、あんな当てつけみたいなの。観客を低く見積もっているみたいで、不快な気持ちになった。

 

そもそも、父ちゃんが死ぬまでの絵に描いたような回想の下り、多分全部要らない。

「どんなに大変で、苦労したか」を、母子を見せる中で仄めかすだけでいい。

その方が、ずっと想像の余地があって良かったと思う。

 

冒頭の「火葬とは・・・・」みたいな下り、横文字のタイトル、テンションを感じるサスペンスっぽいレスリー・キーによるキービジュアル。

いずれもきざで思わせぶりだが、作品イメージとずれていて違和感。

 

西川美和監督で見たかった。辛口すまぬです。

「ピリオド 羽ばたく女性たち」

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2018年インド作品/原題:Period.End of sentence/ライカ・ゼタブチ監督/25分/Netflix公開

 

(このところ、Netflix作品の紹介が増えているので、タグを作りました。

膨大に作品があり、さらにすごいスピードでコンテンツが増えて行くNetflixなので、視聴の際の参考になれば。)

 

こちらも今年のアカデミー(短編ドキュメンタリー部門)にノミネートされている作品とのこと。

しばらく前に「パッドマン 5億人の女性を救った男」というインド映画が公開されて見逃したけれど好評だったよう。生理がタブー視されているインドで、妻を思う気持ちから、生理用品の普及に尽力した男性の物語。

 

この作品は「パッドマン」と同じテーマでよりフェミニズム的視点でもって作られた作品である。25分という短尺。

 

作品の成立背景も監督のことも全く知らないのだけど、まともな構成もなく、だからクオリティーのことを言ってもはじまらないというか、これまで秘められて来た大事な知るべきことが語られているということが値打ち。

 

ドキュメンタリーの仕事について、改めて気付かされた点。

それは、ある枠組みの中にあっては当然のように思われている普通なことが、その枠組みの外に映像としてありのままに提示された時に、信じられない非常識にひっくり返る。

そのダイナミズムがドキュメンタリーの持つ大きな力なのだということ。

 

それはつまり、この作品においてはこういうことだ。

 

若い男性のグループに「月経って知ってますか?」とディレクターが尋ねる。すると

「知ってるよ。女性がかかる病気の一種だろ」ふんふん、と隣りの友人たちもうなずいている。

 

若い女性も「生理」という言葉を発する事が、どーーーうしても恥ずかしすぎてできない。

 

彼らが普通であればあるほど、「げ!これおかしすぎるでしょう!」と誰もがぎょっとする。

こんなにも当たり前の、それこそ「生理現象」が、信じがたいくらいに強くタブー視されていて、女性が生きる上で妨げになっていることを深く実感する。

 

社会派のドキュメンタリーにおいては、色々な良いメッセージを伝える、という使命もまああって良いのだけれど、えてして僭越にもなりがちで、作り手のエゴには細心の注意が必要となる。

 

いろんな「げ!」を白日の下に晒し、それを驚きをもって認識する、その先は観客に委ねるというくらいのスタンスで、十分役目を果たすのではなかろうか。

「未来のミライ」

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2018年/細田守監督/98分

 

夕飯後、まったりしながら家族で見る。優太はおっちんと違って音楽ばっかり、普段映画を全然見ないので、マニアックだったりシリアスな映画は無理。

 

細田監督作品は、「おおかみこども」と「サマーウォーズ」がお気に入り。ジブリとはまた違う、リアルなディテールの表現が持ち味と思う。

 

これがアカデミーにノミネート?細田監督にしては拍子抜けするほどあっさりした作品だったけど、随所の「既視感」はすごく、皆で顔を見合わせては何度も苦笑した。

 

まずもって家族構成も一緒。素直だけど、「自分だけを見て!」なおぼこい兄、しっかり者でクールな妹、真顔で夫にシビアな一言を吐き「無理なものは無理」と開き直る仕事妻、そんな妻の顔色をうかがいつつ、かいがいしく家事をする文化系自由業の夫、っていうキャラ設定なー。

たわいもない会話も、既視感。今の親世代の精神の成熟度が良くも悪くもよく出ている。

 

そしてくうちゃんちにある家具だの椅子だのなんだのが、複数アイテムかぶっている。

ベビービョルンのバウンサー、ストッケのトリップトラップIKEAのおもちゃ整理棚、などなど。ああ、昔あったねえ、とわいわい言い合う。

物語の舞台も(多分)横浜で、湘南らへんも出てくるから、地理的にも馴染み深い。

 

一家で爆笑だったのが、近未来の磯子駅

最新型の電車車両なのに、見渡す限りペンペン草しか生えていないような、のどかな無人駅なのだ。

逆に東京駅は65番線ホームとかまである。

 

 

この作品は、いわばアニメーション版「ファミリーヒストリー」。

今一緒にいる家族の小さい頃、まだ生まれてない頃、逆に大きくなった頃。

似ているところも全然似ていないところも。

覚えている事もすっかり忘れている事も。

偶然の重なりで命や絆がつながって、次の命を生み出して行く。

 

それって愛おしいね、というお話。

なんだっていいのだ

良いお天気!一週間がまた始まった。

今日はこれから美容院に行ってさっぱりしてくる。

そんでもって、先週のインタビューの原稿を起こし、頼まれ仕事のデザインの入稿用原稿も納めて、文章をふたつ書くのが今週のミッション。その後はいよいよ観念して苦手な確定申告に手をつけようと思っている。

 

このところ、何気なく発した言葉に、だんなさんが「まった」をかけてくる。

その時はむっとするのだけど、後で考えてみるとそうかもなあとしょんぼりした気持ちで反省をする。

例えば、私が好きでいいなと思っている作家や人がいたとして、

「こういうところが好き、彼はこうだから良いんだよね」というようなことを私が言うと、

 

「なんだっていいんだと思うんだよね、なんだって。【こうだから良い】っていうのは、【こうじゃないのはだめ】ってことと同じことだから。」とか言う。

 

好きなものや素敵なものの、どこにそんなに心動かされるのかを考えているのが好きな「褒め専」気質なので、ついついそういう感じになってしまうところがあるんだけど、確かにそうでない人をけなしていることと同義なんだな。

 

自分の尊敬するばあちゃんは、そういえばあんまり野放図に人を褒めたりしなかった。あんまり何でも言葉に出さず、態度と行動で考えを表現していたと思う。

 

何につけ、「それが何であるのか」をできるだけぴったりした言葉で言い表したいという強い欲求は、自分がもうそういう人間なんだからしょうがないと思って受け入れていくしかないけれど、言葉は軽薄なんだってことを心の片隅に留めておきたい。

 

そして、ただ「これとっても好き」と言うのと、「この人はこうだから良い」と言うのは違う。

そういう言い方をする時は、「それに比べてこいつはな〜」って思う誰かを口には出さねど脳裏で比較しながら言っている感覚があったりする。

そういう意地の悪いニュアンスが出ちゃっているのだ、たぶん。

 

何かをいいとか悪いとかいうのは、上から目線でジャッジすることで、はずかしいことだ。

 

くせみたいなものだからなかなか矯正するのは難しそうだけど、日々の心構えから見直して行きたい。

 

 

 

 

「クインシーのすべて」

ぽかんとした日曜日になると思っていて、やいやい言われるだろうから、どこかおでかけすることになるかな、やれやれ、皆が楽しめるところはどこかな、と起き抜けから考えていたんだけれど、

ふたを開ければ、各々好きなように食べたいものを食べ、子どもたちは友だちと遊びに、だんなさんは海へ、で、ぽかんとしてるのはわたしひとり。

 

もうどんどんこういう風になっていくのだろうな。そして、数年後は老夫婦だけになる。

この後私は読書タイムにしようっと。

 

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2018年アメリカ作品/原題:Quincy/アラン・ヒックス、ラシダ・ジョーンズ監督/124分/Netflixオリジナル

 

ミュージシャン関連の映像、次々見ている。

 

クインシー・ジョーンズマイケル・ジャクソンのプロデューサー、「We are the world」で指揮してた人。大御所を絵に描いたような、アメリカ音楽界の大物というイメージ。

 

でも、クインシーの何がそんなにすごいのか、実はろくすっぽ知らないままでいた。見て良かった。

もうほんとに腑に落ちたし、人間世界のセオリーが詰まっているドラマだし、彼は愛すべき人だし、素晴らしい音楽と共に描かれるクインシーのかくもスケールの大きい景気の良い人生に、気分があがった。

 

2900曲の録音。300枚のアルバム録音。51作品の映画音楽。1000曲以上のオリジナル曲。グラミー賞ノミネート79回。受賞27回、エミー賞アカデミー賞トニー賞も受賞。

クインシー・ジョーンズは、間違いなく世界で最も成功したミュージシャンのひとりだろう。

 

 

冒頭から驚かされる。いつも鷹揚で品の良い微笑みを浮かべているクインシーの生家は非常に劣悪なシカゴのスラム。

祖母は元奴隷。母は双極性障害で7才のクインシーの目の前でベッドに叩き付けられ拘束されて精神病院に入れられた。

母が駆け寄ると恐ろしくて叫び声をあげながら7ブロックも走って必死に逃げた。

 

手の甲の傷はワイヤーのフェンス、こめかみの傷はアイスピックで刺されたもの。どちらも年端もいかない頃のこと。11才まで白人を見たことすらなかった。

 

そんな地獄みたいな状況で、古びた軍の施設で偶然出会ったピアノを初めて奏でた時に「自分は一生これでいく」と少年は心に決める。

失うものが何もない人間が、自分の好きなものを抱きしめて突き進んで行く人生の強さを思う。

 

1940年代以降の、アメリカのジャズミュージシャンたちが織りなした伝説の数々の話は、いつ見聞きしても本当に面白いものだ。

キラ星のような偉大なミュージシャンたちが、ごろごろその辺に転がっていて、すごい人もしょうもない人も一緒くたで、ごった煮極まりなくって。なんて自由でエキサイティングなんだろうと思う。

だから、昔のジャズメンの武勇伝が、映画でも本でも大好きなんだけれど、クインシーの話もしかり。というか、彼はジャスの歴史そのものみたいな人だった。

 

名も無い、何の後ろ盾もないスラム街の小学生男子が、いきなりカウント・ベイシークラーク・テリーの楽屋に押し掛けて「楽器の弾き方を教えて」と言うのだ。くー、痛快すぎる。

めんどくさがりながらも、みんな親切に「こうやるんだぜ」とか言って教えてくれたのだそうだ。

 

そして14才にはもう「俺はトランペット奏者で、作曲もできる」とハッタリをかましてビッグバンドのメンバーに入り込んでクラブで演奏活動を始める。夜通しビバップ三昧、音楽漬けの暮らしが始まる。

 

そして16才になったばかりのレイ・チャールズと出会い、親友になるのだ。

盲目で優れた知性の持ち主だったレイは、どんなことにも答えを持っていた。この16才の類い稀なる天才が、14才のクインシーに「どんな音楽にも心がある。そのスタイルに忠実であれ」と教える。16才ですよ!

 

この映画、もう、そんなひれ伏したくなるようなエピソードがてんこ盛りなのである。難しいこと抜きにして、そのゴージャスな道のりを見ているだけでわくわくする。

 

 

クインシーは、音楽を通じて様々な素晴らしい絆を得ていく。

また、クインシー・ジョーンズという人は生涯を通して、才能の枯渇という事態にほぼ陥ったことがないように見える。

常に確信を持っていて、威圧的でなく、求められる以上のことをにこやかに返し、どこまでも際限なくスケールを大きくしていく。

年を重ねて来た人がごく普通に抱くであろう、新しいものや異質なものを怖がったり忌避するというところが、クインシーにはほとんど見受けられない。

 

 自分が先達から受けて来た恩に感謝して、生涯人との関係性を大事にしていく一方、数えきれないくらいの若者を見出し、誉めて育てている。

つぶしたり萎縮させたりすることなく、良いと思った才能はどんどん心から誉めて、助言を与える。その最たるひとりが、マイケル・ジャクソンだった。

 

ケンドリック・ラマーとの会話しかり、あらゆる若者との関わりにおいて、愛情深く惜しみないこと、けなすのではなく誉めることが貫かれていることが本当に立派。

だってクインシー・ジョーンズに真剣に誉められた、その事がどれほどその人を勇気づけ、発奮させるか計り知れない。音楽家にとっては一生その人を支える言葉になると思う。

 

働き過ぎで2回死にかけ、何度も美しい妻をめとるも、どの結婚も破綻している。とはいえ、クレイジーアメリカのショービジネスの常に中心にいながら、誰より活躍し、文字通り生き抜いてきたのは、彼が「与える人」だったからだということは、間違いない。 

ギャングスタ・ラップ抗争を話し合う場で、涙ながらに「長く生きてほしいんだ」と訴えるクインシーの姿に若者たちが食い入るように見入っていた。

 

そして、「おかしな方向に行く」ってこともないのだ、この人は。

ドラッグにも酒にも溺れない。お金や贅沢にも狂わない。ハンサムで才能豊かだから当然モテるし本人も女の人大好きなんだけど、暴力的でも高圧的でもなく紳士だから本当には憎まれないし、家族や身近な周囲の人たちと長期的で良好な関係を築いている。

 

クインシーは常に「みんなのもの」でありすぎて、仕事に夢中すぎて、だから妻たちは夫を独占できない苦しみに耐えられず離れて行った。クインシーの生き方は「男女の愛」という形式にフィットするのは多分無理と思う。

10人以上いる子どもたち、孫たちにはとても愛されている。

 

 

映画で一番泣かされたのは、ケネディセンターの華々しい舞台で、晩年のレイ・チャールズの弾き語り。

スポットライトに照らし出されてたった1人、舞台からしゃがれ声で「おーい、クインシー。おれだよ。聴いてるかい」と呼びかけて、レイが静かに歌いだす。

友よ、会いたいよ、と。

 

隣りには大統領夫妻がいるというのに、もう他には何にも見えていないみたいな顔をして、鼻を赤くして、クインシーは礼服の袖口でごしごしと目をこするのだ。小さな男の子みたいに。

こんなことがあったら、生きてて良かったと思うしかないだろう。

初めて会った時から50年の歳月が流れ、今もこんな絆があるって奇跡のようだ。

この3年後にレイ・チャールズはこの世を去っている。

 

 

最後、スミソニアン博物館のこけら落としのイベントのプロデュースを見事成功させ、全てが終わった静かな自宅で「この世代の責任を果たした」という言葉が印象的だ。

 

スラム街に生まれた、みなしごみたいなかつての貧しい少年は、ポップ・ミュージックを通じてアメリカの父になった。

つくづく奇跡みたいな人だ。

すいかとりだつ

https://twitter.com/zhtsss/status/1095952841481478145?s=20

朝から坂口恭平ファミリーのこの歌を聴いて、なんとも素敵な気持ち。

一度聴いたら最後、一日中ぐるぐる脳裏を回り続ける系の歌ですが、

とっても優しい気持ちにさせてくれる、元気をもらえる歌なので、(そして何気にメロディもギターもじわじわと良い)シェアしますね。

 

ス・イ・カ ス・イ・カ ス・イ・カ ス・イ・カ

だいすきなー たねがいっぱい おいしいあかし(おいしいあかし)

いつでも たべれるんだ だいすきすいか(だいすきすいか)

ス・イ・カ ス・イ・カ ス・イ・カ ス・イ・カ

 

 

今日も一日、ご機嫌で。

 

 

優太は受験その2。もう今頃は終わってる頃と思う。今日でようやっとおしまい。

明日は早速横浜に読響のコンサートに行くらしい。彼にとっては何よりのごほうびだ。

 

おっちんは学校。授業参観&懇談会、来なくてもいいよとお許しいただいた。

このところ、がんばって親行事に参加していたので、今日はお言葉に甘えてパスさせていただく。

この後、卒業前のクラス行事と卒業式が控えていることだし。

 

だんなさんは耳鳴り治療に耳鼻科へ。

 

私はこれからいろいろ家の中を整え、掃除して、メールの返信をして、友だちと会う日程の調整をして、美容院の予約して、明日の取材の準備をして、午後は図書館に寄ってからジムへ行く。うしっ。

 

昨日、家で仕事をしていたら、自治会の方が訪ねて来られた。

お金関係の記録一切のデータが入っているUSBのコピーを持っていたので、それを引き取りに来たのだ。

笑顔で残念ですーと言い合うも、そういう対応だけはめっちゃ早いな!と感心した。

 

そして、私が辞めると言ってから変わったいろいろについて話してくれた。

会計の仕事量があまりに多いので複数人で分担し、会議を開催する回数も半分になることが決まったそう。

 

辞めますメールを書いた際に、何十項目もある仕事を全部箇条書きにし、なあなあで手伝いを強制されている行事関連の仕事も全部箇条書きにして、一覧にして、それを一斉メールで共有したのがきっと良かったんだと思う。

 

きっとびっくりした人もいたんだと思う。

少なくとも、私は出来上がった一覧を見て、どん引きしたもの。

 

年間で作成、運営管理するエクセル文書の書式がなんと90ファイルほどある上、遠方まで足を運んで集金に回ったり、お祝い金の戸別訪問配布や金融機関への出入金などなど、絶え間ない作業が年間通じててんこ盛りであった。当然全て無償労働

 

これまで担って来た人が、みんな「1年の辛抱だから」って黙ってやってきたから、他の人々はうすうす「なんか大変そう」と思いながらも、他人事だったのだ。

そういうもんなんだと思う。こういうのは、誰かが口に出すしかないことなのだ。

 

「だからね、決断早すぎるよー。辞めないで良かったのにー」

いやいや、辞めたからこそ変わったのでしょう、と静かに思いつつ、無言の笑顔を返す。

そして、良かったなちょっとでも良く変わって。と思った。

 

 

経済学者アルバート・オットー・ハーシュマンは、組織が失敗から回復する手立てを「Voice(発言)」と「Exit(離脱)」であると述べている。

 

なるほど。その通りになったわ。