続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「セックス・アンド・マネー」

今朝はキッチンに人が入り乱れて混雑して、作業が滞ってしまいお弁当がはじめて間に合わなかった。さっき学校へ届けに行って来た。

面倒だけれど、いつも午前中は家にこもっている暮らしなので、朝の外の空気を吸って自転車を漕ぐの、気持ちよかった。

 

セロトニンを出すためにも、夏場は15分、冬場は30分程度太陽に当たりましょう。

それだけで随分鬱っぽい気分が解消されてしまうそう。

人間て複雑なようで、すごく単純でもあるんだなあ。

 

昨日、だんなさんが仙台から帰って来た。予想外の出来事があって滞在が1日長引いたので、3日ぶりに会った。

夕飯後、ワインをちびちびやりながらだんなさんが取材をした人の話を聞かせてもらうのがいつもの楽しみだ。

 

昨夜は、とても奇妙な夫婦の話を聞いた。

一体真実がどこにあるのか分からない話で、夫婦それぞれの言っていることや印象が全く異なる。

「わたし、だんなに殺されかけたことが3度あるんですよ・・・」

話をこんなおばあさんの独白から始めるものだから、怖がりの私は

「ぎゃー!ちょっと待って、語り部が過ぎるよ!」

と思わず中断して息を整えつつ興味津々話を聞いた(笑)。

リアル火曜サスペンス的な世界が繰り広げられるのであった。

たはー、夫婦っちゅーのは闇が深いのう〜。

 

当然、そんな話は「使えない」ので、だんなさんひとりの胸に留めておく必要がある訳だから、だんなさんも話してすっきりしたいのだ。こんなダークな話じゃなくても、裏話的なことを聞くのはしょっちゅう。

フィクションを書く才能がないので、何にも生かされないまま幾つもの人間のドラマは忘却の彼方へ消えて行くのみだ。

 

 

 

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「セックスアンドマネー」(2006年/アメリカ作品)Netflixにて鑑賞。

このところ、まめにレビューを書いているなあ。

 

日本では劇場公開されずビデオスルーだった作品。タイトルが「セックス・アンド・ザ・シティ」の二番煎じみたいだなーと思ったけれど、4人の女優が皆好きな人たちかつ90分ほどの短い作品だったので軽い気持ちで見た。

ちょっと座って何か見よう、と思った時に、ほんとーーうにテレビ番組に見たいものがひとつもないので、Netflixに流れていることだなあ。

途中で用事が入り2日に分けて見る。

 

40代のアメリカ女性の等身大を描いた作品。

監督のニコール・ホロフセナも同年代の女性で、脚本もいかにも周囲の女友だちを題材に書いたのだろうなあというかんじ。友だちを失ってはいまいか?と若干心配になるようなリアルさだ。

 

環境や仕事は違えど、既視感はある。共感もある。思い当たるふしもある(泣)。これは、今だから唸りつつ見るのだろうなあ。

もっと若ければ、何と煮え切らないとか、もっと誇り高くとか、またやり直せばいいとか思ってぷんすかしているであろう。

逆にもっと年を取っていれば、すごくもがいているように映ると思う。わりにどうでもいいって思うところが増えていそうだ。

 

そう考えると、現在進行形的に下り坂まっしぐらの40代って、頑張って来た蓄積でそれなりの自信やお金や自由も得ているのだけど、いろいろときびちい年頃だよなあとしみじみ思う。

 

 

3人は結婚していて、1人はシングルの女性という、長い付き合いの女友達4人の群像劇であるこの作品。3つの夫婦も、ジェニファー・アニストン演じる独身女性も、「ああ、いるなあこういう人々」と思う苦い真実味があって、とほほと思いながら見ているかんじ。

 

こうして群像劇でいろいろなタイプの夫婦を引いた目で見て思うに、夫婦ってやはり相互補完的な、「われなべとじぶた」な組み合わせに自然となっているものだ。

能力や容姿や人間性の優劣みたいなものは、傍から見て一見釣り合っていないように見えても、長く続いている夫婦は、本人たちの内面において絶妙にバランスが取れていたりするものなんだろうな。

 

陰と陽。凹と凸。善と悪。開と閉。明と暗。男と女。

 

「困難な結婚」で内田先生が、結婚というのは上手く回っている時、意気揚々の状態でいる時をデフォルトとしてはいけない。「悪いとき・病んでいるとき」こそをデフォルトに考えるもの。それはセーフティーネットなのだから、と言っていたけれど、40代になると本当にその通りだなあと思う。

何と言うか、「お互いに高め合う関係」みたいのは、この下り坂の年代を乗り越えて行くのが相当に難しいものだよなあと感じる。「支え合う」要素がどこかにあればきっと何とかいくんだけれど。

 

現実は、おとぎ話のようには行かない。

心がけの良い人が幸運を掴むとも限らないし、口が悪く感謝の足りないような人が優しい人に愛されていたりもする。

神様はあくまで不公平だとも思うけれど、人の関係を相互補完的なものと見た時に、わりと腑に落ちるところはあるなーという人間理解の作品である。

 

残念なのは、ラストシーンの困惑。

人間の幸福とお金の有無の関係を描いている作品だけれど、最後にオリビア(ジェニファー)が出合ったニートの彼(太っていてお世辞にも格好良くないが優しそう)が、「実は自分は親の遺産を継いだ大金持ちなんだ」と彼女に打ち明ける。

「・・へーそうなの。良かったじゃない!」と平静を装いつつ、微妙にテンションの上がるオリビア

ラストシーンは彼の部屋のベッドで朝、

「あのカーテンはもっと良いのに取り替えましょう!あ、あの家具ももっとこうした方がいいわね」

とオリビアがうきうきと言っているシーン。

で、唐突に終わる。

 

リビアはもうどん底でやけっぱちみたいな状況だったし、相当誰でもまあいいやと受け入れるような状態で、だからもちろんお金目当てではない。

けれども、実はお金があるっていう(確証はない。彼の言葉だけ)ことになったら、関係性が変わるってことを見せたいってこと、だったのかなあ。

その後味、マストかなあ。

おいてけぼりみたいな終わり方で、なんだか訳が分からなかった。

 

 

 

 

「否定と肯定」

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否定と肯定」鑑賞。上映劇場が神奈川県でたったの2館しかないので、上映初週の昨日はそこそこ混み合っていた。しかし2館。

 

なるほど、監督の意図と作品の意義は大変分かりやすく、このようなシリアスなテーマを扱う作品なのに、良い意味であまりヘビーでなくすっきりと整理して作られている。分かりやすく面白く作ることで広く届いてほしいという思いを感じるが、けして単純化してはいない。

 

作品の8割は法廷周辺の出来事であり、判決してすぐ物語が終わることからも、あくまで法廷におけるテクニカルなことが中心となっている。

個人的には「アーヴィングのような人物が生まれ、今の世の中で増殖している背景とは何だろう?彼らの思いや、その憎悪をこれ以上加速させないためにはどうすればいいんだろう?」ということに興味があったのだけど、この作品では人間について掘り下げるような描き方はほぼ一切なかった。それはそれで良しと思う。

 

実際あった話を基に作られたこの作品。舞台は今から約20年前、あるアメリカ人大学教授に対して、ホロコースト否定論者のイギリス人男性が名誉毀損の訴えを起こす。

監督の狙いは明らかで、この事件を巡るやりとりを描くことを通じて、現代における「ある種の人々」に対してどう考え、どう立ち向かえばいいのか、という作法と、その対立の構図を明示することである。

 

この作品のヒーローは、威勢良く闘いを受けて立ったリップシュタット教授(レイチェル・ワイズ)ではなく、賢明で心あるイギリス人弁護士チーム、とりわけ法廷で弁論を担当するリチャード弁護士と、チームの若きリーダーであるアンソニー弁護士だ。

 

歴史的に明らかな事実である「ホロコーストは確かにあった」ということを証明せねばならないという、ある意味馬鹿げた、しかし大きな社会的責任を伴った仕事を請け負うことになった被告側。

 

弁護士チームは、基本弁護士らしく、真正面から正々堂々と闘ったわけだけれど、「相手の作ったゲームに参加しないこと」や「求める結果が何であるかを冷静に見据えること」の大切さを改めて感じた。

けれどなにより学ぶべきは、リチャードやアンソニーの人間観であり、客観性だったと思う。

 

というのは、威勢の良いリップシュタットのありようとの対比が興味深かったから。

ユダヤホロコースト研究者のユダヤ人で女性のリップシュタットには、「すごく高くて正しい所から、悪を裁く」という固定化された姿勢がある。そこには堂々たる被害者(というのもおかしか書き方なのだけど)の視点しかない。

 

なんだか最近同じ事を繰り返し書いているような気がしているのだけど、

彼女が被害者であることは明らかで、彼女側が正しいことも明らかなのだけど、そこに思考停止してしまってはいけない。

なぜなら、その正しさを振りかざしているうちに、本来の目的に微妙なズレが生じてくるからだ。

間違った歴史観を固着させてはいけない、という本来の闘う目的と、「自分の正しさを声高に証明し、恨みをはらし、被害者を辱めぶちのめしたい」という欲求が、リップシュタットのなかで次第にごっちゃになってくる。その無意識に彼女自身が気付く事ができない。

 

それをアンソニーや老練な弁護士リチャードは冷静に見つめている。けして本来の目的から外れず、そうした煽りには乗らない。

おそらく、そうした正義の正当化の拡大の構造に、彼らは慣れずにはいられない仕事なのだろう。

 

アウシュビッツに現場検証に行った帰り、リップシュタットとリチャードが夕食をとりながら話すシーンは印象的だ。

リップシュタットは怒りと恐怖を訴え、そして死者にもっと敬意を払うべきだと言う。リチャードは「悲しみと同時に恥を感じた。自分がもしあの時代あそこにいて、上官から殺せと命じられたら、怖くて従っていたと思う・・・」と言う。

そのリチャードの忸怩たる告白を聞いて、リップシュタットは少しぎくりとするのだけど、(そうした内省を)ご立派な意見だと一蹴する。ここに2人のスタンスの違いが分かりやすくあらわれている。

 

その後、ホロコーストのサバイバーを出廷させるか否かでのぶつかり合い、法廷でのリチャードの緻密で誠実な弁論などを通じて、リップシュタットは自らを反省して彼らに任せようと腹をくくる。

 

基本となるのは、

・自らを高みにおかず、加害者性を感じていること

・しかし常に揺るがぬ良心と信念に基づいて判断をすること

だと映画は伝えている。

 

今のあらゆるヘイト的なものや、理解しがたい大きく異なる意見に対しての、それは基本の作法なのだろう。

 

 

言うは易しで、実に難しいことだと思う。けれど、社会的に「偉い」立場にある人よりは、自分のような市井の人間のほうが、まだ難しくない。

私なんて、仕事で「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言いたいような人たちから仕事を請け負ってやってるわけで、自分が自分を一所懸命誉めてあげないと!という状況なわけで(苦笑)。

でも、度を過ぎた劣等感はカードがくるりと反転するように逆に嵩じるので、とても危険。

バランスを取るのが何より肝心、むずかしい。

 

 

そしてもうひとつ何より大事なことは、「あることはある、ないことはない」という事実認識がまず前提とされていなければならないということ。

 

近年よく「両論併記」せよ、というような言い方がされるが、それはディベート的なテクニックであり、悪質なトリックだ。

ホロコーストが「あった」と「なかった」は、両論ではない

 

あらゆるシーンで、真実と虚偽を同じ土俵にのせようというレトリックが横行している。

そのゲームにはけして参加してはいけない。それが耳ざわりの良いものであれ、苦痛なものであれ、「あったものはあったのだ」という客観的な事実からは動いてはいけない。

 

その意味で、日本の配給会社のこの映画に対するプレゼンテーションは未熟だと言わざるを得ない。

原題は「Denial」(拒否・否定)なのに、邦題は「否定と肯定」。

本国でのコピーは「ホロコーストがあったという当然の真実を、法廷でいかに証明するのか」なのに対し、

日本のリーフレットのコピーは「ナチスによる大量虐殺は、真実か、虚構か」。

全然映画の意図を酌んでいない、ミスリーディングなコピーでひどい。まずそういう事じゃないよねと突っ込んでおく。

 

しかし、日本における歴史的事実に対する責任感というのは今その程度の認識なんだという、全体としての未熟さをよく見せているとも言える。

だからこそ、こういう映画が今値打ちがあるのだと思う。

人に会うこと

良いお天気!

昨日は夜更かしして、今朝は早起きがきつかったー。

なんとかお弁当作って(頭が回らない時の定番、肉を炒めて焼き肉のたれをかけるのみ・・・)洗い物していたらだんなさん起き出し、しゃべっていたらもう10時。

 

大慌てで仕事のメールを2通出したら、さてもう出かける準備だ。

これから久々の友だちとご飯。

これから年末だからちょくちょく人に会う機会が増えるかな。

 

先週会った友だちは、だんなさんは成功した社長さんでこないだ芸能人みたいなすんばらしい豪邸に引っ越したばかり。

娘ちゃんも裕福な子弟ばかりのエリート学校に通って、どう?相変わらずよ、そうかー順風満帆で良かったね、という話をきっとするんだろうなと思っていたのに。

 

本当に、外側のスペックだけで人を判断することなんかできない。

人生にはいろいろなことがあるし、誰しも必ずその人なりの苦労を抱えている。

親しい間柄ではないから、一番大変な時を過ぎてからこうしてシェアしてもらって、間抜けに驚き、自分なりの言葉をかけるばかりだけれど、

なんというか、こう、一度底をついた人の強さ、良い意味での開き直りがあって、はっとするような美しさだった。

 

おろおろ苦労するなかで、世の中の同調圧力とか、見栄とか、損得といったことがみな吹っ飛ぶくらいのゾーンへ行って、「そんなことどうでもいい」とお腹の底から思えたんだろうな、という力強さがあった。

以前の彼女のたたずまいにあった、「事をなるべく荒立てたくないし、恥ずかしい思いもしたくない」という、自分をじっと隠しているかんじがぱーんと外れていた。

 

そして、会話の中で、明らかに他者の痛みを感じる感度が上がっているのを感じ、以前よりも彼女を近くに感じた。

 

みんな人知れずいじらしいくらいにがんばってる。

会って話をした時は静かに聞いていたのに、帰ってからそんなことをいろいろ思い返してちょっと涙が出た。

 

人と人との付き合いは、実際の生々しさをお互いにほぼ何も知らないまま、ひととき笑い合うような付き合いがほとんどなんだろう。誰かに対して「だいたいこんなもんだろう」という憶測は、いつだって大概大外れなんだ。

だからこそ、優しさと敬意を忘れず、あんまり気を遣いすぎることなく、子どもみたいに正直に人と接したい。

 

「トースト 幸せになるためのレシピ」

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「トースト 幸せになるためのレシピ」(2010年、イギリス作品)、Netflixにて鑑賞。

お茶を飲み、洗濯物をたたみながら子どもたちと。

 

イギリスの人気料理家、ナイジェル・スレイターの自伝を基に作られた作品。

1960年代のイギリスが舞台で、当時の生活スタイルや食習慣がよく描かれているのが面白い。

 

やっぱり子どもと見る映画は、子どもの目から世界が描かれている物語だとまずのめり込んで見る。途中、感情移入して悔し泣きするおっちん(笑)。

 

さらっと1時間半。あることはある、ないことはないというあっさり感が良し。無理になんでもかんでもすっきりとさせることはない。これは、原作者の意向というのもきっとあると思う。

 

ヘレナ・ボナム=カーターの演じる継母。下層階級の家政婦出身でどうしても下克上したかったので、色仕掛けでまんまと主人公ナイジェルの父ちゃん(金持ち)を陥落したというガッツのある女性。完璧に家事をこなし、料理はプロはだしで、スペック的には逆にものすごいのだけれど、下品で歯に衣着せぬ女性。

ナイジェルは、彼女がどーうしても好きになれなくって終始ぶつかっている。

 

映画は昔の価値観丸出しでポッター夫人を蔑んで当然な空気感で描かれるのだけど、今の時代の感覚で見ると「いやーがんばってるよね、まめまめしくよく働くし、少年に対しては雑だけど、表裏のない人で根っからの悪人ではないよね」という複雑な感情がわき起こってくる。

ヘレナ・ボナム=カーターはまた生々しく上手いから。そしてこの作品が女性監督ということも、まなざしに影響を与えているなと感じる。

 

けれども、子どもに何が幸いするかは分からない。

優しいけれど、生野菜もろくに食べた事がなかったくらい、缶詰すらまともに温められなかった激しく料理下手の母が病で亡くなり、後がまのポッター夫人の素晴らしい料理に何はともあれ栄養満点で育てられた少年。

さらに元々の料理好きに加え、彼女への敵愾心から料理の腕をぐんぐんとあげ、結果的に少年は有名料理人になった。

 

それが良いとか悪いとかを映画はことさら言いたいわけではなくって、ただ「子ども時代は、自分の生き方を選べない」ということが、子どもの目を通じてよく描かれている。

 

少年は17才で子どもであることをやめる。父が急死したことを機に、全てを置いて、かばんひとつでロンドンへ向かう。

問題は継母との関係性ではなかった。愛情はあるけれども少年を自分に属しているものとして振り回し、ありのままの少年が気に入らず「もっとこうあってほしい」を押し付けつづけた父親との関係こそが、少年が自分らしく生きる上での障壁だった。

映画では少年が同性愛であることも仄めかしている。当時は厳格な父親とはとても相容れない価値観だったことだろう。

 

ひとりにしないでとすがる継母の願いはきっぱりと断る。もう、誰も自分の生き方を強制することはできないという強い決意。ちっとも好きではなかった、でも本当の敵は彼女ではなかった。

 

自分が熱意を注ぐ対象がはっきりとあって、あとは健康と若さがあれば何も怖いものはないという清々しいラスト。

17才のナイジェル少年を雇うロンドンの有名レストラン「SAVOY」のオーナーシェフ役としてナイジェル・スレイター自身が最後にちょこっとカメオ出演しているのが憎いです。

ジブリ美術館へ

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昨日はおっちん念願のジブリ美術館へ。

 

井の頭公園の中にあるベトナム・タイレストラン「ペパカフェ・フォレスト」(味は普通だが、活気があって出てくるのが早い。何よりロケーション最高)でランチを食べてから、紅葉の公園をてくてく美術館へ向かう道のり、1キロはゆうにあるのだけれど、あんまりきれいで清々しくって少しも苦にならない。

 

美術館は、ディズニーランドのような感じもちょっとありつつ、こんだけの規模であっても「らしさ」を失わない、中心を外さない感じに好感。

おっちんはすごく喜んでいたし、大人にも見応え十分で、とても楽しめた。

 

働くスタッフの方々も、みなさん穏やかで感じが良かった。

ところで、ジブリ美術館に限らず、今の東京及び地方都市のおしゃれスポットやレストラン、大きな企業も含めてそうだけれど、「こぎれいでソツのない見た目で、静かに口角を上げて微笑む感じ、あくまで物腰柔らかく、声が小さい」というある種の定型的な若い人々がもうほんとに多いなと思う。これが今のソフィスティケイトのかたちなのです、というような。

趣味も良く感じも良い人々に別に何の異議もないのだけど、どうしてこうもトーンが似通っているのじゃろう、と不思議な思いにとらわれる。

 

しかし、この建物の王さまである宮崎駿という人は、そのようなソフィスティケイトなんて全く我関せずな、頑固で自由な感じだっていうのが、まあ皮肉というか、面白いというか。

 

美術館限定で見られる、宮崎さんと久石さんの黄金タッグで作られた10分程度の短編は、「はーつかれたやっと座れるどっこいしょ」という気分で見始めたのに、30秒でばっと目が覚めた。

想像力がばたばたと飛翔していて、暴れ回っている感じ。細部まで曖昧なところがなく、ねじくれるようなエネルギーがぎゅうーっと詰まっていて、真剣にめっちゃふざけていて、やっぱりすばらしい。

しんとした小さな劇場で私がひとり声を出して笑うので、おっちんに「シーッ!」と怒られてしまったけれど。

 

見終わっての感想は「もう、存分に長編作らせてあげてほしい」。だって、これだけのパッションが出口を求めてとぐろを巻いているようなものを見せられたら。いろいろ周辺の事情はあれど、宮崎さんの生きる道と、彼が唯一無二の才能の持ち主であることは明らかだ。76才にしてこの感じ。ホドロフスキーみたい、気味が悪いほどエネルギッシュな老人だ。

 

素晴らしい若いアニメクリエイターはもちろんたくさんいるけれど、彼に真っ向張り合うだけの巨大な才能となると、今のところやはりなくって、それは残念なことなのだろうけど、

それだけ宮崎さんがいろいろな掛け合わせでもって生まれた奇跡みたいな人なのだろう。死んだらそれまで、もうどうしようもないっていうところはある。一ファンとしては、同時代に生きられたことを感謝するのみ。

 

企画展、常設展含め、小さい施設ながらいろいろ見どころはあって、子ども向けよりは大人向けで、クリエイターや創作志向の人なら一日中いられるような場所だった。

 アニメーションというのは、分かっちゃいるけど途方もない作業の集積でできているものだと改めて感じた時間。

 

私のお気に入りは、たくさんのラフスケッチが画鋲でびっしりと壁中に張り巡らされた創作ルームのスペースで、ため息の出るようなスケッチの数々はもちろん、宮崎さんがアニメの職場についての私見を書いているのや、コンテはもちろん、プロットの前段階のなぐり書きメモなどを見るのも、脳みそをのぞき見ているようでとても興味深かった。

 

その中で、印象に残った小さなメモ書きがあった。

「アニメーターは日がな机にかじりついてずっと絵を描き続けて、よくやっていられるなと思われるのですが、みなわりと平気でやっているのにはわけがあります。

(この時点で大いに異を唱える若手がいるであろうことは想像にかたくありませんが、それはともあれ)

アニメーターは仕事で絵を描いている間じゅう、物語の世界にどっぷりとはまりこんでいるのです。誰の指図も受けず、なんの気遣いもなく物語の世界に旅しているので、精神的にはストレスがないんです」

言葉は正確ではないけれど、このような内容だった。

 

もちろん、これはあくまで創作者である宮崎さんの感じ方であって、「宮崎さんの物語」を具現化するために仕事しているその他大勢のスタッフが同じであるということはないとは思うけれど、私はこれを読んでいろんな意味でなるほどなー!と腑に落ちるものがありました。

同じ時間働くのでも、肉体労働や工場労働といった、自分の感覚と常に向き合いながらじりじりと時間が過ぎるのを感じつつ行う仕事とは根本的に異なるんだということがようく分かった。

 

 

夕方震えながら行列して、魔女の宅急便のチョコケーキ、ポニョの「あらしの夜のハムラーメン」、畑のポタージュ(なんの映画の食べ物だろう?)などを食べ、帰途に。久々の家族のおでかけ終了〜。電車が空いていて助かった。

 

 

「ジム&アンディ」

おっちんは小学校の文化祭。だんなさんは横浜。ゆうたは中間テスト二日目、終わってそのまま部活。ゆうたのやつ、昨日全然できなかったと言って帰って来たのに、今朝はまた「テスト楽しみー」と言っていた。どういう精神構造をしてるのか。

私はこれから久々に合う友だち2人とフレンチを食べに。

寒いけどえいやっと準備して、図書館にも寄りたいな。

 

 

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「ジム&アンディ」Netflix制作。

とても奇妙で濃ゆい作品。役にのめりこみ、理解しようとする中で、コントロール不能なまでにカウフマンとトニーを憑依させていくジム・キャリー。徐々に現実との折り合いがつかなくなるくらいの憑依ぶりが、撮影当時どんなことを巻き起こしていたのか。「とても珍妙なこと」がありのままに映し出されている。

おおむねあまり歓迎すべきではないさまざまな困ったことや、幾つかの希有で美しい奇跡。

 

良くも悪くもこんなことができてしまうのは、ジム・キャリーという人が素晴らしい才能と、人々の期待に応えねばならないというピュアで不器用な善意ゆえ。ジム・キャリーは愛すべき過剰な人であり、不器用な人。

 

みんな彼が大好きで、「さあ、何をやって私を楽しませてくれるの?」というきらきらした無言の要請を持って彼に対峙する。彼がちょっとサービスすれば、ひっくり返って大喜びする。

彼の一挙手一投足を常に皆が期待に満ちて見守っている毎日の中、コメディのトップスターとして、映画の現場で正気を保って、人としてのバランスを取って生きていくことはどれだけ難しいことだろうと想像するだにため息が出る。

 

しかし、20年お蔵入りになっていたこの映像が世に出ることになり、当時を振り返る現在のジム・キャリーの語りを見ると深い感慨に打たれる。

 

年月の凄み。なんという顔になったんだろう。

どれだけのことをくぐり抜けてきたんだろうと思うような、深い目をしている。どっしりと落ち着き、自分を客観視した知的で滑らかな語りに引き込まれ、見飽きる事がないくらいだ。

 

あの頃の、無敵みたいな底抜けの明るい輝きは失われているのだけど、引き換えに何かを得た賢者のようなたたずまいをしている。ひとつの達成のようなその顔を見るためだけでも、見るに値する作品だと思う。

15周年

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昨日は結婚記念日でもあったんだった。

記念日とかだけ張り切るのが苦手だから、あんまり大事に思わず、毎年忘れてはだんなさんに言われて、しれっと覚えていた振りをする。

 

近所のカレー屋にチャリで乗りつけ、さくっと軽くランチ。

「早いねー」

「どうすか」

「子どもたちがいい子に育ってくれてるからまあいいと思っとります」

という乾いた会話をしつつ。

 

そういえば、私は右手だけで食べるの結構上手。

ペナン島ジョージタウンでは、ずっとインド人の宿に滞在していた。

その頃はアフロヘアーで眉間にビンドゥや鼻ピアス(挟むタイプ)も付け、近所のインド人街でチープなインドアクセサリーを買ってはじゃらじゃらと楽しく着飾っておったので、宿のインド人のおっちゃんたちには、「ミナー」と、その頃流行っていたインド映画のヒロインの名前で呼ばれ、随分と親切にしてもらった。

地元のおいしいカレー屋で一緒にごはんを食べるとき、けして左手を使ってはいけない!とまじで鍛えられた。すぐに慣れたが、最初の時は、気を張ってなんとか右手で全部食べ終えた後、お勘定の時に左手で店員さんにお金を渡してしまい、最後の最後でものすごい嫌な顔をされて、がっくしだったなあ。楽しい思い出。

 

 

その後、インドカレーでいっぱいになったお腹を抱え、ヨガへ行った。

インド音楽に包まれて、インド人気分でヨガをしていたが、「チャトランガ・ダンダーサナ、それに続くコブラ」のところでちょっとおえっとなってあわてる似非インド人であった。