続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

フィギュアスケート、ピラティススタンス

昨日と今日の羽生選手の演技を見たけれど、ここぞというところで必ずやらかす、何ともしまらない人生を送ってきた自分としては、

主役人生というか、こんなに鮮やかに自分に勝つことのできる人っていうのが本当にいるのだなあ!ということにほとほと感心した。

 

トップ選手たちのみんな、すごいとしか言いようがなく、金・銀メダルもみなで良かった良かった、やんややんやと言っているのだけど、内心ハビエル・フェルナンデス選手のことが気になってしまう。

 

昨日のショートが、往年のミュージカル俳優のように優雅でチャーミングで、もちろん厳しい勝負の世界なんだけれど、ただ勝つためじゃなくって、観る人に楽しんでもらいたいという気持ちが伝わって来たすばらしい演技だったので、今日の少し精彩を欠く内容が気の毒に思えた。

 

羽生選手に感動するのも、一番という結果よりも、自分を信じて自分自身に勝ち切ったことの精神の強さだよなあと思うし、どんなすごい選手でも、そうでもない選手でも、やはりやりきった、悔いなし!と自分で思えることが全てだろうと思う。

私はやっぱり、スポーツに限らずどんな分野であっても、華々しく勝った人よりも、いつだって負けた人とかしくじった人の方に気持ちが寄り添ってしまうみたい。辛気くさいが、性格だからしょうがない。

 

 

 

ところで、先週もいつものヨガがまた満員で受けられなくって、しょうがなくピラティスのクラスを受けたのだけど、その時先生が教えてくれた「ピラティス・スタンス」の立ち方で目からウロコ。

 

皿洗いの時、いつもシンクにもたれるようにして腰をかばっていたのをやめて、試しに「かかとをつけ・つま先を開け・尾骨を肛門にひきよせるようにし・肛門を上に持ち上げるようにし・丹田に意識を持って腹筋を使って・重心を背骨にまっすぐに立ち・肩を下げて肩甲骨を後ろに引いて締めるようにして・頭を背骨の延長線上に載せる」ピラティス・スタンスで立って作業してみた時、あまりの楽さにびびった。

 

気分的にはちょうどバレリーナの立ち方に近いんじゃないかと思うんだけど、そうやってきりっとしているのは、だらんとしているのより当然疲れて大変なもんだと思いこんでいたけれど、しゃんとしている方が、実は楽だったなんて!がーん!

 

これまで、すぐに痛くなる腰や首をかばうつもりで、少しでも楽に、少しでも体力を温存してというつもりで自分のしてきただらけた姿勢が、完全に逆効果だったことを知る。

頭は、ボーリングのボールみたいに重たいものだから、前傾していると重たく支えるのがむしろ大変なんだという当然の事実に聞く耳を持って来なかったんだよなあ。

 

街を歩いていると、時々背筋がぴんと伸びた、身ぎれいで軽やかな白髪の女性を見かけることがある。

うわー素敵だなと思うと同時に、いつもしゃんとしてるのって大変そう。自分にはとても真似できないや、って投げやりに思っていたんだけど、

実はしゃんとしているほうが、体に無理なく、疲れにくく、ずっと元気でいられるのかも・・・って、あと20年早く気がつきたかったわ!

 

でも、「あ、わかった」って、ほんとめぐりあわせというか。ちょっとした言い方とかコツでふっと落ちて来るものである。姿勢のことは、ヨガでも何でも、いろんな先生がおんなじ大事な事を、これまでもきっと繰り返し繰り返し教えてくれていたんだろうけどここまで今ひとつ分かってないまま来ていたわけで。どこまでも飲み込みが悪くい自分にがっかりするが、だからこそ継続は力なりなんだなとも思う。

 

 

ナラティブ

昨日で中学の期末試験が終わって、今朝からもう朝練がスタートだというのに、寝坊する母と息子。

さっき例によって靴箱にお弁当を届けて来た。くせになってしまってはいかんと思いつつ。

 

いつも、朝子どもたちが学校に行った後は、夫婦でいろんな話をしながら小一時間くらいかけてゆっくり朝食をとるのだけど、今朝はどんどん面白い方向に話が転がって、わくわくが止まらず、食べ終わった後にだんなさんの隠し持っていた「まるごといちご」(まるごとバナナの姉妹品)を食べつつまだ話して、そろそろ解散するかとなったのがもう10時。うわー、全部押しちゃう。

 

それは、書いてしまうと漠然としているのだけど、こういう話。

人は固有のナラティブ(物語)をそれぞれに採用し、そのワールドのなかで生きている。

そのナラティブは、まず親や家族の提示するナラティブの影響が大きくあり、そこに人・本・映画などの出会いがどんどんと融合されていってその人だけのナラティブになって行く。

そのナラティブの中で起こることの確かさや因果応報さは、それぞれその人にとっての紛れもない真実で、揺るぎない実感に支えられている。

だから全てのナラティブは真実で、正しい。

けれど、別の人にとってはまったく当てはまらない。人はそれぞれのナラティブを生きていくのであり、そこには大きな不公平も、非道さも含まれる。

あらゆる人生訓や確かな教えが世の中には溢れているんだけれど、それぞれの考えを尊重すると同時に、それはあくまで「その人のナラティブ」なのであり、そのように自分も生きねばならないということは、まったく関係のないことなのだから、そんな必要は全然ない。

例えば「その人のように地に足ついてハードボイルドでない自分」を、浮わついていると感じて責める必要はない。

お金や男女に関することの不思議さなどは、自分の努力では何ともしえないところもある。

 

あまりに抽象的で、書いていてもどこかずれているというか、訳が分からないまとまりのないかんじだけれど、備忘録として書き留めておく。

このことについては、もっとぐっと考えを深めてみたい。とっても面白いことだから。

 

今の時点で思うのは、私のナラティブは、親をすっとばして、母方のばあちゃんじいちゃんのナラティブをかなり強固に採用しているということ。

両親の提示するナラティブは、私にとってほとんど共感も魅力も感じられなかったから、もがいてもがいて思春期は荒れたし、高校を卒業してすぐに家を飛び出しちゃったんだろう。

私のナラティブは、その後じいちゃんばあちゃんだけでなく、これまでの人生で出合ったいろいろな人やものや風景が粘土みたいにぺたぺたひっついていたり、今やだんなさんのナラティブはかなりの割合で内面化されていたりということがあるのだけど、最終的に私が心から憩えるのは、おおむね、じいちゃんばあちゃん的ナラティブなんだろうな、と思う。きっとなんだかんだで一生そうなんだろう。

それは、「自分がどう生きているのが幸せか」ということに、輪郭を与えてくれる考えだったので、とても面白くためになる考えだと思う。

 

そして、人に対峙する時に、ある特定の人に無性に好感を持ったり、とってもいい人と思っているのになぜか仲良くなれないといった感情は、その人が何を言ってるかとかでなく、その下の層に横たわっているその人のナラティブに呼応しているのだと思う。

そう考えると、謎は解けないまでも、腑に落ちることがいろいろとある。

 

若い人にインタビューしていて、すごく流暢に良いことを言っていたり、思想的には共感できる人であってもどこかつまらない、面白くないなと感じる時があって、それは、その人にはまだ固有のナラティブを作っているはじめの方の段階で、どこかからの借り物のナラティブを語っていたりするからなんだろう。

 

1億人いたら、1億種類のナラティブがある。それは、ひとつずつ全部違うオリジナルなものであり、ある種の似た傾向はあっても、完全に一致することはない。ひとりの人のなかには、相反する要素や、清らかな部分と邪悪な部分が普通に同居していたりして、グルーピングすることさえ不可能だ。

その、途方もない事実をそのまま受け取るしかない。

 

それがどうして人にとって難しく、時に耐え難いものなのか。

また、圧倒的に多様なものをそのまま受け取るには、それなりの訓練が必要だということも思う。

 

整理されてないままにつらつらと書いたけれど、ナラティブを通して世の中と人間を見ることは、まずもって面白いし、自分自身を少しは成熟させてくれる考え方のように思える。

 

 

 

どこまで言えば

朝から根を詰めて原稿を一本、無事仕上げる事ができたー。ふーほっとした。

毎回、書き出す前は不安。慣れない。果たして出来上がるんだろうか、収拾はつくのだろうかと。

でも、だんだんと書くうちに輪郭が生まれ、リズムが生まれていく。その過程が文章を書く醍醐味だと思う。

 

 

話変わって。

淀川さんは、4才からもうどんな映画でも家族と一緒に見ていたということだが、我が家もあんまり見る映像作品に関して制限は設けていないほう。

残虐なものとか、夢に出てきそうなホラーはあんまり見せたくないと思っている。

あとはエッチなものは自分が恥ずかしくなっちゃうから、何となーく遠ざけてはいるんだけど、エッチ絡みのシーンって、不可抗力みたいに気がつけばそんなシーンに、っていうことが多々あって、「ありゃー、もうしゃあないかー」とちょっとどぎまぎしつつ、そのまま見せてしまうことも。

 

もっともうちの子たちは1人で映画館へも勝手に行くし、親の留守中にNetflix見たりもするので、私の知らない所で知らないうちに色々見てるんだろうなとは思う。

 

で、「キャプテン・ファンタスティック」。作品の中の重要なモチーフのひとつに「大人はどこまで子どもに本当のことを話すか。どんな分野においてもありのままを説明するか」ということがあった。

 

で、15、6才のお姉ちゃんが読んだ本の考察を父と話しているシーンで、話の流れで「性交」という言葉が出てきて、ちっちゃい7、8才くらいの弟が「ねー、せーこーってなーにー」と父に訊く。

父は一瞬言いにくそうにするんだけれど、保健体育の授業みたいに、プラクティカルに冷静にその仕組みを説明する。

 

不意打ちで「おぅっ」と思って、思わず隣のおっちんの顔を見ると、

「あーあ、言っちゃうんだ。だめだよーちっちゃい子にそういうこと言っちゃ!」と言って、あーららー、みたいな顔をして肩をすくめている。

お、お前もちっちゃな子やないか・・・・!

それで、「おっちんは知ってたの?」と訊くと、

「んー知ってるよ」「いつから?」「小学校2、3年くらいかなあ、分かんない」「なんで」「なんかで見て?自然に」とのこと。

 

その後別の映画を見ていたときも、不意に男女がいいムードになり、男性がゆっくり女性のブラウスのボタンを一つずつはずしていくというセクシーなシーンで、気まずくなった私が、えいやっと一時停止ボタンを押して「さー、もう寝な寝な!はいはいー!」とおっちんを追い払おうとすると、

「んもう!マー(私のこと)だけずるいっ!」とごねて、見せろ見せろとぐいぐいと押してきた。

 

時折すぽんと抜け落ちている認識もあり、かと思えば、え、そんなこと知ってんの?ってこともあり、この人の頭の中は現状どうなっておるのだろう?といまいち把握しかねるのだけど、性のことに関して、基本はあっけらかんと自然なものとして捉えているようだから、まあ良かったよ、と思う。

 

ちなみに、キャプテン・ファンタスティックは、ほとんど全てどんなことも本当のことを言うという方針を貫いていた。

とりわけ、人の生死に関することを、オブラートに包むのは良くないと。

 

自分は、日頃子どもの質問に関して、言いにくいことだけではなく、説明するのが難しいことは面倒くさくてついだんなさんに振ってしまう時がよくある。面倒くさがらず質問には正面から答えるよう心がけないといけないな、と反省した。

 

子どもがしっかり自分の頭と心を使って考えた時の直感力や判断力は、基本的に大人よりも優れているように思う。だから、大人は小賢しく子どもをコントロールするべきではなく、そのままの事実を提示するぐらいの謙虚さの塩梅でちょうど良いんではないだろうか。

 

しかし、そんな私も今も答えの出ない質問がひとつあって。

ニュースで頻繁に聞こえてくるからか、兄妹揃って「ねーイアンフってなにー」「悪い悪いってテレビで言うけど、意味が分かんないから」と訊かれて、夫婦して答えに詰まった。

このことは、大人である自分自身がまずプラクティカルに向き合えないくらいにあまりに重く恐ろしいことであり、それを一体どう子どもに説明すればいいのか。途方に暮れる気持ち。

母親仲間に相談しても、みんな「うーーーん!」と悩んでしまって、なんらかの答えをくれたひとは今のところいない。

ずーっと考えてはいるのだけど。

 

「CAPTAIN FANTASTIC(はじまりへの旅)」

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DVDにて鑑賞。公開時、当然近隣では見られなかった訳だけれど、ほんとにもったいないことをした。すんばらしい映画だった。

去年見ていたら、2017年のベスト作品に入っていたなあ、これ。

どうして邦題が「はじまりへの旅」なんだろう。最後まで見ても分からず。

 

映画の最後、「CAPTAIN FANTASTIC」のロゴが画面いっぱいに出て、暗転してエンドロールに。そこでじーーんじーーんと胸がいっぱいになった。

これはやっぱり「キャプテン・ファンタスティック」でしか、ないよね。

 

監督はマット・ロス、俳優としての彼はうっすらとした印象しかないのだけど、長編2作目でこんな優しく美しく面白く、深みのある映画を撮った。自分が親としてどう子どもを育てて行けば良いのかと考えたことがこの作品の原点だと。やはりものごとは動機なんだと思う。

 

自分の子どもをどう育てればいいのか。親であれば誰もが思い悩むことだと思う。

特に今の時代は、テクノロジーやグローバリズムがすごい勢いで発達していて、5年前の常識が今も常識かだなんて誰も断じることなんてできない。あらゆるものごとがすごいスピードで移り変わって行く。前提すらどんどんと変わって行く。

そういう中で、大昔みたいに、じいちゃんばあちゃんや父ちゃん母ちゃんのようにやればいいんだ、という子育てが、全てではなくとも多くの部分で成り立たないという中で、誰もが多かれ少なかれ、迷い戸惑いながら子育てをしている。

 

私においても、自分だって相当未熟だってのに。そう思って、毎日とほほとなりながら、やぶれかぶれでなんとかやってきたこの15年だったと思う。

ベン(ヴィゴ・モーテンセン)みたいなワイルドさもサバイバル能力も知性も持ち合わせていないけれど、思想的には共感できるところが多く、「うちら、だいぶファンタスティック寄りだよね・・・」と言い合う夫婦。

 

かなり振り切れたその暮らしっぷり、冒険の数々と、社会とのぶつかり合いから生まれるコメディを面白く観つつ、何を大事に子どもを育てたらいいのか、何が自分と家族の人生にとって幸せなことなのかということをずっと考えている2時間だったと思う。

 

現代のありようを否定して自然に還れと言っているような、そんな単純なことではなくって、どちらの生き方もけして万能ではない。そして誰もが彼らなりに善くあろうと誠実に生きている。そういう優しいまなざしで全ての人を描いていることがとてもいいなと思った。

 

その上で、現代社会で幅を効かせている価値観やシステムに対して、全面的に参加する気持ちは自分の感覚としてはやはり持てないし、社会から受けている恩恵に感謝しながらも、それらに呑み込まれず真に受けず、一つひとつ小さなことを真剣に選んでいくしかないんだなと噛みしめるみたいに思った。

 

 

ヴィゴ演じるベンは、とても複雑で魅力的なキャラクターで、彼に対する自然な共感を抱けることが、この作品を納得性のあるものにしていると思う。

彼は信念のひとであり、相当すごいことをやってのけるんだけれど、同時にどうにもならない壁に打ちのめされるひとでもある。

 

理想の暮らしを実現したはずなのに、6人の子どもの母親である妻は、精神を病んで自殺する。義父をはじめとしたいわゆる「まっとうな」人々は、「お前のせいだ」と責める。

子どもたちは素晴らしく精神と肉体と知性を発達させるが、社会との関わりがほぼないために、周囲の人の話にほぼついていけない、天然ぶり。

 

ベンは、他の考えを持つ人々や、異なる価値観を持つ社会を憎悪している訳ではないのだけれど、彼の正しいと思うことと社会があまりにもかけ離れているので、折り合いをつけることはとても難しい。

また、違う価値観を持つ人は、彼らを放っておいてはくれない。

正義感・モラル・常識といったものを盾に、彼を何とか変えさせようとする。

 

子育てに限らず多くの場面で、マジョリティーは同じ考えでない人に敵意を抱きがちで、その敵意を敵意と認識せず、正当な思いやりだとさえ思ってしまいがちだ。誰にも、自分にもあるその感情の芽には、よくよく気をつけないといけないと思う。

 

物語はどこに辿り着くのか。ファンタスティック父子の、一本筋の通った、気合いの入った冒険は、エキセントリックでチャーミングで、胸がわくわくと躍る。

そして、その純粋さを見事貫いて、みんなで力を合わせて母親を、母親の望んだ通りの形で埋葬するこの映画のクライマックスと言えるシーンは、この上なく美しい。

 

「Sweer child O'mine」はこんなに美しい切ない曲だったんなだと目を開かされるような素晴らしいファンタスティック子どもたちによるカバー。涙が出た。

この先も何度も見返したいお気に入りの1本。

 


Captain Fantastic - Sweet Child O' mine Cover

 

めんどくさいラーメン屋

祝日だった昨日は、おっちんと2人、御茶ノ水へ。

 

ノンフィクション作家の森達也さんが子どもと対話する授業をするという企画。

もともとこのイベント、ゆうたが中学校の廊下の貼り紙で見つけて来て、行きたいというので兄妹で申し込んだのだけど、当のゆうたは期末テスト勉強が間に合わず、参加を断念。おっちんひとりはさすがに無理なので、私が送迎に付き添った。

 

せっかくの2人でのおでかけなのに、ランチで失敗してしまった。

ランチはラーメン好きのおっちんのために、御茶ノ水にあるラーメンの名店をネットで調べて張り切って訪れたのだけど、これがまあ、自信ゆえのこだわりのお店で。

 

早めの昼食でお腹が減ってないから、一杯をシェアしようかーと気楽に思っていたら、「(1人一杯頼まないと)だめです」とけんもほろろ。「そこにルールが全部書いてありますので」「券売機を塞がないように階段の壁沿いに一列で並んでください」「店内から呼ぶまで入らないで下さい」と、すごく色々言われてしょんぼりする。

 

お店によってルールがあるのは分かるし、何もごり押しする気はないけれど、初めてで当然分からないんだからさあ〜。

店員さん、ご本人はすごく笑顔できりっと采配している気持ちで多分いるんだけど、なんとも威丈高で、その笑顔がかえって怖い。

でも、もう食券も買ったし他を探す時間もないので、ちゃっと食べよう!と気を取り直すも、座った目線の場所に貼り紙がしてあって、

「着席後は携帯での通話はお控えください。食べながらスマホ画面を見ることもやめてください。また、大盛り無料ですが、大盛りを頼んだら必ず残さず食べて下さい」

といった注意書きがゴシック体の太文字でびっしり書かれていて、すごく憂鬱な気持ちになった。

 

そして、肝心のラーメンは、見た目おしゃれなんだけど、(ビストロラーメンを名乗るだけある。インスタ映えというやつだ)味はとても濃く、まずくはないが普通だった。

 

でも、私は「まあ自信あるんだよねえ、芸能人の写真もいっぱいだ。まあひとり1杯頼まないとお店も大変だよねえ」と気弱に納得して、食べ終わった後も「ごちそうさまー」と小声で感じよく言って店を出た。ものすごく元気な「ありがとうございましたー!」の声に見送られ、微妙〜な気持ちで。

 

おっちんは、食べてる最中からひとことも口を聞かず、食べ終わると「もう!行こ!時間もないから」と急かし、終始仏頂面。

店を出てすぐに深呼吸するみたいにして、「もう!二度と行かないあんな店!家でカップラーメン食べてるほうがよっぽど美味しいよ!」と一息に言った。

「せやなあ〜ちょっと小うるさかったなあ。初めてやから分からへんちゅうねんなあ」と合わせる私。はー、せっかくおいしいお店って思って張り切って探したのに。

「ほら、(漫才師の)和牛のあの『めんどくさいラーメン屋』(というネタがある)、あれにそっくりだったよ!(怒)」

「わは!そうやな!たしかに似てるわ〜!」と2人で笑い合う。

 

おっちんは、幼稚園の時に歯医者でネットでぐるぐる巻きにされて歯の治療をされたときも、

「わたしにこんなことをするなんて!許さん!」

と猛烈に猛烈に怒って、獣のように「ぎゃー!ぎゃー!ぎゃー!」と吠え続けた。

あまりの大声に、待合室の私はずっと縮み上がりっぱなし。

私が調子に乗って怒りすぎたときにも、担任の先生の理不尽な対応にも、意地悪な同級生にも、

「そんなことをされる筋合いはない。おかしいのはあなたのほう」「いやです」「やりたくない」と全て毅然と意思表示をする。

おっちんは、誇り高くってすごいなーと常々感心する。もちろん、まだまだ出来上がってはいないけれど、こんなちっちゃいのに、基準が相当定まっている。

 

おっちんが我が家のリーダーになる日は近い。

 

 

 

 

 

「マギーズ・プラン」

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グレタ・ガーウィグは、今一番楽しみな女優のひとり。

次に控えている作品は、彼女は出演なしの監督・脚本作品。自身の青春時代の思い出を自伝的に、自虐的に描いた「Lady Bird」という作品で、まだ日本公開は半年先だけれど、とても楽しみにしている。

 

で、この作品。いかにもニューヨーカーな映画で「私の好きそうな」作品、もちろん楽しめた。

 

グレタ・ガーウィグは、こういう「右往左往系」キャラクターが鉄板だけれど、けしてワンパターンではない。

本作の監督のレベッカ・ミラーやノア・バームバックも言うとおり、脚本も書き、監督もするグレタは、作り手の目線を持っていることが強みだと。

作品全体を俯瞰した上で、自身が演じるキャラクターというものをきちんと把握しているということが、女優としてのいい仕事にもつながっているんだろうなと思う。

前作の「20thセンチュリーウーマン」の格好いい赤毛の女も良かったなー。

 

 

ニューヨークという場所を舞台に、数えきれないほど多くの心愉しい映画が作られるのは、やはりこの街の持つ懐の深い自由さを愛する人がとても多いからなんだろうと思う。

どこで、どんな風に生きていても人は間違いをしでかすし、くっついたり別れたり、生まれたり死んだりするのはおんなじ。だけど、この街には圧倒的に閉塞感というものが感じられない。あまりにみんな違うから、社会的前提というものが最低限しか存在しないというところがある。その代わりに「人間」としての前提がある。だから不思議と世知辛くない。

 

世の中的にこうでしょう、と押し付ける感覚が薄く、どんなへんてこで突拍子のないことも、時には面食らいつつもまずは尊重するし、他人に迷惑をかけない限りにおいて、個人は自分の好きなように生きる権利があるということを、みんなが当たり前のように考えている。

その自由ゆえ、層の厚さゆえの峻厳さもあるのだが、「自分が自分であること」に妙な罪悪感を抱かなくて良いのが、ニューヨークという場所のいちばんの素晴らしさなんだと思う。

 

私は旅行で訪れたことがあるだけだけだけれど、やっぱり好きな街。なんと呼吸のしやすいところだろうと思ったのを今も覚えている。

あと、とても自分に似合う独自の格好をした、みとれるような素敵な人がたくさんいて、人をただ見ているのが楽しかったし、見ていて晴れ晴れとした気持ちになったものだった。

自分は、ニューヨークに住む人生にはならなかったけれど、一度は住んでみたかったなあと思う街。

 

 

「マギーズ・プラン」では、そんなニューヨークの街で、クリエイティブな分野で成功を収めて自由を謳歌している人々のありようが可愛らしく描かれている。

そこにあるのは、魅力的で、憎めないが少々幼稚とも言える自分勝手さを持ち、少しの苦さと引き換えに一生モラトリアムやっていくみたいな気楽で気ままな大人の人生だ。

 

ここに描かれている人間関係のいろいろが、こんなにも軽やかに「ま、いいっしょ」と受け止められるのは、それがニューヨークだからこそ。仮に日本でこの映画と同じ状況が起こったら「けしからん!」と言いたい人がいっぱい過ぎて収拾がつかないというかんじだ。見ている側ももっとウェットな感覚になると思う。

 

だから、この作品も含めいろんなニューヨークを舞台にした映画で、みっともないこと・クールなこと・ロマンティックなこと・ミゼラブルなことなどなどがいろんな角度で描かれるわけだけれど、「ニューヨークだからぜんぶあり、ま、いいよ」というところがやっぱり一番好きなんだと思う、結局のところ。

 

 

ところで、マギー(グレタ・ガーウィグ)とジョン(イーサン・ホーク)が出合うシーンで、マギーの女友だち(マーヤ・ルドルフ)が横目で「(気をつけなさい)彼は女たらしよ」と耳打ちするシーンがあるのだが、私は字幕の「女たらし」という月並みな言い方だけ見て、ふーんと聞き流していたのだけど、あとでだんなさんに、あれすごかったね、と言われて、何がと聞くと、マーヤは「He is such a panty melter!」と言っていたんだと。

ぱんつ溶かすって、すごい表現じゃないですか・・・!英語って!

とはいえ、コメディエンヌのマーヤ・ルドルフだからこそのこの台詞で、けして慣用句レベルではないと思う。

結局、このフレーズだけいつまでーも覚えていそう(笑)

とみざわさん(仮名)

金曜の取材、意外なくらいに楽しかった。

建築屋さんだったので、コワモテを想像していたのだけど、出て来たのはサンドイッチマンの富澤(眼鏡の伊達ちゃんでないほう)さんに似た社長さん。

目が合った瞬間、きゅーっと目尻を下げて笑う顔が、新鮮すぎた。

 

現地に着いてすぐ笑顔で出て来た、すごく爽やかで感じのいい20才そこそこの女子事務員さん、高校時代すごくスポーツがんばったんだろうなって感じの方、を見た瞬間も、おおーと思ったのだけど、最後までとてもいい意味で予想が裏切られた会社だったなあ。

 

良い場所には良い空気が流れているし、儲かってようがそうでもなかろうが、そういう場所は丁寧に掃除がされているものなのだなと思う。

また、その事務所にいる人が普段から笑顔で機嫌良く、あるいは萎縮したりやさぐれたりして過ごしているかどうかって、残像のようにその場に漂っているもので、入った瞬間感じられてしまうものだと思う。

 

入った瞬間に緊張したり、きゅっと胃が縮こまるような空間ってあるが、それは無意識に残像をキャッチしているってことなんだろう。

 

そういう意味では、人の感覚ってとても鋭敏で、例えば道の向こう側に見知った人が歩いていたのを見つけたとして、その人が自分に気がついていないか、気がついているのに気がつかない振りをしているのかって、一瞬で判別できてしまったりする。

人の感覚はすごいし、こわいものだと思う。

 

それで、その会社に入った瞬間私はどうなったかというと、

なんかちょっと笑いたくなった。くすくす笑いがこみあげてくるような。

心がうきっとして、ちょっと体温が上がる感じがした。

 

ばらばらな業種の大小さまざまな会社にお邪魔するなかで、これはかなり珍しくかつ、いい感じだぞ、と自分の感覚が告げている。

果たしてその通りであった。なるほどーなるほどーと、何度も腑に落ちながら、真剣に、時々吹き出しつつ話を聞いた良い時間だった。

 

だって、いかにも「ええ話」をした後に、目をキラキラさせながら、「ね、今の話面白かった?」といちいち聞いてくるのだ。

男性によくある戦国武将例え話、あんまり熱く長く列挙するので、「すごくお詳しいですね」と言うと、どや顔で「ええ、レキジョですから」ときっぱりと言い切る。歴女って、おんな〜、と心の中で突っ込みつつ、笑いをかみ殺す。

 

でも、ほんとに言ってる話の中身が素晴らしいのだ。取材前に目を通した先方の叩き台の文章では、かなりとんちんかんというか、言いたいことが全然分かんないな、今回困ったなみたいな感じだったんだけれど、話すと全然そうじゃなくて、すごくいいなあと思って。

 

普段目にする資料は、例外なく賢そうで、コンセプトとかなんかスタイリッシュで格好良い感じ。でも出来たものは結局この程度でいいの?みたいなことになってたりする。

やっぱり、賢そうに魅力的そうに喋ったり書いてあったりすることって、はったりみたいなことも世の中にはいっぱいあるということを改めて思う。

 

そういうのにけして騙されちゃいかんし、一見つたない表現や流暢でない話し方を見くびる事もけしてしちゃいかんと思う。当たり前だが「そこで語られていることの中身」が全てなのだ。

当たり前なんだけれど、格好良い見た目や、早口でもっともらしく難しい言葉、横文字とかで話すことに、普段人はどんだけ煙に巻かれているものなのか。あるいは、黙っている人が何も考えていないというのも、声の大きい者の傲慢な勘違いだということも。

いつもいつも心に留めておく必要があると思う。

 

 

あなたは仕事を、何のためにしていますか。仕事におけるやりがいとはなんですか。 

取材者に対して、この質問をすることは多い。

もちろん、きれいごとでなくお金を稼いで暮らして行くために誰もが仕事をしなければならないわけだけれど、

振り込まれたお金を見た時に、すごくやりがいを感じる人って、あんまりいないんじゃないだろうか。

 

 これまでに聞いた答えで圧倒的に多いのが、やっぱり「ありがとう」だ。

傍(はた)・楽(らく)との言葉通り、自分のしたことが役に立った、何かしらの意味があった、誰かに良い影響を与えた、そう思えることがやりがいである。もちろん。

 

この質問に関して自分がとりわけ印象に残っているのは、テレビで演出家の宮本亜門さんが答えていた言葉。それは、

「この仕事をきっかけに、一緒にやることになった仲間のみんなが、この仕事を通して少しでも『良くなった』と思えるようにしたい。それが自分がこの仕事をする意味です」

という言葉。成功でも喝采でも、お客さんですらなく、「一緒に演劇を作るみんなで良くなって行く過程」が自分にとっての仕事なんだよと。

 

その建築屋さんの社長さんは、言い方は亜門さんよりずっと下手だけれど、全く同じ事を言っていたと思う。

 

 

普段、結果さえあればそれでいい、どんだけ中身がぎすぎすしてても、人に強いても。そういう心持ちで仕事をしている人を見る事が多い。

そういう人は最短距離を行くことが最善だと思っている。そこに発見や何かしらの豊かなものを見出そうとする好奇心もチャレンジ精神もないから、自分の想定したとおりになるのが一番いいと信じている。

 

あらゆることが減点主義だから、面白い良いものよりは、ペナルティーを課されない、ソツのないものを目指して、汲々としてしまいがちなのはよく分かる。

でこぼこしたものなんて、特に評価されないどころか、突っ込まれておしまいみたいなことのほうが多いから。構造としてだれもが汲々としているから、面白がる気持ちが小さく縮こまっていて、何もキャッチできないまでになってしまっている。

 

でも、私は毎回「これ面白くないですか?」と小さく投げかけずにはいられない。

それで「無駄だし」と言われることの方が多いが、そこも想定しているので「まあそうだよね」とすぐ気持ちを切り替える。でも「どうすか?」をやり続けることができることが、自分にとってのささやかな生命線なんだよなあ、と思っている。抽象的すぎるかな。

 

自分はこれからもこういう感じがいいし、そうでなければやっている甲斐がない。

この社長さんを通して、そう改めて思えた。

 

「過程」を大事にするということは、人の生き方の背筋を正す。

『一度野暮になったら、戻れないんですよ。だからいつでも迷わず粋を選ぶ。』

どれだけやせ我慢ができるかということでもあると思う。

やせ我慢している男の人は、何才であっても魅力があるものだなあ。