続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

慌てる

朝回覧板に日付を書き込む時に、うそ、12月半分過ぎてる、と青ざめる。

ずっと先だと思っていたクリスマスに締め切りの原稿、もう待ったなしじゃないか!慌てて手帳を開いて仕事を調整した。

うあー結局年末まで、ばたばたなのかあ〜。

なんだかんだで用事が入り、じっくり腰を据えて書く時間って意外なほどないのだな、と改めて気付く。いつもながら気付くタイミング遅すぎ。

 

でも忘年会とかこつけて、人と会ったりするのは楽しいしなあー。

来週にもひとつ控えているが、先日の忘年会も楽しかった。感謝。

自分は自分でいいんだ、と日々言い聞かせてやっていても、自分が変わり者なだけにこれでいいんかとしょっちゅう不安になることも。

だから人生のステージ段階が似通った人に、それぞれの考えや選択についてざっくばらんに聞くことが出来る場はいつだってすごく大事だし、共通点がある人と話せるってシンプルにやっぱり嬉しく楽しいものだから。

 

 

さて、今日はこの後(何としても)ヨガへ行き、夕方からは源一郎先生の最後の授業を聴きに行く。10年以上教えて来て最後の大学での授業とのこと。名残惜しいがどんな話が聴けるか楽しみだ。

 

高卒就職の難しさ

今日は、久しぶりにだんなさんとラーメン屋さんに外食に行った。

だんなさんの好きな中華そば風のラーメン。おいしかったけれど、普段昼ご飯をあまり食べないので、まだもたれている。

夜もすぐにお腹が膨れるようになってしまったし、お腹が減った!と思うこともめっきり減ってしまった。衰えを感じるなあ。

 

とはいえ、昼はあんまり食べないわ、ヨガを基準に時間割考えてるわで、夫婦のおでかけ自体が久しぶりだったな、気がつけば。

たまには二人でドライブしたり、出かけたりしなきゃだな。

 

 

昨日は日中取材が1件。インタビュイーは社会福祉法人の老人施設で働く若い介護士さん。

ノーメイクの石原さとみがバレー部に所属しているというかんじで、とても可愛らしい方だった。

 

聞くと、おばあちゃんもお母さんも福祉の仕事をしていて、子どもの頃からお年寄りに触れる機会が多かったそう。介護の道に進むことに迷いはなく、高校在学中から講座に通って福祉の資格を取り、高校を卒業してすぐに介護士になった。

 

だからまだはたちそこそこ。でも先週インタビューした大卒の女性よりよほどしっかりしていた。自然体で芯の強さがあって、これからが楽しみと思わせる人だった。

 

「高卒就職」がテーマ。

高卒生の就職は、今超・超売り手市場で、一つの高校で例えば高卒就職希望者30人に対して求人が1000社とか来ているらしい。

だから一見よりどりみどりなんだけれど、定着率が非常に低く、大半は1年未満で退職してしまう。

 

世の中の人手不足は深刻で、特に介護と保育の業界は本当に現場は悲鳴を上げていると毎回取材していて思う。

保育の世界は資格が必要だから高卒生は入る余地はないし、老人介護の世界は、予備知識ゼロの高卒生がいきなり飛び込むにはシビアすぎる世界だから、無理もないだろうと思う。

 

結局どんな業界にせよ高卒にせよ大卒にせよ、社会の構造的な問題を根本的に変えていかなければ人手不足って絶対解決しないと感じる。小手先のことでは(それすらあんまりしないんだが)どーしようもない。

 

 

介護をはじめとした福祉関連の仕事に関して言えば、インタビュイーが他の若者と絶対的に違っていたポイントは「子どもの頃から周囲に年寄りが普通にいて、その存在や扱いに慣れていた」ということ。

 

今、大人になるまで似た環境の同年齢集団の関わりだけで育って行く人が多い。

老人も赤ん坊も障害者も、みんなそれぞれまとめて隔離されているから、一・二親等の家族でもいないかぎり、普通に生きてる中で多様な人と関わる機会が軒並み奪われている。

これでは、介護者も保育者もはじめて子育てする母親も、いきなり「さあお世話してください」ってなっても戸惑い、どん引きするのはあまりに当然。経験も免疫もゼロの状態で急に現実に放り込まれるのだから。

 

今の合理的・効率的と信じられている社会のありかたが、人のサバイバル能力や社会性やを低下させ、視野が狭く傲慢な考えを持つ人を量産し、多様な人と深く関わる仕事を難しくしている大きな要因のひとつだと感じている。

 

 

今朝、テレビのニュースで南青山で児童養護施設を建設するのを住民が反対している集会の映像をずっとやっていた。

「南青山のブランドイメージが傷つくので嫌だ」

「子どもに最高の環境を与えてあげようと億のお金を使ってこの地に家を構えたのに、家庭に問題あるような子が同じ学校に通うことになるなんて」

「ここは進学エリアだから皆さんたくさん習い事されていて、レベルも高いです。養護施設のお子さんはついて来れないだろうからかえってかわいそう」

「ここは優雅な地域で、一歩施設を出たら裕福で幸せそうな家族を目の当たりにすることになる。傷つくのは施設の子どもたちでは」

 

そんな意見が紹介されていた。

テレビの中の人々は皆「なんて選民意識を持った身勝手でいけすかない人たちだ」って眉をひそめていた。

私は「いや、自分もあの人たちと似たり寄ったり」ってまず思い当たらなければ、何の解決もないなとため息まじりに思った。

皆、きれいに自分のことを棚に上げるのだ。今の日本、程度の差こそあれ、こういう人全然珍しくないでしょう。周囲にいくらでもいるし、私だってそんなもんだ。

 

今日、おでかけの帰り道、車がすれ違えないほどの狭い裏道で対向車が来たので、アパートの駐車場まで随分バックしてなんとかすれ違った。道の両側にある家々は、どの家も道路のギリギリまでポールを立てたり、植木鉢を置いたりして、けしてタイヤが自分の家の敷地に入ってくることのないようにしている。

 

例えばそういう心のありようって、南青山の人たちと大差ないんだよなと感じる。

自分は人には迷惑など何もかけてなくて、他者から迷惑をけしてかけられたくない、困る人のことなど関係ないので知らない、というけちでいじわるな気持ちのありようが。

 

日頃から「おたがいさまなんだ」って思えるかどうか。

 

 

もうひとつには、昨日行った施設もそうだが、社会福祉法人って、税制的には大層優遇されているし、実際立派な施設を持ち、本当に手広くビジネス展開していたのだけど、どーうしても働く人の待遇を上げないのだ。

 

介護も保育も、人の世話をする仕事って主婦の仕事と延長線上に見られて軽んじられるのだけど、高いスキルと体力と細やかな感性が必要な高度な仕事。そして愛情だって必要で人間力も求められる仕事。

それが、めいっぱい働いてぎりぎりでしか生活が成り立たないような報酬では、誰も選ばないのは当たり前すぎるし、何より彼らの仕事に対する社会のリスペクトが欠けているのが問題なのだ。

北欧の国々のように、公務員として手厚く処遇するのが当然と思う。

 

雇用側は、それでも最底辺の給与体系でどーうしても雇おうとする。

本当の本当にいかんともしがたい零細企業もあるだろうが、もっと上げられる企業も全然あるはず。好景気とあれほど言っているのに。

 

企業は「そういうもんだ」と思って文句を言わずに働いてくれる、若くてものを知らない人が良いのだし、外国人ならより安い賃金で雇えるという発想がある。

彼らは「自分も若い頃そうやってこき使われてきたのだから当たり前」と思っている。

 

 

取材を終えて、インタビュイーのような、他者と豊かな関わりを持つ育ち方をしてきた人ならいざ知らず、高卒生が無知識からいきなり老人施設で介護士できるわけないなと思ったのが実感。

ただ求めています、といったところでなあ。大学生やらずいきなり社会人になることへの必然性や目的意識といった価値観形成がない中でいきなり朝から晩まで働け、では当然厳しい。

 

インタビュイーは「お年寄りが好きなんです。ありがとうと言ってもらえるのが嬉しくてがんばれる」と笑顔で話していたが、確かに、介護職は非常にやりがいのある素晴らしい仕事だと思う。

自分がデイサービスに関わっていたときも、あの独特な場には妙に癒されるというか、与えるよりも与えられていると感じていたように思うし、ライター業だけやっている今より明らかに精神状態は良かったように思う。時々無性に懐かしい。

 

そしてお年寄りが好きな若い人って実は結構いるはずなのだが、今の社会ではそのことに気付く機会がないので、ミスマッチは今後も続くと思う。

 

 

そういう中で、一人ひとりの若者が多様な人と関わり自分のオリジナルな価値観を持ち、世の中の提示する浅はかなイデオロギーに流されず、できる限りインディペンデントに生きられるように力をつけていくことが希望の道だと思っている。

「クィア・アイ(Queer Eye)」

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最近タイムセールで「Fire tv stick」を衝動買い。

あまりにしょうもない地上波テレビをつい見るということがなくなって良かった。

長時間視聴には気をつけないといけないけれど、これまで気になりつつも見ていなかったNetflixオリジナルの「クィア・アイ」を毎晩家族で楽しく見ていて、それだけでも良かったなーと思う。

 

クィア・アイ」大好き!なんて気持ちの良い人たちなんだろう。ファブ5のおかげで、いつも笑って涙して、気持ち良く眠りにつかせてもらっている。

 

アメリカのリアリティショーって、やはり演出過剰だし、編集のタイミングが私には早すぎて、基本は落ち着かない作りゆえ、好んで見ないのだけど、本作は内容とファブ5の人柄がなにしろ良いので見られてしまう。

 

軽く説明すると、画像の5人はファビュラス5略してファブ5なるゲイの5人組。

それぞれがファッション・ヘアメイク・フード/ワイン・カルチャー・インテリアという別分野のスペシャリストで、さまざまな課題を抱えた人たちのオーダーに応えて、彼らの特技でもって依頼者を幸せにする。

 

依頼者もバラエティーに富んでいて、支え方、生かし方、助け方も毎回違う。

ファブ5の面々の人間力の為せる技ってところが鍵で、彼らがすごく自分に正直に、人間を温かく見ているので、見ていると心が温かく励まされる。

いろいろな形のサポートなんだけど、毎度なるほどなあ〜と納得させられる。

 

私はファッション担当のタン(画像の右端、パキスタンとイギリスのミックス)がお気に入り。

彼はいつも素晴らしくスマートで趣味が良く、その人に似合う洋服を見つける才能には舌を巻く。

率直なのだけど、優しく思慮深い丁寧な語り口が見ていてとても気持ちがいい。

みんながタンみたいに、肯定的にデリカシーをもって人と話し合うことができたら、世の中もっと素敵になると思う。自分にとっても良いお手本。

 

彼のファッションについての考え方が素晴らしいのは、依頼者をただイケてる人にするということではないということ。ファッションセンスの優れた人がみなそうであるように、瞬時にジャッジする能力があり、取捨選択の断固とした基準をもっているが、タンは自分の感性を押し付けない。

 

その人が何を大事に思い、どんな自分でありたいかを毎回よく聴いて捉えることを基本とする。

ファッションの素晴らしさって、その人にとって違和感なく、また本当に似合う洋服を身に着けた時に、人はすごく自信を持って自分を好きになれて、その笑顔が周囲の人も魅了していくんだという循環を生み出すことなんだなあ、と毎回感じさせてくれる。

 

子どもたちは、ヘアメイクのジョナサンがお気に入り。一番オネエっぽい面白いキャラクターで、しかも依頼者を一番分かりやすく変身させるのはやはりヘアメイクなので、驚きが大きいのだ。

 

その他の面々もひとりひとりがチャーミング。言いたい事を明るく言うし、人の良いところを見つけて誉めるのがとても上手だし、真摯に向き合うまじめさと弱者への共感性の高さは、自らも苦労してきた性的少数者だからこそ。しょっちゅう一緒になって泣いていて、とても可愛い。

 

彼らが大事にしていることは、依頼者が自分に自信を持てるようにすること。そしてのびのびと自分を表現することを後押しすること。そのために、美しいもの・ユーモア・知識の力を借りること。けして本末転倒にはならない。

 

 

昨晩見たのは、トランスジェンダーの男性の再出発をサポートする回で、のっけから乳房を除去する手術室内での執刀のシーンから始まって驚いた。

 

そして、LGBTQとひとくくりにされがちな彼らが、実は互いのことを全然知らない、なんてことにも驚く。

ゲイのタンがトランスジェンダーの依頼者に、どういう思いを抱えて生きているか、何が困るか辛かったかなどを率直に対話しながら一から学び、反省したり共感したりするくだりもとても心温まるものだった。

 

そして見終わった後にじんわり温かく残る、

「その人がどんな性として生きるかを自由にさせてあげることのどこが悪いんだろう?他の人々の一体何がおびやかされるというんだろう?」

というシンプルな気持ち。

 

面白くて、人権や社会を学べて、差別と偏見から人を自由にしてくれる。

道徳の授業なんていらんから、子どもたちよ、これ一緒に見てようよ、と思う。

 

偏見と差別について

ボヘミアン・ラプソディー」から派生して思うことをもうひとつ。

 

子どもの進路についての話を友人・知人・先生たちとすると、先日も書いたが、おしなべて「同年齢集団の規定のルートから落ちこぼれる」ことへの恐怖がとても強いことにびっくりしてしまう。

 

定時制通信制高校や、不登校の子が通う学校、偏差値の低い学校に対する偏見、というか恐怖感?も、ものすごい。

 

人間が思考停止する条件は、

①恐怖(fear)

②義務感(obligation)

③罪悪感(guilt)

だとあるセラピストが本に書いていた。ほんとにそのとおりで、我が身を振り返っても強く反省の気持ちを感じつつ共感する。

 

私は自分が間違いを起こさないために、常々「不安と恐怖を煽るものには自動的に脳内アラートが鳴るように」「そのことを聞いた瞬間生命力が上がることを選択し、下がるものは遠ざける」を心がけているんだけど、②と③に対しては結構無自覚であった。

②と③のせいで、生命力の下がることを引き受けてしまうことが多々あった(泣)。

これもつけ込まれどころであったと気付くことができたので、今後はよくよく注意していきたい。

 

子どもの進学に対する同調圧力も、①〜③がもとになっていると思うのだけど、私は周囲の人と話していて、それに加えて「偏見と差別」も大きいものがあるなあ、と感じている。

 

偏見・差別は、誰かを「普通でない」と断じて上から目線で排除する行為。

差別する側は誰かを線引きして、自分たちは「普通」で安全地帯の側にいると思っているのだけど、一周回って自分をも排除することになっているというのが、差別の本質なのだなあと改めて感じている。

 

自分はものを知らないし、「偏差値の高い大学に入って就活に勝利して、大企業に入って、モーレツ社会人になる」という既存のマジョリティーが目指すルートに1ミリも魅力を感じず、子どもにそれを目指してほしいとも心底思っていないので、学校に対して「こうじゃなきゃ普通じゃない」という前提がそもそもない。

 

ので、大層な思想は全然持っていないが、そもそも「普通でない」学校に対する偏見と恐怖を持つ必要がない。

 

最近では、「高校にどうしても行く必要ってあるのか?」と思うことが多いくらいだ。

私がいいなと思う大学の先生たちは、新たな学びを始める以前に、「中・高で頭がちがちの指示待ち族になった子どもたちの思い込みを外すことにまず結構な労力を割く必要がある」と言っている。

 

中・高と違って、大学以上の教育では本人の興味に沿った自由な選択が可能なのだから、本人が望むなら大学生という豊かでモラトリアムな学びの時間を過ごすのは個人的にはとても良いことと思っている。

しかし、そのために必ずしも高校を卒業せずとも、世には大検というものがある。

 

いっそ高校時代は、つまらぬ場所でつまらぬ授業を無理に受けるくらいなら、旅してた方が有意義では?と思うくらいだ。

我が家では家を出ることも提案してみたが、優太自身が「高校の間は家族と一緒に暮らしたい」とのことだったので、あっそということになったのだが。

 

脱線したが、何かに偏見と差別を持つ事、つまり「普通」に固執することは、「普通」からこぼれ落ちる恐怖を自分自身に規定することとイコールであり、結果的に選択の自由と心の自由を狭め、義務と努力を強制し、自らを苦しめる行為とイコールになってしまっていると感じる。

 

そして、学校のことに限らず、これは全てのジャンルについて言えることだ。

 

どうして近年、自分が「社会の中の弱者」に強く惹き付けられ、それを知り学ぶことに結構な時間を割いて来たのか、改めて分かる。

自分は別段人権的でも善良な人間でもない。ただ自分が生きていて、広々とした自由を味わっていたい。自由が好きな人間だからだ。

 

あらゆる病、あらゆる障害、LGBTQ、美醜、才能の有無、老い、貧困、孤立、不合理、理不尽、腐敗、暴力、強制。

こうしたことに「ああはなりたくない、あの立場になるのはごめん」と見下すことは、良いとか悪いとかいう以前に、今ではもうきりがない、無理筋の考え方なのだ。

 

一億総活躍なんてとんでもない。

一億総弱者なのである。ほんとうは。

誰もが普通にしがみつき、おちこぼれないことに必死。

皆「わたしはちゃんとしてます」というていでいるけれども、

これだけ厳しい世の中で、全ての「普通」をクリアーしている人なんて、果たしているのだろうか?

第一、がんも認知症も二人にひとり。老いて死ぬに至っては、100%誰もがそうなる。誰もが非当事者ではいられないのだ。

 

弱者を切り捨てる、偏見と差別の世の中に生きていることで、誰もが実は深い不安と恐怖に耐え、劣等感や挫折感を感じ、他人を傷つけながら自らを傷つけている。

 

それが「自己責任」を叫ぶ世の中の正体なんだと思う。

 

そうして冷たい心と傷ついた心の狭間にある人が今とても、とても多いからこそ、

皆フレディに心を寄せているのでしょう。

 

フレディは、ある意味、欠点だらけの人物だった。

彼は、世の中の要請する「普通」にことごとく応えることのできない人物だった。

音楽のずばぬけた才能はあったものの、その他においては別段偉人だったわけでもなんでもなかった。マイノリティーで引き裂かれたセクシャリティーを持ち、容姿端麗でもなかった。そして人並みの優しさやずるさや愚かしさを持っていた。

 

私がこの映画についてあらゆる感想を持つ以前に、圧倒的に感慨深く思ったことは、

フレディは「our side」にいる。弱くておろかな自分たちの仲間なんだ、という実感だった。

 

誰もがフレディの中にだめな自分をそれぞれに見る。

そんな不完全で数々のハンデを背負った、しかも余命幾ばくもない人が、

ひとつも言い訳せずに命を燃やして、「We are the champion」と歌い、叫ぶ。

 

あなたは自分の人生を十全に生きているか?それで本当に悔いはないか?

フレディはただ歌うことで見る人にそう問いかけているのだと思う。

 

 

偏見と差別を必要悪と甘んじて生きることは、

数限りないジャンルの「普通」にしがみついて生きることの奴隷になることにつながっている。

相手のためとか正義とか以前に、自分が自由に幸せに生きるためには、差別と偏見はさまたげにしかならないのだ、といま一度心に刻んでおきたい。

 

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「ボヘミアン・ラプソディー」再考

朝、ゴミ捨て場の片付けに行くと、きりりと空気が冷たい。

気持ちの優しいクリスチャンのお隣さんと雑談しながら、ネットを畳み、ほうきで軽く掃いてゴミ捨て場を元通りにする。

 

お隣さんが息子が学校に行く時に、偶然顔を合わせたので「インフルエンザに気をつけてね!」と声をかけてくれたと聞いて、嬉しい。

片付けとか、声かけとか、日常のほんのささいなことを面倒くさがらずにやっていくということが、意外なほど人の心をしゃんとさせるものだ。

 

家事を難しく義務的に捉える必要は全然なく、自分なりの無理ない範囲でやればよく、完成度はどうでもいいが、

基本的心情として暮らしを暮らすことを軽んじないようにしたいと思う。

仕事なんて、生活者としての自分より、明らかに下にあることでいいのだ。

 

もっと家事に精を出したいな。これから年末に一気に向かうから、こざっぱりと年越しを迎えたいから、毎日ちょこっとずつ余計に掃除していこう。

 

 

今朝、ツイッターでシェアされていた「ボヘミアンラプソディ」の素晴らしいレビューを読んだ。匿名の方が熱い思いで書いていた、結構なボリュームの文章だ。

 

カメラワーク、ダイアローグ、そしてSE(音響効果)にも考察が及び、それらが少しもトリビア的ではなく、感動を生むための必要充分なアプローチであることを分かりやすく論じていた。

テクニカルなことに終始するのではなく、「この映画が私に与えてくれたもの」を、真摯に大きく表現した部分が何より、素晴らしかった。ひとりよがりの暴走ではなく、希望に満ちた説得力がある。

 

「ドラマ部分はさらっとしていてちょっと物足りなかった」なんてよう書いたもんだな自分、と恥じ入ったし、こういうのを読むと、私なんかが映画のことを書いてお金をいただいていていいのだろうか、としょっちゅう思ってしまう。

 

指摘されていたシーンは自分も映画を見ながら感覚的にはキャッチして、(良い意味での)引っかかりを感じていた箇所ばかりであった。

が、自分がただ浴びるように見て、そのまま味わうに任せてちゃんと意識化できていなかったところに改めて気付かせてくれた。

こういうものを読むと、感動がまたひとつ深まるのだよなあ。

 

 

「別に何だっていいんだよー」とだんなさんが言う。

 

観る人の条件は、一人ひとり全部違う。

ストレートかゲイかでも当然違うわけだし、人種や病や家族や見た目や才能すべて皆違って、それによって受け止め方が違うのは当然だから。

 

作り手の表現に深く寄り添って感動できる人もいれば、

クイーンって誰?フレディめっちゃ歌うめぇ〜!だけでも全然素晴らしいのだ。

すごい映画ほど、どんなゾーンでどのように受け止めても、それぞれに素晴らしいのだ。

 

ただ、どんな人がどのように見たとしてもはっきりしていることがひとつだけある。

それは、「フレディ・マーキュリーは、自分の人生を潔くまっとうした」ということ。

 

それでいいんじゃない?と。

その揺るがぬ事実だけは、観る人全てが共有できることで、そこに皆が涙したんだと思うと、なんだ改めて泣けるものがあった。

「さらば大学」上野さん編

良いお天気!だんなさんはこの寒いのに波乗りへ。

私は午後からヘナ、夜は家族で日帰り温泉の予定。夕飯作らなくっていいや!わーい。

 

今週は仕事に行ったので、明学の源一郎先生の講義に行けなかったのだけど、だんなさんが興味あるとのことで参加して、音源をとってきてくれた。違う考えを持った人同士の対話だからこそ面白そう、と。

上野千鶴子との対談、昨日と今朝、家事をしながら音源を聞いていたのだけど、とっても面白かった。二人の意見の異なる部分こそが刺激的で気づきが多かった。

 

上野さんて好戦的で怖いイメージを持っていたのだけど、講義を聴いて印象変わった。

バスッと言いたい事を言うがユーモアがあって一本考え方に筋が通っていて、なんだか気持ちの良い人なのだなあ。

フェミニスト」という言葉の響きに女性である自分自身も偏見をつい感じてしまうのだが、フェミニストだからこそ見える新たな視点ってあるんだなあと面白かった。

どんなに深く謙虚に考えているつもりでも、はっとするような「思考の穴」って必ずあるんだなあと思う。

 

だからそれまでの論が間違いということではなく、どちらも正しく、自分にとって納得性のある、自分に合った答えをおのおのが採用すれば良いのだ。人にとっての幸せは人によって全部違うのだから、答えが違うのは当然。

 

当たり前のことみたいだけれど、そんな簡単なことをすぐに忘れてしまう今の世の中だ。

そこには「正解を先生が知っていて、それを子どもが当てる」という形の学習を幼い頃からひたすらに繰り返し、ひたすらに正答率を上げていき、その正答率の高さによって子どもを仕分けしていくという教育のあり方が大きく関わっていると思う。

 

 

この連続講義のテーマは「さらば大学」で、大学教育を中心に、学校教育について考える。来週が最終講義。

自分自身の受けてきた教育についての総括、自分の子どもがこれから進んでいく道への考察、自分にとってのこれからの広い意味での学びといったことについても考えるとても良い機会になっていて楽しい。

 

 

しかしほんとにこれ、教育のただ中にいる学生さんこそ聴く価値のある内容なのに、若い人が少ないのがもったいない。

 

上野先生は言っていた。

「私は学生たちに『あなたたちに日本の未来は託せません!』そう言います。

 なぜなら私たち大人がこんな風にこの国を壊してしまった。その責任を若い人に一方的に押し付けていいはずがありません。

 だから私は、せめて彼らが日本だけでなく世界のどこでも生き抜いていけるように、難民になっても生き抜いていけるように、サバイブする、知を生み出す方法を力の限り伝授しようと思ってやってきました。

 今の教育の最大の被害者は、子どもたちなんです。」

 

最近年寄りと関わることが増えて、年配者が何を考えているかを実際に聞いてびっくりすることがたくさんある。

目上の人は敬わなくてはならないという道徳を多かれ少なかれ誰もが教え込まれているから、逆らってはいけないという思い込みが強くあるし、若者はなんとなく「年長者は若いもののために良きようにしてくれる」と思い込んでいるものだけれど、とんでもない。

 

年寄りにかぎらず、基本は人間誰も、自分中心に世界を見ているのだ。

自分さえ良ければいい、というとさすがに言い過ぎとは思うが、今の元気な年寄りは精神が若々しくて、同時に幼稚で欲深くなっていると感じる。

いつまでもバッターボックスから出て行かない人が少なからずいる。

 

私たちがばかにしたり、興味を持たず、あるいは対峙する事をめんどうくさく思ってあきらめ、年配者に丸投げしていることで、年寄りに相当都合の良いように制度設計されているものは、見渡すと実はかなり多くある。

 

でも仕方ないのだ。誰しも自分に見えている世界がすべてなのだから、それがセルフィッシュであるという意識すらおそらく持たない。

 

老害」に対抗するには、本当のことを知って賢くなり、違う考え、立場を確立したうえで地道にコミュニケートしていくしかないのだけれど。

「グリーン・ブック」

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2018年アメリカ作品/ピーター・ファレリー監督/130分/日本公開2019年3月1日〜

 

師走の小雨降る寒空の中、完成披露試写会へ。

監督とキャストとプロットを聞いただけで、もう間違いないでしょうと思った、とっても見たかった作品。期待にたがわぬ素敵な作品でした。

あの「メリーに首ったけ」の監督だけに、会場からも何度も「わっはっは」と笑いが起こって、重たい内容を含みながらも終始軽やかなユーモアが貫かれていた。

 

こういうアプローチ、やはり大事だと思うのです。

まじめなことをまじめに語るということ自体を否定しないけれど、笑いの力って素晴らしい。笑いを入り口にすることで心がほぐれて、素直に柔らかくなるから、物語がより沁み入る。

 

ファレリー監督の笑いのセンスは、いわゆるウィットというものとは違う。知的で意地の悪いアプローチではなくって、誰もがくすくすだはははって笑えるストレートな笑い。誰も嫌な気分にならない、ちょっと品がないけど可愛らしい笑い。

笑わせる才能がある人は、笑わせた方がいいに決まっている。

 

ヴィゴ・モーテンセンデンマーク系の俳優なのに、イタリアのチンピラへの化けっぷりはお見事。もちろん、ステレオタイプな「そういう系のひと」っていうのではなくて、すごく人間味がある。説得力と可愛げのあるトニー・リップだった。体格も、「アメリカン・ハッスル」のクリスチャン・ベール的な唖然とするような変貌ぶり。つくづくプロやなあ。

 

マハーシャラ・アリは、最高にエレガントでスタイリッシュだった。

でも嫌味なパーフェクト・マンではない、弱い部分がむしろ魅力的。人としてとても真摯ゆえにめんどくさい。時折見せる笑顔に繊細な気の弱さや素直な優しさを感じて、胸がぎゅっとなった。

 

人には誰しも育って来た環境というものがあり、どちらにも良い面とそうでない面がある。どちらの方がよりいいということはない。

お互いにその立場を想像することも難しい程に違う条件を抱えたふたりが、呉越同舟の旅をすることは、日々が発見の連続。

いろいろあるが、大きく出ない。過剰にドラマチックにはしない。さりげない中に喜怒哀楽が描き込まれていく。

 

だって、違う人と人が分かり合うのに、本当は特別なドラマなんて必要ないんだもの。

 

始めはひとかたまりのカテゴライズされたレッテルをたよりに相手に対峙する。

それが「人と人が日常を分け合い、日常レベルで助け合う」ただそれだけで、結構な割合で物事は善く変わる。

関わる人をひとかたまりの存在「黒人/白人」とか「◯◯人」とかで見るのではなく、「ただの一人のその人」として見るという視点を得られさえすれば。

 

分類やレッテルに固執する視点から離れて、その人なりのいろいろある人生を生きてきたひとりの人として捉えるようになるだけで、人はどうしても人に優しくなってしまう生き物なんだということ。

 

平凡極まりなく小さなことのようで、全てを動かす大きな人間界の法則。

それがこの映画が伝えている大事なことのひとつだと私は思う。

 

だから、世の中にはありとあらゆる差別やいろいろなカテゴリー分けがあるが、ただ双方がフラットに交わることをまずはやっていけば、物事は少なくともけして悪くはならないんだと思う。

 

その先の、ふたりが心の友になるかどうかについては、その人たちの持つ組み合わせの奇跡になるけれど。

 

バディムービーとして、非常にチャーミングな作品だった。お互いの足りない部分を補い合うようなふたり。

そしてこの「分断」の時代だからこそ、大きな値打ちを持つ作品。

時代の空気感の再現や劇中音楽も素晴しかった。

最後の一言まで、優しく笑わせてくれて、なんとも後味の良い素敵な作品だった。感謝。

 

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