続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

天山温泉郷

昨日はお義父さんも一緒に、お墓参りと久々の天山湯治郷。

天山、大好きな場所。できれば週1で行きたい。いつもの麦とろ屋さんのご飯も変わらず美味しかった。合格祝いで驕っていただき、いつもよりいいものを食べさせてもらっちゃった。

 

天山はオーナーの趣味が大変に良く、目に入って不快なものがどこにも無い。

注意書きや館内の印刷物、お土産物屋さんに至るまで、人の心をかき乱すものがない。

管理された完璧で清潔な空間というのでは全然なくて、手入れされているが朽ちるものはそれなりに朽ちていて、自然な木々がのびのびしている。

すり減っていたり色褪せていたりすることと、不潔なことは全然別のことだ。

心がかけられていることが大事なんだと思う。

 

とりわけ、今の自分のようなある意味センシティブな状況の人がいても、何も乱されないのはすごいと思う。

後で振り返って、気になったり我慢したりってことがそういえば何もなかったな、と思う。大したものだ。

 

広告チラシひとつ、臭いひとつとっても、目に入るものに無意識に「んっ」と我慢を重ねていることの及ぼす疲れって自分はかなりある。

けれど日本の町並みを見るに、皆そんなことはあんまり気にならないからこうなってんだろうなとも思う。

 

 

昨日は春休みということもあって、昨日も駐車場に車がたくさん。入る前は「うわー混んでる!」って思うのだけど、一旦中に入ると、もちろん人はそれなりにいるけれど、不思議ととても静かだ。

ごみごみした落ち着かないかんじがなく、人の話し声が耳ざわりに聞こえて来ない。それなのに川のせせらぎは聞こえてくる。

大きな窓からは風に揺れる木々や川が見え、空が広々と広がっている。

 

建築家でないので分からないけれど、天井の高さ、あらゆる箇所に使われる材質、館内の温度や湿度、落としめな照明、休憩所の配置や食事処などを含めた建物の構造など、きっと考え抜かれている。

小手先の心地良さの工夫とは、明らかに一段違ったものがある。

当然妙な音楽など流れておらず、水琴窟の水のしたたる音が小さく聞こえてくるのもニクい。

来るたびに、いつも見事な建物だと感心をする。

 

何より温泉に本気なのがすばらしい。泉質もパワフル、もちろん塩素臭いことなんてない。入り口では温泉水を無料で汲んで持ち帰る事ができる。柔らかい飲みやすい味で、ほんのり温かい。

 

他の温泉と違って、若者と外国人が多いのも天山の特徴。昨日も最初入った乳白色のお湯では、右隣が白人女性グループ、左隣が香港人か台湾人の2人組、向かいはラテン系のスペイン語で話す女性たちで、おっちんと私しか日本人がいなかった。タトゥーの人も普通に多い。

お隣の人が「メルティング・ライク・トーフー」と言っていて可愛かった(笑)。

 

しかし、一昔前は外国人女性は全裸でお風呂入るっての抵抗あるんだろうな、という風情の人が多かったけれど、最近はすっかり慣れっこになって皆さん平気で全裸で歩き回っている。昨日はタオルもかけず大の字で涼む強者もいたな。

 

お風呂ではおっちんの深い話をじっくり聞くことができるのが何より楽しい。普段からよく喋る子だけど、大きなテーマのことをふっと喋ることがなぜか温泉では多い気がする。

だから私たち女2人組は待ち合わせを1時間半後にしてもらっても、ぜんぜんまだまだ足りない。いつもあと30分入りたいよね、と言いながら慌ててばたばたとあがる。

のぼせず長時間楽しく入るには、湯温の違いと水風呂を上手く取り入れクールダウンしつつローテーションするのがミソである。絶え間なくおしゃべりしながら。

 

「大きくなったらおっちんがかせいで温泉旅行一緒に行こうね」と言ってくれて、もうお母さん冥利に尽きるです。

つらみとつよみ

ひどく肌寒く、雨がしとしと降っている。

昨日は暑いくらいで、もう春と思ったのに、一進一退。

今回は鬱っぽい状態から抜けないままに春に突入してしまったので(春は毎年不安定になってしまって大変)、精神状況が結構やばいことになっている。

 

あー辛いなあ、悲しいなあ、浮かび上がれないなあ、という気持ちを抱えてつつそれなりにじりじり歩んで行くやりすごし方は、デフォルトとまでは言わないが、いい加減慣れたというところはあるんだけど、今回はいささか危うい。

コントロールが効かないゾーンに片足踏み込んでいる感覚があって、ちょっと怖くなる。

 

まだSOSは出していないが、だんなさんはさりげなく様子を見つつ、いつも以上にプッシュすることを避けて接してくれる。お母さんのことがあるからこそとはいえ、勘が良い人が夫でありがたい。

 

とりわけこういう内面や精神のことは、自分がその状態に陥って初めてほんとうに実感として分かることなので、一番良いのは、普通に生きるのが大変な人たちの気持ちをほんの少しだけ理解できるようになることだ、といろいろ経験するたびに思う。

どこまでいっても上には上がいる。

 

当事者にしかそれについて語る資格が無いとはけして言いたくはないんだけど、現実としてはやはり、どんだけ本を読んでも映画を見てもましてや隣りにその人がいても理解できないゾーンはある。自分の想像力がたんに貧しいせいかもしれないけど。

 

今は、自分の能力や気力でなんとかできてしまう人たちの暴力的なまでの強さや(分からないので当然いかんともしがたい)元気で強い人たちの無神経さや残酷さみたいなものを、ひしひしと感じることができる。そこにかつての自分を見る。

 

そのたびに、ああ自分は何にも分かってなかったなあ、どんだけ人を傷つけてきたんやろう、そして許されて来たんやろうと途方に暮れ、申し訳なさに身がすくむ気持ちがする。

 

だから、自分は何にも分かっていないし、自分がそうだからと言って他人にとってはそうではないということをいつも心に留めておく謙虚さだけは忘れぬようにいたいと思う。

同時に、誰かの痛みを他人が共有することはできず、所詮他人事なのはしょうがなく、そのことについて自分を責めすぎたりする必要もないということも。

 

そんな自分だから、自分がきつい時に理解されないことがあっても、別に腹が立ったりはしない。今も、悲しさや孤独感は消えないが、湖面のように、どこかとても静かな気持ち。

 

むしろ思いがけなく通じた時には、プレゼントを貰ったような気持ちになる。

相手の思慮深さに対する驚きと尊敬。

孤独とうらはらの感謝を感じることが人生の味わいよなあ〜と思う、今日この頃であります。そして、いつかはこの状態が抜ける、と知っている(信じられる)事が、年を取ることの何よりの強みだ!

 

もうすぐ帰省。今の日常の色々から切り離され、遠くに動いて、違う空気を吸うのは良いことだと思う。おだやかな瀬戸内海の景色が大好き。

自動操縦ハードワーカー的生き方について

先日、ものすごく忙しい人と話をした。たまげた。

 

夫婦とも高度な技術を要する専門職で、フルタイム勤務で、さらなるスペシャリストの夫さんは一切家事参加などできない、母子家庭並みの状況という。

隙間時間に他のいろんな頼まれ仕事をこなし、週末はおかずをまとめ作りし、朝は早起きして2人分の男子の弁当も作っている。

 

自分の時間など全くないし、テレビなんてあっても観られない、だいいち座ってリモコンをぴっとするような動きをする時間が、家にいても一切無い、という。いろんなエピソードに目を丸くするばかり。

 

インタビュアー根性がむくむくもたげ、ついいろいろと質問してしまう。その業界にいる人の本音、とっても興味深かった。

しかしまー本当に偉い、スーパーマン。とても真似できない。だんなさんにめちゃめちゃ手伝ってもらいながら「はーたいへんたいへん」と毎日大変がっている俺ってなんだ!?と恥じ入る。

 

でも同時に、確かに自分は自分なりにいっぱいいっぱいなのだよなあ。

自分の実感として、忙しい。

忙しいってなんだろう?

こんなにも違う日常を生きていて、多分効率面では彼女にとても及ばないであろう自分。

忙しいって、主観的なものも相当に含まれているのだろうなと思う。

 

「どうしたら忙しくなくなるんでしょうね。どうして世の中の人みんなこんなに忙しいんでしょうね。話すと大変じゃない人って一人もいない気がします」と言うと、

「本当に。」と深くその方も頷かれていた。

 

 

そして、ハードワーカーの人たち(及びかつての自分の記憶も含め)と話すといつも感じることなんだけれど、「ちょっとありえないでしょうレベル」の大変さを粛々とこなしている大勢の日本人たちにとっての不可欠なエンジンは、「そういうもんだから」の思想だなあと思う。

そういうもんだで耐えたりやれたりしてしまうことは、相当あると感じる。「そういうもんだ」は、良くも悪くも強いのだ。

 

一度「なんのために?」とか「そもそもこれって?」とか考えだしたら最後。とても耐えられなくなるものだと思う。

だからこそ、企業は新卒採用を好むのだ。そこしか知らず、そういうものだと思ってやってくれるから。

 

また、ものすごく忙しいにせよ、ルーティーンとして安定していると、それはそれで継続可能なのである。フローだから。不規則で波があると、いちいち始動時に「えいやっ」とエンジンをかける必要があるので、それで嫌んなっちゃう。(私である)

自動操縦で無の境地で、流れに乗るようにやるのだったら、それはそれで楽なんである。

 

しかしだからって、それをいいとは今はやっぱり思えない。

かつての自分自身を振り返って思い起こすに、そこまでの忙しさの中で自動操縦でやっていくときのマインドって、無感覚で、視野が狭く、思考停止的である。

ちょっと現実味が欠けているような感覚もある。だから、いろいろ怖くなかった。

 

多忙による視野狭窄のなかにあると、漠然とした憂鬱さが薄いフィルターのように全体を覆ってはいるのだけれど、自分のいる枠組みの中のことしか見えないから、いろいろなことをあまり考えないし、感性が鈍っているので何にも影響を受けにくいし、だからわりと悩み少ないというところもあると思う。

 

本当に当時の自分は受け身だったし、疑問を持つということをしていなかったなあ・・・と思い出す。

 

今は、そういう意味では私は生き方が変わってしまったんだな、と改めて認識する。

違和を感じると、「どうして」こういう現象が起きたり、こんな反応が起きたり、こんな出来事が起きたりしているんだろう。と逐一考える。

観察し、底に横たわる仕組みや思想に目を凝らし、それと自分のありようを照らし合わせる。そして暫定的な自分の態度を決定する。

そういう、他人から観ればしち面倒くさいばかりの作業が、自分の基本のプロセスとして組み込まれている。

 

それは、?(はてな)だらけの日々とも言える。

そうなってしまったらもう、自動操縦的ハードワーカーとしては基本やっていけない。だましだましやる方法もあるだろうけれど、きりがない。

本質的には別の道を考えて行くしかないのだ。避けがたく道は分かれる。

 

逆に言うと、自動操縦的ハードワーカーをやっていくには、そもそも疑問について考える時間の余裕などないけれど、「疑問を持つことじたいを禁じる必要がある」ということは大事なポイントだ。

 

素朴な疑問を表明すると気まずい雰囲気になったり、そこから話を逸らそうという人々に出くわすたびに、疎外感や謎を感じて来た人生だったが、

サバイバルのために切実に必要な定型の心の動きだからこそ、疑問を忌み嫌う人々は問答無用の何かを漂わせているのだな、と腑に落ちる。

 

 

だからって、今の悩みがちな自分が果たして良いのかは疑問。

何事もバランスだから難しい。

 

自分の頭で考えることが過ぎるとエゴが肥大するし、思考停止し基準を外に委ねてしまうと何ものかの奴隷になってしまう。

 

 

何者でもなく、笑って日々過ごし、いろんな小さなことをじわじわと味わって、感性がいきいきした状態でありたいと願う。

 

赤いランドセル

曇り空の火曜日。

赤いランドセルを背負ったおっちんを、朝見送る。

今日がこの姿を見られる最後の日(明日は卒業式)なんだなあとはっと気付く。

日々事もなく過ぎていってしまうんだけれど、そういう風に二度と戻れない流れの中で皆生きている。

大事にしたいけど、つい雑になる。

何度でも思い出しながら、軌道修正をしていくしかない。

 

あっという間に1年、5年、10年。そうして気付いたらおばあさんなんだろうなあといつものゴミ捨て場の世話をしながら思う。

 

最近も、知人ががんになった。診断を受けたらステージ4だった。もちろん回復を信じているけれど、一度病のモードに入ったら、当分はそのことに注力する人生にがらりと変わってしまう。

 

だから元気なうちはとにかく悔いないように、やりたいと思った事はできるだけ何でもやっておこうと、この定番の言葉も何度でも思い出し、軌道修正をしていく。

 

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結局、髪を切った。ちょっとでも思いを手放し、明るくなれるかなーと思って。

いつも「短いのがいいですよ」と強力に勧めてくる担当の美容師さん。

前回も「結べる長さで軽くしてください」という私のオーダーに、

「どうして結びたいんですか?」ときたもんだ。

それでも、結ばず下ろしても格好がつくようにと丁寧にカットしてくださったのだが、結局毎日乱雑に後ろでひとつに束ねるだけの日々。

 

1カ月後の昨日、気が済んだので切りますと言うと、美容師さんうむうむとうなづく。

切り終わってチェックして「やっぱり短いのがいいですよ」ととどめの一言。

そんなに長いのはだめだったかあ〜(苦笑)。

帰宅して、やる気を出すべく、庭仕事していると、おっちんが帰って来て

「マー!きのこになったね!」と頭を撫でられた。

短いのもだめか。

 

昨日は庭仕事してとってもストレス解消になった。

今日もやることをやったら、庭いじりをしよう。

これから毎日やろう。

「ハイ・ライフ(Disjointed)」

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2017年アメリカ作品/原題:Disjointed/チャック・ロリー、デイヴィド・ジャヴァーバウム製作総指揮/Netflixオリジナル

 

シットコムのハリボテ感ってあんまり得意ではなくって普段なかなか見ないのだけど、キャシー・ベイツで、内容が内容(マリファナ売店が舞台。キャシー・ベイツは店主)だし、夜飲みつつイヒヒと笑って見られるものがいいなーということで最近見始めたシリーズ。

 

登場人物が皆ほぼハイで、ひたすらえへらえへらしている。ほとんどまともなやりとりが成立せず、でも愛があればそれでいいのであーる、というゆるゆるコメディ。

ひたすらくっだらない。出てくる人たちみんなおバカでみんな可愛い。

時々きつい下ネタにぎょっとするものの、とにかくフラットで風通し良くゆるゆる心地良い空気感。

 

一日いろいろあって、脳みそが疲れた日なんかにまったり30分これを見てだっはっはー、と笑って寝るのは、優しい気持ちになれるのでありがたいな。

ルースはさすがの肝っ玉母ちゃんな包容力でやっぱり素敵。彼女だけでなく、キャストみんなにだんだんと愛着が湧いてしまいそうな予感。

 

 

「へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と宅老所よりあいの人々」

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福岡にある風変わりでブラボーな老人介護施設「宅老所よりあい」の誕生から特養建設に至るまでの道のりを描いた痛快な一冊。一気読み。

 

出てくる人々のでこぼこして愛おしいこと。著者の鹿子氏の人物描写は、茶化しまくっているんだけれどとっても愛があって、その人の欠点やおかしな部分にこそ愛を見出していて、読んでいてにっこりしてしまう。

みんな要領が悪いゆえに色々大変で、しょっちゅうへろへろになっているんだけれど、肝心かなめのところでは、突出した人間力と私利私欲のなさで奇跡を呼び寄せてしまう。

 

こういう場所が身近にあったなら、安心して老いられるし、ぼけられるなあ。いいだろうなあ。

 

しかし、この本の中でも小さく触れられている通り、現状では小さくアットホームに人に寄り添ってやっていこうという介護施設は破綻して消えて行くしかないというのが大きな流れ。

今の政治は、分野に依らず個々人の幸福を大企業の利益に付け替える作業にだけは本当に熱心だ。

 

ここまで事業者がしぶとく死にそうに大変な思いをしてやっとこういう場が作れるので、内容・価格ともに良心的な老人施設は今後もどんどんなくなっていくだろう。

畑違いの大企業、建築会社・教育会社・居酒屋チェーンなどが資金力をバックに介護事業に次々乗り出している。

どんな場所でもがんばって誠心誠意やっている一人ひとりの職員さんはいる。

だけれど、こういう大資本経営のところは「サービスとはつまり、手間という手間を金で買い続けるしかない代行システムのことなのだ(本文より抜粋)」という基本姿勢にのっとってやる。世知辛いことである。

 

こうしたことをようく分かっている地域の人たちが必死に支えているのが「よりあい」なんだとも言える。

自分ごとになれば、大事なものは何かは明らかだ。自分の身になってみれば、こういう場所こそ切実に必要なものだ。

  

やはりと言おうか、こういうケースの中心には、類い稀なる人間力と使命感を持ったキーパーソンがいるのだよなあ。「よりあい」で言うと、下村恵美子さんと村瀬孝生さんのふたり。

 

何事もすごい人がいなければ成立しないと思うとそれまでだが、天から降って来たミッションからどうしても目を逸らすことができずに「どげんかせにゃいかん」の精神で覚悟を決めたことで、気がつけばすごい人と言われていた、というのもまた人間世界の真理なのだろうなとこの本を読むと思う。

 

今の自分には、この本の中で繰り広げられる怒濤の日々や人々のバイタリティーには圧倒されるばかりで、ただただ読者として楽しむばかりだった。

本やメディアで「よりあい」のことを知ってこういうところで働きたい!と思うチャレンジャーな若者がたくさんいることはとても喜ばしいと思う。おのおのが、好きで生命力が上がることをどんどんすればいいのだ。

 

今はもう作られていない「雑誌ヨレヨレ」も、なんとか入手して読みたいと思っているのだけど、探してもなかなか見つからない。気長に探そうー。

 

 

 

思い立ったらすぐ行動

昨夜、スウェーデンの三つ編み少女、グレタ・トゥーンベリちゃんが始めた、気候変動の危機を訴えるデモ「Friday for future」の記事を昨日おっちんが見て、「明日?おっちんも行ってみたい!」と言った。

 

学校でしばらく前に「地球温暖化について考えよう」みたいな政府のリーフレットをもらってきて、「地球を守ろう!未来は君たちの手にかかっているのです」みたいなコピーを見て、

「大人たちがめちゃくちゃにしておいてちゃんと対策せず、子供によろしくってどんだけ大人って勝手なの?」とおっちんは憤慨していたのだ。

 

おっちんのフットワークは誰よりも軽く、言い出したらすぐさま行動だし、誰にも止められない。

お菓子づくりだって、織物だって「何?やりたい!じゃ始める!」とすぐに準備して取りかかる。何時だろうがおかまいなし。

ランニングだって、映画だって、遊びの誘いだって、「行く!」の一言ですぐに着替えて動き出す。

 

何でもやってみたいっていうパッションに素直に従っていて、寝るのが夜中になると小言を言ったりしているけれど、内心めちゃくちゃいいなと思っている。

ほんとに見習わなくちゃと思う。自分はお尻が重すぎる。

 

おとといも、おっちんがあんまり軽やかに思いつきでお菓子作りしてるので、私もつられて夕飯の支度の合間にフロランタンを作ってしまった。

なんてことはなかった。そしてとっても美味しくできた。

 

今日は学校が午前授業なので、帰って来たら渋谷まで行くと言う。

いいよー、じゃあ付き添うよ、とだんなさん。

それで、すぐさま地球儀に重ねて「Save the Planet !」と書いたプラカードを画用紙に手描きしてせっせとプラカード作りをしていた。

 

優太はのんびりそれを見て、「ふーーん」というかんじだ。それで相変わらず音楽三昧。

 

それぞれ子どもたちが好きな事や興味あることに楽しく入れ込んでいて善きかな善きかな、と思う。