続・みずうみ

小さく平凡な毎日の中で、自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

子どもはえらい

ええ加減仕事をせいよ、と自分に突っ込みつつ、

忘れたくない小さな良い話をひとつ。

 

昨日、友だちNさんと話していて、彼女の息子くんがあまりにものほほんとしていてねえ、と言う。

 

友だちと一緒に通う進学塾で、先生がとても圧迫的(こんなことでどうする、このままいったら大変なことになるぞ的)なハッパをかけるのらしく、一緒に通う友だちは皆、帰宅後不安で落ち込んでしまっているのだそうだ。

友だちのママ経由でその話を聞いたNさんが息子に「先生いつもそんなかんじなの?」と訊くと、「えー?そうかなあ、先生そんなこと言ってるかなあ〜」といたって平気そうにしている。

 

また、部活で部活動ノートを持ってくるのを忘れると、罰として腹筋1000回なのだそうだ。マジのやつではない。弱小クラブで、腹筋が割れているような子はいないし、要は「子どもが全面降伏で泣きを入れる」ことを目的とした、しょうもない顧問によるしごきである。

Nさんの息子くんは、「えー?まあ、やれというならやるしかないかー」とすっと思い、副顧問の先生に「先生、数かぞえてください」と言って淡々と腹筋を始めた。

しばらくして先生が「これ、多すぎるよな」って(笑)

そうして適当なところで切り上げ、2日後にはまた部活ノートを忘れ、またも腹筋の刑に服した息子・・・。

 

笑いつつも「うちの子だいじょぶかね」というNさんに、「最高だよ!いや、最強でしょう、任せて安心だね」とにっこりとした気持ちで太鼓判を押した。

やっぱりいつだって、子どもの方が立派だな!と嬉しく尊敬する気持ち。

 

まっすぐでなんのひねくれもない素直な心は、正しいものだけを自然にちゃんと受け取っていくのだろう。不安や恐怖を煽るものは、特にジャッジすることも、抵抗することもなく、自然にすっと聞き流しして、きれいに忘れてしまう。

これ、大人であれば、ほとんど修行を積んだ高僧レベルではなかろうか。

 

また、抗えない立場の大人の押し付けた理不尽なことにも特に言い訳せず、かといってへりくだったりおもねたりもせず、なんでこんなことしなきゃなんねえのと反抗したり、教師を蔑んだりすることもせず、淡々と機嫌良くただやるべきことをやっているその姿に、大人が恥じ入らざるを得なくなるという。

 

子どもはひとつもえばらずにこういうことをしている。

どうして大人のほうが偉いなんて言えようか。

 

だから、親は子どもを信じるとか、そういう上からのことではなくって、子どものほうが圧倒的に間違っていないし、立派だというのが私の基本の考え。

 

シンクロニシティについて

今読んでいる、河合先生の本すごく面白くって、家事の合間にぐんぐんと読んでいる。

実生活的にためになることがたくさん。

 

今読んでいるパートは「シンクロニシティ」についてで、シンクロニシティって共時性と訳されることもあり、ずっと「偶然と偶然の邂逅」みたいに思っていたのだけど、そういうことじゃなくって、

平たく言うと「自分の無意識と外部のものが呼応する現象」なのだそうだ。

例えば、本屋さんで偶然目に入ったその本は、「たまたま」ではなくって、あなたの無意識が「これしかない」と選んだものなのだ。

 

そういう部分を今の世の中は無視して生きていて、因果関係の説明のつく、いわゆる「科学的な」ことを確かなものとするんだけど、じつはシンクロニシティほど確かなものはないんです、という話。

世の中の横糸が「合理的に納得のいくこと」でシンクロニシティが縦糸というイメージ、と河合先生。だから、合理的だけだと、半分しか生きていないし、見えてない、それじゃあ生きてて面白うない、という考え。

 

だが、よくよく考えてみると、「直感を信じる」なんてのは、この意味でのシンクロニシティに従って生きているということと同義で、私は結構こっちよりの生き方だと思う、すでに。

 

というか、男が理屈をこね回して悩んでいる間に、女はわりにすっと普通にそういう風に生きてしまっているってところないかなあ。女の強さの源は、男性よりも自然に抗わない生き物ってところなんだろうな、と感じる。もちろん自然を内包した男性もたくさんいるが、そういう部分に意識的にフォーカスし、自分を鍛えないと、男は女よりは社会的な生き物だと思うし、女は命を産み育てるという役割において、鍛えずとも自然に巻き込まれ、対峙せざるをえないんだもんなあ。

 

それでも、偶然になんとなく何かに出合う、見たり聞いたりするっていう、社会に出て行くことの大切さを再確認することだ。合理性と効率化だけでは、暮しは細ってゆくのだと。

 

だってアマゾンでばかり本を買っていては、家でネットでやりとりしているだけでは、無意識が呼応するものがないとは言わないけど、圧倒的に不足すると思うもの。

 

私はもっと、誰しも、どんどんぶらぶらするべきだ。

 

自分の中で、直感がめっちゃくちゃ研ぎ澄まされていた時期は、バックパックで放浪していた時期だった。

だって、何のプランもないので、二股の分れ道があったら気分で左に行ってみっか、とか、目についた店に入って適当なものを頼むとか、良さそうな人について行ってみるとか、何の制限もないので(若い女としての自覚をもっと持てという話もあるが、苦笑)、ずっと100%気ままにそういう風に全ての物事を決めて目標もゴールもなくただただ漂っていたわけで。生活のほぼ全てをシンクロニシティに委ねていたと言っても過言ではなかったと言える。

 

今思えば、最強の精神状況だったよなあ、と思う。

何に対してもとらわれがなくて自由で心が広々しているので、ものすごく気持ちが良いし、誰も自分を知らなくって、誰の何に対する責任も義務もなくって、だから余計な見栄や自我というものがどんどん消えてなくなって行くのでものすごく身軽だし、便秘ゼロ、いつもなんの滞りもなくすっきりさっぱりとしている心持ち。

今みたいに、人が全然怖くなかったし、絶え間なくいろいろなことをむずかしく考えていることもない。

 

直感が研ぎ澄まされている状態って、めちゃくちゃ面白いのだ。

旅の最初は痴漢に遭ったりしていたんだけど、直感がどんどん発達してきてからは、ほんとにトラブルに遭わなくなった。

道を歩いていて見なくても後ろに悪い人がいるとか普通に分かるし、どっちに行ってはいけないとか、これは飲まない方がいいとか、この人と一緒にいると何かいいなとか、全部普通に分かるから。

半分寝ているように生きている状態から、ぱーっと目が開いてすごく起きてます、っているクリア感が面白い。

「ラッキー♪っていうことがどうしてこんなにあるのかなあ、まあいっか」と思いながら過ごしていたが、今思えば当然のことだったのだなあ。

 

だんなさんに再会したのは、放浪の旅が3/4終わった頃。

インドネシアの小さな町で、夕方の路地で、見るものがみんなオレンジ色に染まっていた。猫と子どもたちがうろうろとしているのを見ている彼の後ろ姿を見ていて、まだろくに知りもしない、当然付き合ってすらいなかったのに「わたしはこの人に子どもをプレゼントしてあげたいし、その子どもを一緒に育てていける」って小さな雷みたいな思いがびりっと自分を貫いたのを今もはっきり覚えている。

それまで自分が子どもを産んで育てるとか、まして結婚すらもろくに考えたこともなかったのに、どうして子ども?と自分でも奇妙で不思議で仕方なかったんだけど、これはきっと自分の人生最良のセレンディピティだったなあと今も時々思い出す。

 

もっとも、当時だんなさんはそんなこと1ミリも思っておらず、無心に旅をしていた。時々発する言葉の端々に、私にまんまと騙されハンティングされてしまった、と思っているふしがある。むかつくが本当だから仕方ない。奴は貧乏くじを引いたと思っているであろう。

そもそもが「この人が好き、この人の子を産みたい」でなく、「この人とは私の子を育ててくれる良いコンビになる」という感覚に近いというあたりが、なんというか、もう動物そのもので笑える。

 

のろけみたいになってしまってバカみたいだけど、さほどに、直感=シンクロニシティというのは確かで間違わないものだという確信を放浪の日々に得たということはある。

 

私がまた旅に行きたい、という気持ちのベースにあるのは、何かを見たりしたり買ったりしたいとか、そういうのは二の次で、直感が研ぎ澄まされた状態にまた戻りたいからに他ならないんだろうな、と思う。

スピリチュアルな技術に長けた人や、宗教や武道や芸術をしている人は、日本で日常の生活をしている中で、そうした直感を研ぎ澄ませることを自然に鍛えているのだと思うけれど、私はどうも無理。勉強が苦手だし、弱くてへなちょこで、流されやすくって。旅が一番効く。キックを欲しているのだな〜!

 

だから、短期のパックツアーでは絶対にだめなのだ。ある程度の日数、ノープラン、一人であれば最高。でも今は気力体力も衰えて、不潔や寒さに対する耐性も弱っているから、もうおんなじことはとてもできない。つくづく若い時に行っていて良かった。

 

とにもかくにも、直感的に生きている状態にあることが、私にとっての幸せなんだわ、と再確認したことである。

 

 

 

 

 

子どもとランチ

月曜日はいつも、よしっと思っていろいろてきぱきやろうと気持ちは張り切るのだけど、

今日は人とのやりとりが多くって、気がつけばお昼。

途中友だちと長電話もしてしまい。

野菜をたっぷりいれた煮込みうどんを作ってだんなさんと食べ(よもぎ餅入り。旨し)、夕方からはヨガだから、ああ、一日あっという間に過ぎて行くなあ。

 

昨日は久々の息子と2人だけの時間、楽しかったなあ。

大会から戻って来たゆうたと2人で近所の自然食レストランでランチを食べ、有機農家の直売コーナーで珍しい、ぴかぴかとした野菜をたくさん買った。

食に対して家族で一番こだわりの人がゆうたで、次が私。おっちんはむしろワルメシが好きで、だんなさんは好き嫌いはあるがこだわりがない。

そんな我が家だから、こんな↓ランチは、ゆうたと2人、ならではだ。

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うっわーどれもおいしい、毎日食べたい・・・と言いながらブッフェのスープとご飯もおかわりしつつ嬉しそうに食べる中学二年生。

直売所では、有機野菜の生産者さんに時々質問なんかをしながら、野菜を飽きずにしげしげと眺めてはじっくり選んでいるので、農家のおじさんが喜んでルッコラや、はやとうりや、からし菜や、かぼすなんかをただでおまけしてくれた。

「すげーな少年。おじさんが子どもの頃は、母ちゃんとこんな風に過ごす時間なんてなかったぞ」変わった奴だなーと面白そうに言っていた。

 

ほんと、きみが中学生になって、一緒にランチしてゆったりお店を見るなんてできないと思っていたよ私も。久々にデートしたみたいな気分で、ほっこりしみじみとうれし。

 

ちなみに昨日は昨日で、おっちんとランチ、こちらはこってりラーメン。

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昨日も昨日で、女ふたりできゃぴきゃぴといろんな所へ行って、一緒に文房具を選んだりして楽しかったなー。

 

子どもと一緒にたわいもない話をしたり、うれしそうにご飯食べてる姿を見るのがとっても嬉しい。

 

今、ほんとに暮らしに余裕ができてうれしいなあ。

ぽかんと一人。

だんなさんはインタビュイーに会いに茗荷谷。おっちんはまりかとアニメ映画(「クボ」)を見にモールへ。ゆうたは部活で市民健康マラソン。

そんなわけで、もうすぐゆうたが帰ってはくるけれど、ぽかんとひとりの日曜日。

寒くてぐずぐずしてしまうな。

 

どんどん「いってらっしゃい」と送り出す役目になってるなあ。

最近、道で着ぶくれした赤いほっぺの子どもを自転車の後ろに乗せて、ぐんぐんと風を切って自転車を漕いでいるお母さんを見かけると、きゅんと切なくなる。ああいう時があったよな、って。

あの頃はわずらわしいし重たいし、ってぷりぷりしながら漕いでた時もあったのに、今はもう懐かしいような甘い感覚で思い返している。

 

何事も、濾過されるみたいにして優しい記憶だけが留められればいい。

 

 

最近読んでハー、と思った言葉。

「怒りが蒸し返すとき、誰かに仕返しをしたくなったとき、それは前に進んでいない時」という言葉。

 

時々、「思い出し怒り」というのがこみ上げる時がある。

なんであんな風に言われたり、されたりしてへらへらしていたんだ私。とか思ってキー!となる。もうとっくの昔に終わったことだのに。何かの小さな拍子に思い出し、出し抜けに身体がかーっと熱くなったりすることもある。すごく不思議で、理不尽に感じるこの心の動きって何やろう、と思っていた。

そういうのは、「自分が停滞しているサインなんだ」とクールに客観視すべきことなんだな、と思う。

 

また、「小さな言い返しを含めたあらゆる仕返しというのは、自分にとっては本当に無益」という言葉。そんな人のために、労力も時間も1ミリも使うことはない。ぜーんぶ自分のために使うんだ、ということ。

 

前を向いて、太陽の差す明るい方向を見て、自分自身と自分の愛する人にフォーカスする。静かな活気を持って。

 

 

今読んでいる本2冊のこと。

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ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」、わくわくが止まらない。知的好奇心をものすごく刺激される。勉強ってこういうことだよね!と思う。どうして学校ではこういうことをひとつも学べなかったんだろう。小学校の高学年から8年とかあるわけでしょう。あまりにもったいなすぎる。

大人になってから、歴史が面白すぎるし、歴史を学ぶ意義も大人になってから初めて分かった。

 

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茂木健一郎河合隼雄の対談「こころと脳の対話」、すごく分かりやすく、これもわくわく。久々の泰然とした河合先生節に癒されるし、茂木さんは若くて少年みたいにぴちぴちと活きの良いこと。

「科学」よりも「関係性」の話、とても納得。ここには人間関係の妙というものの秘密が隠されているなあ。まっすぐ、愚直に、気持ちに正直に生きることが、臨床心理的にも脳科学的にも一周回って人にとって幸せなことなんだなと思う。つくづく中途半端なさかしさはいらないものだ。

 

 

さて、やる気がでなくてずるずる引き延ばして来たが、そろそろ仕事の文章を書くとしようー。

 

 

ぬか床

昨日の部活でチームメイトと衝突し、足をケガしたゆうたは今日は朝練も体育もお休み。

それゆえ、ゆっくりとした今朝だった。

 

「週末の5キロマラソン、どうしても出たいから今日は走らないようにする。

体育も走り幅跳びで、本当はやりたかったんだけど。」

と、のたまうゆうた。

 

「すごいねえ、おかーさん生まれてこのかた、どうしても5キロ走りたいとか思ったことないわ」と、純粋にびっくりする。いやはや、とにかく走りが君にばっちりはまって良かったことだよ。

 

 

根菜が旬を迎え、昨日は筑前煮を山盛りに作った。

里芋大好きなんだけれど、皮を剥くのがほんとに苦労。食べるのはあっという間〜。

 

けれど、最近食事作りがやや面白い。先日ブログに書いた稲垣えみ子さんの食事本、私には結構はまった。

何より今、ぬか漬けが楽しくって。まさか自分のような人がぬか漬けの世話をできるとはついぞ思っていなかった。

でも、ありえないくらいにカンタン+かわいいのだ、ぬか床って。

 

ふかふかした土のような味噌のようなたたずまいは「生きてる」って感じで、なんだか愛着が湧く、というかもはやペット感覚。毎日かき混ぜるなんて、やってみたらちっとも苦にならなかった。

この中に、なんでも野菜を埋め込んでおくだけで一品できあがり、身体にもすこぶるいい、飽きずに美味しい。毎日食卓に出したらきれいになくなる。

 

今朝仕込んだのは、胡瓜、人参、干した大根の葉っぱ(根元のほう)、軽くゆでたごぼう(これまじおすすめ)。5分もあれば完了。

 

 

しかし、なんでここまでぬか床にびびっていたのか?わたし。ぬか床の手入れネットで検索してみて、そのわけがようくわかった。

 

こないだ長芋を漬けたらすごく美味しかったのだけど、たくさん水が出てしまったので、「ぬか床 水分」「足しぬか」とかでネットで検索をしたら、たくさんの情報が簡単にヒットした。

 

その一番上にあるページをクリックして読み始めたら・・・・胃が痛くなってきた。くらくらするほど複雑な手順、多くの材料、こだわりの技法。スクロールしてもしても、終わらない。

以前見たテレビ番組で、主婦のプロみたいなおばあさんが、ぬかの漬かり具合がぴったりの絶妙な時間に野菜を取り出すため、信じられない早起きをしていた映像を思い出す。

 

ここまでこだわって完璧にやれるか?いやいや私にはとてもぬか床やる資格なんてない、と思い込まされていたのだなあ。情報ゼロだっただけに。親がやっているのを見ていたりしたら、こんな過剰なおののきは必要なかったと思う。

 

実際は、水を適当に加え、野菜の取り出すタイミングもご飯作りのタイミングで適当。水っぽければ、ぬかをさらさらーと適当に加えて、混ぜて馴染ませる。それで良し。よく漬かっていても、浅漬けでまだ生っぽくても、それはそれでどっちもおいしい。こうじゃなきゃなんてだめひとつも必要ない。楽しく健康的に食べられれば、いつもめちゃくちゃ美味しくある必要なんてない。

 

 

私は「まじめか!」だから、そういうことがよく分かんなかったのだった。というか正直、「かんたんなことをわざわざ複雑に言っている」ことを真に受けていた自分に軽いだまされ感と腹立ちすら感じている。

 

ぬか床に限らず、これっていろいろなことに言えるんじゃないだろうか。

ただで何でも調べられるってすごいことだ。恩恵は計り知れない。

けれど、情報に対する付加価値を付けるために、他の人より頭一つ抜きん出るために、独自のこだわりポイントが加味されて、加味されて、「それだけのこと」がものすごくこみいったことになっているってこと、いろいろなところで起こっているのでは?

 

 

加齢と共にキャパシティーがどんどん小さくなっていっているゆえ、避けがたく「物事をできるだけ簡単にする。楽に無理なく続けられることを重視し、クオリティーを追究しない」ことを、食事に限らず暮しのあらゆる面で模索するようになっている。

 

明らかに以前より生きやすくなっている・・・・。

 

若い頃は、なんとか複雑なものに食らいついていけたから、できちゃってたからもっとずっと頑張っていた。

けれど、誰が誉めてくれても、すごいねって言ってくれても、ちっとも鼻高々になんてなれなかった。

いやいやまだまだ全然私なんて、って。

いつも「軽々と完璧にできている誰かさん」の像が脳裏にあって、それに比べて随分要領悪くしかやれなくって、へとへとになって機嫌が悪くなっているような自分に失望していたように思う。

今よりもずっとがんばっていたのに、いつも敗北感と隣り合わせだっただなんて、もったいなかったことだなあ。わたしよ、かわいそうに、ぐすん。

 

そんな紆余曲折あって、ちょっと肩の力が抜けている今日この頃。

こういうのは、年をとる事の善き側面のひとつであろうと思います。

 

 

「ザ・サークル」

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日頃からいろいろと思うところある「ソーシャル・ネットワーク・サービス」をテーマにしたこの作品。とても面白く見た。

 

インターネットというパンドラの箱を手にして以来、情報化や効率化やテクノロジーはかつてない猛スピードでドラスティックな変化を続けている。(進化と言い切ってしまうのにはいささかの躊躇がある)

 

私たちはそれを存分に享受し、楽しんでいる。誰もがそう思いたいのだけれど、本当のところ、それらの技術を人が十分に使いこなし、支配しているという感覚を持った人よりは、正直なところ後手後手で、なし崩し的な巻き込まれ感のなか、あっぷあっぷしながら必死について行っている、というのが実情、という人の方が多いんじゃないだろうか。

 

アップルのコマーシャルに代表されるように、IT関連のメディアは常に「これが今最もスマートでイケてることだし、これにすんなりと適応できるあなたがスマートな人」という方向付けで新しいサービスを喧伝する。

 

「したり顔で、こんなことなんでもないことさ、とすぐさまそれを取り入れ使いこなす人」を増やすことこそが、その種のビジネスの成功のカギだからだ。

 

 

この「ザ・サークル」という映画は、いかにも今どきのトピックを取り上げた現代ならではの作品、もちろんそれはその通りで、SNSというものに関するさまざまな興味深い示唆に富んではいたのだけど、私がこの作品で最も戦慄したことは、群衆というものがいかなるものかを「ただただ」描いていた部分だったと思う。

 

 

村上春樹の「沈黙」という短編がある。今や学校のテキストにもなっているらしいけれど、これは学生時代にあるクラスメイトに執拗に嫌がらせや中傷を受け続けた(わたしは「いじめ」という単語が嫌い)ある男性の告白という体で語られる作品だ。

その作品の最後で語られるのはこういうことだ。

 

「僕が怖いのは青木のような人間ではない。青木のような奴はどこにでもいるし、すぐに見分けがつくので、何があっても関わりを持たないようにするだけだ。

 

僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言い分を無批判に受け入れ、そのまま信じてしまう人々だ。自分では何も生み出さず、何も理解していないのに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する人々。

 

彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかと少しも省みたりしない。自分が誰かを無意味に決定的に傷つけているかもしれないということを、思い当たりもしない。

彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りはしない。

 

本当に怖いのはそういう連中です。」

 

 

 

この作品は、テーマやストーリーにおいては、「まあそうであろう」ということなのです。SNSが今後どういう流れになっていくのか、その中でどういうことが引き起こされるのかということは、ある意味ごく当然の流れと言える。

だから、作品をお話の筋立てとしてああなったこうなった、ということを受け身で見ているだけだと、あっけなく王国が崩壊するラストシーンとか、物足りなく思うだろうと思う。だって、当たり前なのだし、映画はそこにあえて強いカタルシスを投入していないので。一連のシュミレーションが帰結し、「ゲームオーバー」になりました、ということなので。

 

この作品はそこで繰り広げられていることを観察する映画なのだと思う。既視感を持って、じっくりと観察する。人と人との何気ない会話、交わされる言葉の発するある印象。笑顔や振る舞い、環境、インテリア。それらを見つめる中で浮かび上がって来る感情を咀嚼することに意味がある。

映画の発しているそういうさまざまなサインを、「もう慣れた、今風のごく当たり前のもの」として素通りさせて見るなら、あまり意味のない作品だと思う。

 

だから、挑戦的な物言いになるが、「なんだよつまんねーなー」(もっと楽しませてくれるやりようがあっただろうよ)という感想をもしあなたが持ったなら、あなたはすでに「群衆」の一部なのかもしれないということを、疑う必要があるだろう、と私は思う。

 

もうひとつの大事なポイント。作品の舞台となる魅力的なベンチャー企業「Circle」のCEOをトム・ハンクスが演じたことは、とても意味のあることだったと思う。

 

今、ハーヴェイ・ワインスタインの長期間に渡る性暴行が次々に暴かれて、古くはヒッチコックがセクハラ拒否の女優を業界から抹消した話から、逮捕されそうなケヴィン・スペイシーの小児同性愛までさまざまな暴露の応酬が止まらない映画界。

 

その中でやっぱり素敵だった、と株を上げた数少ない男性のひとりがトム・ハンクス。(ナンバー1はもちろんブラッド・ピット)共演の女優が誕生日に楽屋にトムがハッピーバースデーを歌いに来てくれたとか、撮影後の大道具を一緒に片付けると言って聞かなかったとか、セクハラとは真逆の素敵エピソードがいくつも。まあどこまでMr.ナイスガイなのでしょう〜。

 

トム・ハンクスは、いわば「アメリカの良心」を一手に引き受けている俳優。ナイスガイの歴史には誰よりも年季が入っている。古くは「フォレスト・ガンプ」「プライベート・ライアン」「アポロ13」などなど、最近でも「ブリッジ・オブ・スパイ」や「ハドソン川の奇跡」など、枚挙にいとまがない。

 

こんなん人としてバランス取れるの?相当おかしな性癖でもないとバランス取れないよーと冗談で話していたら、珍しく悪役をやるというので、そういう意味でも楽しみにしていた本作。

 

彼だから良かったと思う。終始、トム演じるカリスマ経営者ベイリー孫正義に見えてしょうがなかった(笑)。

 

ユーモアのある堂々として流暢なトーク、カジュアルで清潔感があって押し出しが強くなく、スマートでチャーミングな印象。

もはやプレゼンテーションの形としては定番になった、アップルやTEDのようなステージにひとり立って聴衆に語りかけるあのやり方。

 

感じの良いもの、スマートなものを、深く内容を吟味する事なく良しとする。頭脳明晰で、どこまでも感じは良くても、はっきり損得しか見ていないし、脳性麻痺の子どもすら、自分のロジックを説明するエピソードに持ち出してためらいがない。

 

彼らには、人としての「聖域」がない。「聖域」は往々にして他者に負けたり、チャンスやお金を失う原因になったりする。それを固持することは、時に他者にはぶざまでみっともなく、見苦しく見える。それは、平たく言えば弱みである。

けれど、本当は、それがなければ生きている値打ちもない。魂を売り渡しているのと同じこと。

 

風向きと機会を正確に読み、下手な「聖域」を持たず、チャーミングに振る舞う事ができれば、「いいね!」の数は最大化する。

日本のお笑いの世界でも、打って響くような会話ができなければ「ダメな奴」として秒殺で切り捨てられるのを私たちは日常的に見せられている。そういう会話ができない奴は、人として下、みたいな。

実際は、話し方はゆっくりでもへたくそでも、何を言っているかが全てだなのだけれど、流暢に話せる事や、その場の機転のきく事でその人が丸ごと判断されるみたいになっている。その結果、流暢で機転の利いた詭弁が世の中に溢れ返っている。罪深いことだと思う。

 

 

だから、誰よりもチャーミングで感じの良いトム・ハンクスが「本当の人でなし」を演じたことにすごく意味がある。彼の感じの良さやもっともらしさにモヤモヤする、その感覚にまずはぐっとフォーカスすることだ。

「Share is care!」といった、どこかで聞いたような分かりやすいキャッチフレーズも、人々の熱狂も、心温まるエピソードの提示も、これは形を変えた新興宗教であり、ポピュリズムの政治と同じことですよ、ということを良く見せている。

時に人々の賞賛や喝采は残酷なまでに無責任で、それは愛なんかでは全くないということも。

 

疑え、省みよ。

しかし私たちはもうすでに、手に負えないくらいの複雑で巨大なものを前にしている。

スノーデンが告発しているように、情報やプライバシーに関して個人が具体的に為す術ってもはやあるのかなという状況だし、

パラダイス文書の告発、アメリカの金持ちベスト3であるジェフ・ベゾスビル・ゲイツウォーレン・バフェットの資産合計が、アメリカの下位50%全員(1億6千万人以上)の資産合計を上回っているというニュースも。小さな個人はもう脱力するしかない。

 

こんな狂った世の中について、まともに考えてもどうしようもないって、やりきれなくなるのは当然だ。

 

だけれど、流されて気づかぬうちに、大事なものを明け渡してしまうことだけにはならないように。

そのことだけはぐっと腹に力を入れて考えておかねばなるまいよ、と思っている。

 

平日モード

昨日の雨は止んだけれど、寒々とした一日になりそう。

 

昨夜は夜の11時に駅へおっちんと友だち母子をお迎えに。

早朝3時半からずっと寝てないというのに、興奮気味に今日のことを語り、足がくさいと言われてやっと風呂に入り、(その間親はお先にと寝た)、深夜に新しく私が作ったスペースに寝袋で寝て。

 

朝はいつも通り早起き。6時35分に他の家族を起こし、燃えるごみの日なので家中のごみを集め、私が割烹着のアイロンをかけ忘れていたことを指摘、朝ご飯を作っている間にアイロンのセッティングをし(自分でアイロンをかけることはまだできない)、自分で朝ご飯をこしらえて食べ、いつも通り音楽クラブの朝練に間に合うように7時25分に家を出て行った。

 

今日はもうさすがに限界だろうから、何なら学校休んじゃえば、と思っていたのに、拍子抜けであった。

なんかこうして改めて書くと、おっちんはもう相当一人でもやっていける感じだ。自分の子とは思えんです。

 

 

さて、昨日がんばって長時間掃除と片付けをしたので、今日はこつこつ小さい事を丁寧に片付けてから、おでかけ。昼は友だちと。

 

 

体調悪く、ここ数日映画を見ていなかったので(テレビで「シン・ゴジラ」はちょろっと見たけど)明日・あさっては映画へ行こう、と計画を立てほくほく。

 

明日は、エマ・ワトソントム・ハンクスの、SNSをテーマにした新作「The circle」、あさってはエミール・クストリッツァの「アンダーグラウンド」のデジタルリマスター。175分!気合いだー。

 

ちなみに、近所のシネコンで、空いたスクリーンで旧作をひとつ、期間限定でかけている。12月の初旬からクリスマス前までは、「スモーク」をやるらしい。

私の生涯ベストシネマ100に入るこの作品。クリスマスにかけるなんて、粋だなあ。

この作品で描かれるニューヨーク、そこに息づく人間模様が本当に大好き。しみじみと苦く優しい。

ラストのモノクロの回想シーンは、「アメリカン・ビューティー」や「アニー・ホール」のラストくらいに大好きで、何度見ても涙なしには見られない。(と、思い出しても泣けて来る・・・)

ぜひともクリスマスにおすすめの映画です。

 

そして、この映画のスピンオフ映画とも言える「ブルー・イン・ザ・フェイス」も、ああ、最高にチャーミングで粋な作品。友情出演がゴージャスすぎるこの映画。でもさりげなくって格好良いこと。マイケル・J・フォックス、マドンナ、ジム・ジャームッシュルー・リード。クセと味がハンパなし。こっちは映画館で見た事ないからぜひ見たいけど、無理かなあ〜。

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