続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

上海オープン決勝

昨日の夕方は、庭に降り積もっていた落ち葉のそうじをした。

スーパーのビニール袋に4つ、それでも足りなくて、大きなゴミ袋を持って来てもらい、8割方落ち葉で埋まったら、もう辺りが見えないくらいに暗くなっていた。

 

ああ、田舎で小さな畑をやって暮らしたいなあ。

 

上海オープンの決勝、ジョコビッチーチョリッチ戦を見ながら夕ご飯を食べる。

どうしていいか分からないくらい、やっぱりジョコビッチは天才。

相手が勝つために素人が思いつく活路と言えば、なにか試合中にトラブルが起こって、ジョコが自滅するくらいしか思いつかないくらいに、完璧で、集中力が切れず、信じられないくらいのコートカバリッジを見せる。

1位返り咲きはもう間近だろう。

 

それでも一方的ではない面白い試合だった。

チョリッチがしばらく見ない間に随分進化というか、成熟をしていたことに驚く。

ニキビ顔の華奢な少年という風情は影を潜め、体はひとまわりがっしりと大きくなり、もの静かで端正なテニスをする。ひとつひとつのショットがとても丁寧で美しい。

いつの間にか、チョリッチの応援をしつつ見ていた。

 

スコアになってみるとジョコがあっさり勝ったみたいなスコアなんだけれど、試合内容はなかなかの見応えあるものだった。

あのショーアップされた大きなスタジアムで、たった一人で闘う。チョリッチの周囲はしんと静まり返っていて、内省的でさえある。

落ち着いた表情を終始変えることなく、丁寧に丁寧に一つひとつの返球をしていく。

アグレッシブさをむき出しにしたようなプレーよりも、なぜか心惹かれる。

これから応援したい選手がひとり増えて嬉しいな。

 

 

午後からは自転車に乗っておでかけ。

帰り道に立ち寄れるあの店で、悩んでいた洋服を買っちゃおうかどうしようか。

それよりも、冬の布団を出さなくっちゃ。

「プライベート・ライフ」

締め切りを気に病みつつ、役員仕事で朝早くから鎌倉。でも、電車では落ち着いて本が読めるのがいいな。

昨日、本屋さんで偶然オードリー若林のエッセイを見つけて、開いた箇所を2ページ程立ち読みしたらあんまり素晴らしくって、そのまま買ってしまった。

しばらく前から、若林がいいなあと理由はよく分からないままに好感を持っていた。エッセイを読んでみて納得。

読み終わったらまた感想を書きたいと思います。

 

おつとめが終わった後、何となくまっすぐ帰りがたくて御成通りのパン屋のカフェで軽い昼ご飯。冬瓜とひよこ豆のポタージュ・スープがとても美味しく、パンとの組み合わせの良さに一人悦に入りつつ、本の続きを読みつついただく。至福やなあ。

 

帰宅後は、いっこうに仕事はかどらず。今日はもうあきらめて、酒を飲む。明日がんばるのである。

 

f:id:beautifulcrown7:20181010100938p:plain

2018年アメリカ作品/原題Private Life/タマラ・ジェンキンス監督/124分/日本公開2018年10月5日(Netflix公開)

 

このところ映画館へ行くタイミングがなく、またもNetflix作品の新作。

見終わってしばらく経つもずしんとお腹に何かが残っている、素晴らしい作品。これまで見たNetflixオリジナル映画の中では一番。

 

不妊治療に取り組むひと組の夫婦の「プライベート・ライフ」を通じて、現代を生きるということ、現代人が得たもの、それと引き換えに喪ったものについて、多くの事を投げかけている作品だと思う。

 

身体・精神・倫理ともに、きれいごとでは済まないゾーンに避けがたく踏み込まねばならぬ不妊治療においては、それまで夫婦が互いに知らなかった面を見せ合うこと、それぞれの根本的な価値観をテーブルに載せることを避けられない。その悲喜こもごもがドラマの核として描かれる。

 

便利で発達した豊かな社会に生きていて、わたしたちはいろいろな科学技術や、お金や、知性などによって、相当自分の人生を思う通りコントロールできるという感覚を多かれ少なかれ持っていると思う。

妊娠出産は「授かりもの」という言葉のとおり、100年前はただままならないことであった。けれど現代では、科学の発達によってお金と努力如何で手に入れられる可能性が生まれた。しかしいまだ完全に人間によってオーガナイズできることではない。

不妊治療は現代人の生き方を深く反映した、とてもグレーで微妙なゾーンに属するトピックである。

 

 

先が見えず、長引く治療。お金はどんどん飛んで行くし、体調はぐちゃぐちゃで全てが妊娠を中心に回って行く生活。大変さのあまり、それが目下唯一の目標となってしまい、夫婦としての生活を楽しむ余地は消え失せ、子どもができさえすればすべて解決するかのごとき刺々しい毎日になっていく。

やがて着実に二人とも年を取り、挙げ句、老い卵子では役目を果たさないから若い女性の卵をもらったほうがいいとビジネスライクに医者に告げられる。

 

医者は確率論でものを言う。それぞれの段階で用意されたオプションがあって、段階に応じて粛々とやることをやるのだ、システマチックにお金を巻き上げながら。

 

中盤から、卵子提供者としての若い姪っ子が絡んでくる。

どこか幼さを残した、挫折感を持った彼女の存在がとても効いている。

彼女は見失っている夫婦にとって、本質的なことを省みさせる。

 

レイチェルとリチャードがかつては姪っ子の憧れの素敵なカップルだったこと。

髪振り乱して不妊治療する中で失われてしまった夫婦の関係性。

子どもが欲しいという気持ちの前には、何を犠牲にしても、損なってもそれを手に入れたいという執着。

彼らが忘れ果てていたり、考えぬようにしてきたことを、突きつける。

 

夫婦のために、姪っ子セイディが心と体に大きな傷を負ったことに直面して、夫婦はようやく不妊治療に終止符を打つことになる。

 

 

こういうことは、不妊治療だけではないのだ。

日々じりじりと現代の価値観を刷り込まれながら生きていて、その裏側には資本主義の原理が働いており、ふとした気軽な入り口から、いつの間にか抜き差しならぬところに巻き込まれてゆく。

ジャンルはさまざまだけれど、巻き込まれるようにして本質を見失ってしまう生き方は、実は世の中に溢れている。

 

いつまでも若々しく美しくあること。

自分や配偶者や子どもが社会における「勝ち組」になること。

病の克服。

有名で人気者になること。

あらゆる保険や保証。

 

自覚ないままに流され、人生の主役である自分自身を、自らの矜持のようなものを、いつの間にか何かに明け渡してしまう。

それは、便利で平和で豊かな現代の生き方におけるピットフォールだ。

 

 

レイチェルとリチャードの決断を通して、私達は人間の業というべきものをまざまざと見せつけられる。

 

欲しいものは欲しい。欲しい欲しい欲しい、何としても欲しい。

自分が今持っているものはデフォルトで、ゼロ地点である。

さらに得る事で叶えようとする。

 

どちらもは無理と諦めない、両方欲しい。全部欲しい。

望めば得られるものを得ないのは、不当で損なことである。

 

ままならぬことをそれはそれで良いとはけして考えない。

得られぬことで得る事や、そこから生まれる豊かさについても考えない。

 

そこにお金や努力で解決可能な可能性があるのなら、諦めずに戦い、打ち勝つのが善だ。

そして、そのオプションを手にして一度そこに投資してしまったら、何としても元をとらないといけない。 

 

 

良くも悪くも、それが現代人のマジョリティーの生き方なのだ。

自分も完全にその一員だと感じる。レイチェルは自分だとはっきりと感じる。

 

誰しも悪人ではなく、優しくありたいと願えど、人間はどうしようもなく弱く欲深い。

自分の幸せや欲望の前には、究極的にはどんなものでも「仕方ない」となるのが、人間というものなのだ。 

 

げんなりする事実。しかし、それが人間だと思い、そこから目を逸らさないで、何に希望を見出すのか。そこに人間の値打ちがかかっているような気がする。

  

レストランで養子縁組の相手をじりじりと待つレイチェルとリチャードの顔を見せながら終わってゆくラストシーンは秀逸だった。

深い挫折を共に過ごした日々の蓄積と、どこまでも限りないお互いのエゴを認め合う諦観を通して、彼らは今では男女を超えたひとつ深いところで結びついている。

 

なんともやるせなく優しく、身につまされる。心に残るラストシーンだった。 

パーソンセンタードって

 ちょこっとこのブログを書いたら、今日も書き起こしの続きだ。私は要領が悪いので、書き起こししてるといちんちがあっという間で虚しいー。むうー、がんばろ。

 

 

朝ご飯を食べている時に、今医療系の仕事に関わっているだんなさんが、「パーソンセンタードケアってさあ〜」と言う。

 

パーソンセンタードケアとは、イギリス発祥の考え方で、最近日本でもよく聞かれるようになった医療用語。

医療や介護の分野においてイニシアティブを握るのは、医療関係者でも家族でもなくあくまで本人なのだ、本人の意思が全てに優先される、ということ。

「あなたらしく生きるために」とか「あなたが本当に求めることに寄り添う」といった文脈で語られるのだけど、だんなさんはそれにもやもやしているみたい。

 

だってさ、

と、だんなさんは言う。

 

パーソンセンタードケアが大事だ!って語っている仕事仲間たちも、自分の身の回りの人々を見渡しても、普段の日常で「その人の意思や主体性や人生を尊重する」ってことを全然大事にしていないように見える、と。

 

パーソンセンタード、それ自体はもちろん良い考え方だと思うけれど、人生すべてにわたってそうじゃなきゃ意味ないのであって、それなのに人生の最後段階になってやおら「あなたの思いに寄り添います」とか「本当の気持ちを聞かせてください」なんて急に言い出すという違和感というか。

 

個人主義の厳しい自己責任の社会であるイギリスにおける「パーソンセンタード」と、日本のそれとは言葉は同じでも指し示すものは同じではなかろうし、特に今の日本の高齢者たちは、高度経済成長の時代を富の獲得や出世を燃料にがむしゃらに働いて駆け抜けるようにして生きてきた人たちであるからなあ。

 

 

ちょうどつい最近私が取材したのが、独自の保育理論を展開する田舎の某小規模保育園で、そこがやっぱり「チャイルドセンタード」を掲げていたんである。

 

教育学の分野で「アクティブ・ラーニング」とか「プロジェクト・アプローチ」みたいなやっぱし横文字が名付けられて、ちょっとしたトレンドになっている。決められたタスクを教育者が押し付けるのではなく、子供自身の心から湧き上がった好奇心から教育をつくっていく、発展させていくという考え方。本人ありきということで、パーソンセンタードケアとほぼ同じ考え方であると思う。

 

子供を「塞ごう」とするから暴れる。この園では、基本姿勢として塞がず、大人は子供がやりたいことをするための環境を整えるための後方支援部隊である。ルール決めも子供自身にさせるので、子供は率先してゲーム感覚でそれらを守る。なので、この園の子たちは基本とても落ち着いているのだそう。

子供も大人もストレス少なくらくちんという良循環が出来ているので、全体に機嫌がいいのだ。

 

さらに、幼児は乾いたスポンジみたいで保育者がいろいろ試せば打って響くように応えてくれる、目に見える成果と成長が日々感じられるということで、先生達の生き生きぶりに圧倒されるほどの保育園であった。

 

で、

そういう考え方の幼稚園や保育園は一斉保育の園に比べて少数派ではあろうが、そこそこ全国的にあると思うのだけど、この流れも小学校になると、

プツン

と、見事に切れてしまうのだ。

 

理事長先生が

「高飛車な言い方かも知れないけど、小学校にはうちの子たちを潰さないでほしいという思いがある」とこぼしていて、

じゃあ小学校・中学校教育に関わりたい気持ちはないのかと訊くと、

国の制度がガチガチすぎて、現状ではひとつも手が出せない、と言っていた。

 

ようするに、今の日本の大多数の人においては6才までの幼児と、後期高齢者に限定して、「あなたらしく生きる」ことを奨励されるという妙なことになっている。なんじゃそら(笑)

 

それはつまり、社会に貢献する前/した後の層においては「あなたらしく」生きれば良いが、それ以外の人々は自分の幸せをひとまず棚上げして、何かしらに貢献して生きるべきだという思想を反映しているように思える。

 

そのように考えてみると、我々は皆、随分病んでいるというか、思い込みがあるというのに気づかされる。

 

でも、人生がそんなことである訳はない。

じいさんばあさんじゃなくたって、日々誰もが考えて、それをベースにやっていくのが本来なのだ。

 

「私にとっての幸せってなんだろう」ということを。

ハイキング

日に日に秋の気配。

昨日はおっちんにせがまれて、電車に乗って二宮、吾妻山公園へ。汗だーだーになりながら。相模湾を一望できる頂上は気持ち良く爽快。

帰り道は迂回してブーランジェリーヤマシタでパンを、原徳商店で味噌を、駅前で地場野菜を買って、重たくなって帰る。

f:id:beautifulcrown7:20181010094909j:plain

 

f:id:beautifulcrown7:20181010094928j:plain

今日は私はこれから仕事に出てしまうので、おっちんはだんなさんと海へ行くらしい。小学生秋休み最後の日。

来年はきっともう、随分違ったライフスタイルになってしまっているのだろうな。

 

 

 

 

 

「おとぎ話を忘れたくて」

f:id:beautifulcrown7:20181008124907p:plain

2018年アメリカ作品/原題Nappily ever after/ハイファ・アル=マンスール監督/日本公開2018年9月21日(Netflix公開)

 

こういうさりげない小バジェットの作品をハリウッドが作れなくなっていることの受け皿にNetflixがなっている。ということをNetflixもよーく自覚しているのだろうな、という昨今のかんじではある。

マーケティング的になるほど、また別の弊害が起こりそうな予感はあるが、劇場公開の作品に見劣りしないクオリティーで作ってくるし、ドラマ好きな自分にとっては何にせよありがたい。

 

アメリカ黒人女性の抱える容姿に対するコンプレックスのすさまじさと、そこからいかに自由になるかまでの紆余曲折をお年頃である主人公ヴァイオレットを通して描く。

 

アメリカのヘアケア製品の80%は黒人女性によって消費されているのだそう。

一部の黒人女性にとって、直毛に対する憧れ、自前のカーリーヘアへの恥の感覚は徹底しており、多大な労力と費用をかけて、あたかも生まれつきサラサラヘアーであることを装い続ける人生を送っている人が少なからずいるということ、その維持の大変さをこの映画を見て初めて知って、驚いた。

 

私にとっては、ワイルドでゴージャスなアフロヘアーってむしろ憧れの対象だったから。古いがレニー・クラヴィッツのバンドでドラマーをしていた、シンディー・ブラックマンのイメージ。

 

一度水に濡れてしまったら最後、ちりちりになってしまう髪を常に隠して生きるというのは、自分の身体の一部を憎んでいるということだし、「けして濡らしてはならない」というものすごい爆弾=弱みを抱えているということで、大きなストレスを自ら背負い込んでいることに他ならない。

日々髪を作り上げるまでのディテールを何度も見せられる中で、これはたいそうしんどい生き方だわーと、見ていてため息が出る思い。

 

 

お話自体は、「ありのーままのー」私が結局一番魅力的なの、というとっても分かりやすいハッピーエンディングなストーリー。

主人公に多大なトラウマを背負わせた見た目が全ての毒親母ちゃんが、最後に地毛を晒すことで別れた夫とあっさり復縁するくだりなどは、あんまりの強引な大円団に鼻白んでしまったのだけど、

ヴァイオレットが、アイデンティティーをぶち壊されて、やけになってバリカンで頭を丸坊主にするシーンの痛ましいやら爽快やらのやけっぱち感は真に迫っていて良かった。

 

お勉強的でなくこういうカジュアルな感覚で、自分の知らない世界のひとつの差別のかたちを、背景を含めた構造ごとまるっと知る事ができるのも映画の持つ力のひとつだなと思う。

秋休み

秋休み中。昨日は、荒天続きだったこのところから打って変わって、晴天、さらに暑い。

 

海浜公園で音楽がらみの野外イベントをやっていると知って、昼頃から自転車に乗って行ってみた。

優太は楽しみにしていたクラシックのコンサートへ行ったので、残りの3人で公園へ。

 

芝生に座ってゆるゆるライブを聴く心づもりだったのが、行ったタイミングが悪かったのか演奏はなく、そもそも炎天下で汗がだーだーだし、すごい混雑で、お洒落なお店がずらーりなのだが、なんでもかんでも高いし、小1時間程で帰って来てしまった。

 

なんだろう、もはやあのいかにもなお洒落感に対して楽しくお金を払う気がしない・・・。つくづく飽きている。

一瞬、あ、かわいいとわくわくっとするのだけど、ちょっと見ていると一つも欲しいものがないなあ〜と思って、すぐに興味を失ってしまう。

 

表面的な「わたしたちっていけてるよねー」ということではない、何のためのデザインか。分かりやすく伝え、人を心地良く幸せにしてくれる、デザインのかんどころの有る無しということなのかなあ。

何であれ、もの本来の値打ちの上に「お洒落代」を乗っけていると感じるものは、あまり買いたいと思えない。

 

帰り道の途中にあるスーパーで食材などを買い込み、暑いから炭酸水を買って信号待ちの間に回し飲み。炭酸にくー!となりながら、なんておいしいんだろうと思いつつ帰宅。

 

 

15時半から楽天オープン決勝。錦織選手、メドベージェフに敗退。苦し。

メドベージェフのプレイスタイルは、ジョコビッチに似ているプラスビッグサーバー。まさか負けるとは思っていなかっただけにほんとにがっかりしたけど、メドベージェフがこんなに強い選手とも知らなかった。拾う拾う。

ズベレフとも互角にいけるほど、ポテンシャル高い選手だと思う。

試合後におっちんが一言「あんだけ細くて22歳でああいうテニス。そのうち壊れるねえ」

この先の故障を見越している恐るべき小学生である。

 

 

夜は、つい引き受けてしまった自治会の監査会へ。どんと資料を渡され、いろいろな仕事を一度に説明される。脳コワの自分には受け止めきれない情報量。以下略。

いつもどうして自分にはノーが言えんのじゃろう、とほとほと情けなく悲しく思うが、一所懸命教えてくれている方たちには何の瑕疵もなく、むしろ見えないところでこういう面倒くさいことを引き受けてくれている人たちが世の中にはたくさんいるんだよなあ、と改めて思う。

 

とはいえ、そういう事がきっとお好きなのだろうな、という方もお見受けするのでなんとかかんとか回っているというところもあるんだろうが、

私みたいに本気と書いてマジで基本やりたくないが、知っちゃったからには自分には関係ないとはなれないという中途半端な倫理観で勝手にがんじがらめになってしまう人においては、ぶっちゃけいつも「知っちゃったが最後の貧乏くじ」がスタート地点である。

いつも、ここからいいこと探しを始める。今回は長丁場だし、年長者に囲まれての仕事なので『ゆるーく行く』を基本姿勢に、とにかく気負わずやろうと思う。

 

どこもかしこも難しい?

個人的に気がかりに思っていることを書く。高校受験と塾に関することです。

 

上の息子が今年高校受験なので、友人知人に会うと受験がらみの話をすることも多い。

しばらく前から「おや?」と思っていることがあって。

 

 

神奈川県は、全国で一番塾通いをする子供の多い県である。なんと88%もの中学生が塾通いをしている。公立高校受験においては、シビアなヒエラルキー構造に依っており、「受験が過酷」といわれている。

様々な受験理由のひとつとして、高校受験に汲々とさせないために、子供に中高一貫の私立校を受験させる人もいる、そんな土地柄である。

 

私はこの地に越して来て結構びっくりしたのだけど、ここの「地の人」には、大学よりはむしろ高校を重要視する感覚の人がわりににいる。

当の本人のコンプレックスも優越感も、結構「高校の名前」に根ざしているのを感じることもある。

 

移住者も多いし、皆が皆そうなわけでは全然ないけれど、それほどに公立高校がヒエラルキー的なんだということのあらわれであるとは言えると思う。

 

 ちなみに自分の故郷では、統一試験で一定の成績の基準をクリアーすれば県立高校のどこかに振り分けられる「総合選抜」というシステムであったので、そういう感覚は薄かった。

 

 

話戻るが、周囲の人々で塾通いさせている人で、いざ受験校を決める段になると以前は全然考えてもいなかった、塾通いする前よりむしろ「ランクを下げた」学校を選択することにした、という話を、このところたびたび聞くのである。

 

そりゃその子の成績を逐一知っている訳ではないけれど、随分低く見積もっているという違和感を感じるというか。

もちろん人それぞれの選択なので、意外に感じながらも「そうなんだね」と聞いていると、お母さん達の語り口に共通のものがあるのに気付く。

 

決まって聞かれるのは、

「◯◯高校も今(内申点が)オール4必要なのよー」「◯◯は昔より随分レベルが上がっているらしいの」といった言葉。

 

ではでは、結局ほぼ高校浪人がいないのに、うちの子を含めた多くの平凡な成績の中学生たちは一体どこへ行ってしまうんだろう?と素人感覚では素朴に不思議になるほどに、

「どこもかしこも難しくなっているのよー」と皆さん言う。

「それで、結局安全をとって◯◯高校にしたんだ」という話もいくつか聞いた。

 

そして「我が子は笛吹けど踊らずで、結局勉強が好きじゃないんだよねえ、こればっかりはどうしようもない」というニュアンスの言葉が続くのだ。

 

成績を上げるためにせっかくたっかいお金をかけて長期間塾に通わせているのに、成績が上がって希望を叶えるどころか、結果的に当初の希望より下ランクの学校で手を打つことにした、という一定の謎の流れ・・・。

これじゃあ塾に行かせるかいがないのでは?と塾に関しては完全傍観者の自分としては素朴に疑問に思った次第です。

 

それでうーむ、と考えた末に、はたと思い当たったのは、

「そうか!むしろ塾に行っているからか!」

という、こと。

 

ここいらの中学生の親たちにとっては常識だけれど、今、学校の先生は受け持ちの生徒の志望校の適否については自分の意見や見解を語らず、曖昧にぼやかして言うことが主流になっている。

 

なので高い月謝と引き換えに責任を持って子供の具体的な進路指導をしているのは、もっぱら塾の先生たちである。

いよいよ受験が近づいたら、「そろそろ塾に行って下さいね」と担任の先生に言われた知人もいたほどに、その役割分担はある意味明確になっている。

 

 

そういう状況の中で、塾の先生がどういう理路でものを考えるだろう?ということを考えてみたら見えてくるものがある。

 

子供が数年周期で入れ替わっていく塾は、今後も定期的に生徒を獲得し続けなくてはならないから評判を下げられない。

「先生が多分大丈夫だろうと言ったのに、落ちてしまったではないですか。どうしてくれるんですか」とか言われるリスクも負いたくない。

合格率を100%にするためには、はなから「確実に落ちない高校」を生徒に選択してもらう必要がある。それを自ら納得して決断してもらう必要がある。

 

親子に納得させる方便として、「この高校もこの高校も随分レベルがあがっている、ゆえにお宅のお子さんにはここら辺が適当」という下方修正をしたインフォメーションを刷り込んで行くことは、塾にとって「理にかなっている」ということになるわけだ。

 

同時にこれはあくまで推測だけれど、「(私達は十分やることをやっているが)本人のやる気がないのはどうしようもない」というニュアンスで、責任を軽減する布石を打つことも、あるいは行われているかもしれない。

 

塾はもうひとつの学校みたいにただ長時間授業をして、ただ宿題を出して、自習室を提供して、それで成果が上がらなければ「自分の子供が怠け者で努力が足りない。これは自業自得なんだ、期待しすぎなんだ」という風に考える親たちが一定数いることからもそう思う。

 

学校以上に子供に勉強を楽しくさせて、何としても興味を持たせて、結果成績を上げるのもたっかい月謝には含まれていて当然だと私は思うんだけれど。

 だってもう本当に目が飛び出る程高いんだもの、塾代。コスパ合わねえ。

 

自分においても、息子を塾に早めに通わせてなかったばっかりに、という「出遅れ感」は申し訳ないがほぼない。

むしろうちの子の場合は、塾へ行かせなかったことで勉強が嫌いにならないで済んで良かったかなあ、と思っている。

 

 

さらにこれ、子供全員という訳ではないのがミソである。

いわゆる優秀なトップ校を狙って行く一部の子供に関しては、がんがん競争させてハッパをかけて、どんどん上を目指させる。ここをクリアーすればここも圏内だよ、といってお尻を叩く。成績優秀な子だけでクラス構成し、さらに座席も成績順に座らせる。

 

一部の優秀は生徒には、塾の看板にできるような「☆☆高校◯名合格!」に貢献してもらうために、難関校のオープン入試など含めてできるだけ多くの学校を受験してもらう。対してブランド力のある学校を目指せない生徒には、じゅうぶんな安全策を講じて合格率に貢献していただくと。

 

あえてラディカルに書いてしまったけれど、どうしても、あちこちの高校のレベルが上がっているという話に違和感を感じるんである。で、この言説の元は、学校が明確な進路指導をしていない以上、塾の先生にあると考えるのが自然である。

あるいは私の考え方がひねくれて偏狭にすぎるのかなあ?

 

選択と集中と適切なリスク回避。

学習塾業界にも、資本主義の原則がばっちり生きているのじゃなあ〜。

 

 

私にとっては、そもそも偏差値教育からして非常に奇妙で、そういうものにはあんまり巻き込まれぬよう、のらりくらり無駄なお金をかけずにやってこー。と思っているのみで、言ってみれば人ごとになってしまうのだけど。

でも、塾よ、あんまり子供たちの人生食い物にすんなよなあ(怒)、と思ってしまう。

 

とにもかくにも、今の学校教育は、つくづくゲームっぽい。

みな、鼻先に人参ぶら下げられたみたいについ躍起になってしまうのだけれど、いつだって思うのは、「その先に何があるんですか」ということ。

 

うちにしたってごく普通に暮らしていて、このゲームに関わらざるを得ない部分はまあ、あるんだけれど、真に受けないというか、そこにあんまり価値を置かないという姿勢で今後もいこうと思う。真面目に考えた末の、「ふまじめ」という姿勢。